4

 硝煙立ち上る武器を床に置くと、彼女は今しがた烝が取り落としたほうの銃を拾いあげた。
 視線に温度があるならやけどをしそうな、鬼の形相で睨み付ける烝を、いかにもいとおしげに見つめてなまえが微笑んでいる。そんな狂った光景よりも自分だけに見える文字列を追って斎藤は息をのんだ。
「君は、君は…変えたのか!」
 いくら足掻いても不可能だと諦めていた。
 もう一度挑んでみようと決めて、それでも流れさえ変わらぬことに内心疲れていたのかもしれない。鉄之助に救われたあの夜以来の興奮だった。けして動くことのない年表の、たった一行が消えた。白塗りされたような空白をのこして。
「さあ…しかしお墨付きがあるなら、心強い」
 視線も表情も動かさずになまえが呟いた。
「やめろ」
 憎悪さえ感じるような烝の呻きになまえはくるりと背を向ける。
「やめろなまえ」
「烝くん。…あなたならきっと大丈夫だと思う」 
 甲板を飛び越えた姿がふわりと落ちていく。
 あわてて斎藤が足元の銃を拾う間にも、小柄ななまえは漂流物を次々と踏みながら軽やかに駆けていた。頭上から砲射の気配はない。
「なまえあかん、あかんて、なまえッ」
 壁面に爪を立てながら烝が立ち上がる。銃を構えていた斎藤だが、もう援護の弾も届かぬ距離であると知る。一瞬隣に視線をむければ、文字通り蒼白な顔と目があった。
「なあ、『俺』やろなまえはちゃうやろ
 最前まであった『回答』は見えない。彼女が潰した。彼女自身の名前も見えない。ただぽっかりと空白があるだけだ。齊藤に答えはない。
(これですべて救われたのだろうか)
 残された男達はなすすべなく海上を見ていた。




 彼女を見た瞬間、ここが海であることを忘れそうになった。当たり前のように走ってくるから、敵も味方ももれなくぽかんと口を開けたことだろう。…いや、薄々出来そうな気がしていたけれど、実行する機会があるとは思わなかったのだ。
 (ススムが止めなかったのか?)
 普段のあれこれを鑑みるに、なまえの無茶に激怒するのは間違いない。他人事のように唖然とした辰之助だが、弟の呻きで我に返った。
「て、鉄、鉄ゥ!」
 茶色い頭が沈んでしまう。
 俺の弟が、家族が、鉄之助が。
「辰さんこっち!」
 鋭い声と銃声が重なって聞こえた。顔をあげる。なまえの体が傾ぐ。とっさに伸ばした手は飛んできた銃をつかみとった。かちり、と頭の中で何かが噛み合う音がした。…それからのいくつかのことは、あまり覚えていない。鮮明すぎて思い出したくない、というべきか。
 落下したなまえを見ていたのは『いつもどおり』の自分だった。つかのま水面下を黒髪がたゆたって、いれかわりに鉄之助の顔が飛び出す。
「なまえが!」
 敵を殲滅した今、飛び込むことにもう躊躇はなかった。冷たい波をくぐって下へ下へと水を掻く。
 ゆらゆら沈んでいく彼女には、長い、緋色の紐が絡み付いているように見えた。腹と足。紙のような肌色の綺麗な人形。冷たい水で、人目を避けて、ゆっくりとこわれて、それから…?
 頭の中で、またひとつ動く音がした。




