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 空耳かと思った。
「…おぉーい…」
 豆粒ほどに見えた人影が手を振る。
 視認してススムは大きく息を吸い込んだ。 


 腕組みした男が眉をしかめる。
「装甲船?そんな報告は来ていないぞ」
「ですから私が参ったのです」
「下がれ小娘!伝達役はそなたでは無かろうに」
 扉の前を固める男二人になまえはもう苛立ちを隠す気も起きなかった。部屋の中に会話が聞こえぬわけでもないだろうに、知らぬふりを続ける人物にも。
「鉄装甲の不審船。どう考えても軍備目的でしょう!それがすぐ側に停泊しているという非常事態がわからないのですか、あなたがたは!」
 警備役を与えられるだけあって頑強な見た目だが脇を抜くのはたやすい。こんな、死線を知らない者どもに、危険を説く時間はない。
「御軍艦頭様ッ。新撰組土方副長より御依頼です。至急伝達系統の確認を、いいえ、これから『敵襲あった場合の発砲』をすみやかに許可していただきたい!」
「ええい女子風情が、職分をわきまえよ!」
 拳で横っ面を殴られる。体が飛ばなかったのは扉の持ち手にしがみついていたからだ。痛みよりも焦りで脳髄が揺れる。中から応えはない。力任せに扉を叩く。後ろ髪を引っ張られても再度殴られても、二度、三度と。
「御軍艦頭様…肥田様!」
 ぱん、と小さく、乾いた音がした。
 警備役二人がまず動きを止め、なまえが叫ぶ。
「聞こえますか肥田様!たった今、襲撃されているのですよ!」
 殴りつけた扉の向こうから小さな声が返った。
「そ、某の…裁量では…」
 なまえはあえぐように肩を上下させた。呪いの言葉を吐きたいところだが、それどころではない。かわりに後ろでおろおろと顔色を変えた男二人を睨みつける。
「このような状況ですと、『御軍艦奉行様』に至急お伝えください。子供の使いぐらいできるでしょう?…何が職分だ役立たずども、死にたくなければさっさと走れッ」
 棒立ちの尻を蹴り飛ばしてなまえ自身は船外へむかい走り出す。



「こんアホんだらッ!」
 満面の笑顔が一瞬で固まる。
「なんで戻ってきよった」
 演技に演技を重ねたお膳立てが台無しである。沸騰した怒りはしかし、後ろで陰った辰之助の表情を見た途端にしぼんでしまった。
 ここに兄弟二人で戻ったのは。
 沙夜の手をとれなかった、ということだろう。
(…俺は随分恵まれとる)
 一番望む相手と離れずにいられる。今後の保障がなくとも、少なくとも今現在の安否を把握していられるのは、幸せなことだ。その恵まれた場所から鉄之助を罵倒するのはさすがに気が引けた。
「…さっさと乗り」
「お、おう!」
 決まり悪げだった鉄之助の表情が明るくなる。
 次の瞬間、ぱん、と破裂音が響き渡った。
 先程まで舟を漕いでいた船頭が水に落ちる。人が肉の塊になる瞬間真っ先に反応したのは辰之助だった。弟の頭を掴んで床に臥せる。
 市村兄弟の無事に安堵する一方、次々と連続する破裂音の出所…狙撃手の位置を確認して烝は舌打ちした。浮遊物のある波間を走ることは可能だが飛び道具を用いても反撃は困難。救出への進路は無傷で抜けられそうにない。
(くそ、『アレ』携帯するべきやった)
 先にたたぬ後悔をしたところで、頭上が陰った。
「山口殿!」
 だん、と飛び降りてきた重みに足場が揺れる。
「とんだ鼠が居たな」
 着地と同時に放たれた弾丸に烝は瞠目した。正確にはその銃。重みから銃身の長さから引き金の固さまで全てなじみきった、自分の銃。
 武器庫にひとまとめになっていたはずなのに、なぜこうも都合よく彼が持ちだしているのだ。襲撃をあらかじめ知っていたような行動である。しかも当然のように使用して。
(ほんまもんや、こん人)
 口にしかけた言葉を海面の状況が飲み込ませた。市村兄弟の乗った小舟が傾いてきている。沈没すれば身を隠す場所もない。まして冬の海では溺れるのは時間の問題である。その間にも敵船の装甲は攻撃を弾き、山口が苛立った溜息をついた。烝は上方をふりあおぎ叫ぶ。
「おい、大砲(うえ)は何しとる!」
 万が一味方に当たる懸念があっても、せめて砲台照準を敵にあわせるくらいの威圧をせねば撹乱にさえならない。このまま銃撃に対してろくな反撃もできないとなると、救出に向かうのは自殺行為だ。
(せやけど行かな助からん)
 船縁に手をかけた途端、体を強く引き戻される。
「山崎君!」
 強かに腰を打ち、それが気にならない程の強さで両肩をつかまれた。
「君は動いてはいけない。君は、何があろうとも、」
 自分を掴む山口の…斎藤の視線が自分の目前あたりを眺めているのに気がついて、烝は過日の『予言』を思い出した。
(あ、『俺』や)
 長い計算式を解き終えたような明瞭さで納得すると同時に、浮かんだのはなまえの顔だった。
(…あいつで無いなら、ええか)
「駄目っ」 
 立ち上がりかけた瞬間に、今度は足場を揺らすことなく降りてきた者。名前を呟くより早くなまえが笑った気がした。かなしそうに。うれしそうに。
「ごめんね」
 銃声。
 膝を砕く痛みに息が止まる。
 何が起こった。
 何が。
 なまえ?
「