 
 抱えた膝に顔を埋めたまま、鉄之助はきつく目を閉じた。赤い色を絡めて沈んでいくなまえの姿と、彼女の手を握りしめた烝の横顔が、眼裏から離れない。
 現在二人ともが良順の手術を受けている。先に聞いた話によれば烝は比較的軽傷らしい。あくまで比較的、であって、今後元通りに動ける可能性は低いそうだが。なまえのほうには「難しい」とだけ呟いていた。
「鉄」
 辰之助の声で顔をあげる。
「ちょっと外行ってくる」
「ああ、うん…」
 血と膿のにおいに満ちた船に、まだ慣れない。
 仲間の誰かがこのにおいを纏っている現実に。
(俺は守られた…)
 膝を抱えた手を握る。拳が震えた。
 なまえを引き上げ乗船した時、烝の視界には自分も辰之助も入っていなかったように思う。その時初めて気がついた自分の鈍感さを呪いたい。ずっと一緒にいたのに、今になって、ようやくわかった。
 …例えば沙夜が誰かを守って傷ついたら。
 …目の前にいながら何一つ庇えなかったら。
 烝にとってのなまえは、自分にとっての沙夜、あるいはそれ以上だったのだ。仲間であり、友であり、家族になりたいと願う「特別」。
(なのに俺、俺は…!)
「終わったぞ、市村。兄は…上か?」
 ガチャンと開いた扉から、熊のような風貌が顔を出した。
「松本先生、ススムとなまえは
「…山崎は問題ない。しばらく動くのに不自由はするが、遠からず回復しよう」
 良順はそれきり口をつぐんだ。鉄之助が切望する答えはない。項垂れた肩に掌が置かれた。
「兄はどうした」
「あ、上に…」
「呼んでこよう。なまえが君たちを呼んでいた」
「俺たち?」
 良順は困ったような笑顔を浮かべた。
「…あの子は強すぎたのかもしれんな」
 意味を聞くより早く良順は背をむけた。
 ためらいをのみこんで鉄之助は扉をたたく。
「なまえ、入るぞ?」
 恐る恐る扉を開けると寝台に腰かけていた烝が顔をあげた。その肩にしなだれていたなまえが、緩慢に片手をあげて笑う。
「鉄っちゃん…」
「なまえ、傷は」
「痛くないから大丈夫。こうして起きていられるもの。ねえ、モルヒネって凄いのよ?ちょっと眠いけど効果絶大なんだから」
 顔色こそ良くないが、いつもどおりの穏やかな口調に鉄之助はほっと息を吐いた。
「よかった…」
「ふふ、びっくりさせちゃったね。ねえ烝くん、私お湯飲みたいな」
「は?怪我人動かさす気か」
 無表情だった烝の眉が動くと同時にname#がふんわりと笑う。
「隣に南部さんいるでしょ。歩行練習にはいいと思うけど」
「いや、えーと、それなら俺が」
「鉄っちゃんはここにいて。ねぇ烝くん、こんな時くらいわがままきいてよ」
 笑いながら、それでいて少しも譲らないなまえに烝は一瞬形容しがたい顔をした。すぐに無表情に戻って溜め息をつく。
「…しゃあないな。必ず飲めよ」
「うん。ありがとう」
 もたれ掛かっていたなまえをごく自然な動作で烝が抱き締める。数秒してゆっくりと寝かせてから「鉄」と呼んだ。
 唖然とした鉄之助がようよう近寄ると、
「あと、頼む。寝かせんといてや」
「お、おう」
 甘い情感など微塵もない口調で言い、松葉杖を掴んで出ていった。開け放した扉の向こうから隣室を訪なう音がきこえる。
「お、俺いて良かったのか、これ」
「よかったのよ。…こっち来て」
 とろんと眠たげな声でなまえが呼ぶ。手招かれるままひざまずき顔を寄せると、小さな声が囁いた。
「烝くんは、鉄っちゃんたちがいれば、大丈夫だと思うの。だけど、もしも、どうしても…こわれてしまうようなら、終わらせてあげて」
「は?何言って」
「…ひとりはかなしいから…大丈夫だって、思ってたけど、…ひどい事を」
 うわごとのような声が途切れて、慌てて鉄之助はなまえの手を掴んだ。何度か揺さぶると閉じた瞼が震え、深い息が吐き出される。
 長くない。
 直感的に理解した現実に冷たい汗が伝う。
 モルヒネは回復の薬なんかじゃない。痛みを和らげるそれがいったいどれほど使われたのだろう。薬も摂りすぎれば毒だと言っていたのは、烝だったか、なまえだったか。
「駄目だよ、なまえ。俺や辰兄じゃ…だって、あいつは」
「てっちゃん」
 ひゅう、と喉を鳴らしながらなまえが囁いた。
「おねが、い」
 掴んでいた手から力が抜ける。
「なまえ?」
「…ッ」
 がしゃんと堅いものが砕ける音が響いて、鉄之助は開け放たれた扉を向いた。足元の破片に目もくれず、かつかつと杖の音を立てて烝が歩み寄る。
「…必ず飲め、て言うたよな?」
「ススム…」
「なあ、何とか言えや。なあなまえ…なまえ、いまならちゃんと俺、わがまま聞くで。もっと言うたらええやろ」
 呻きながら杖を捨て、烝は横たわるなまえの元にすがった。脱力した腕を取り、閉じた瞼に触れる。泣き顔を見るのは二度目だった。
「仕事なんてせんでええ。海路も二度ととらんから、なまえ、」
 かける言葉を探した鉄之助は、少し迷ってそのまま背を向けることにした。拾いあつめた陶器の欠片はいたたまれないほど白かった。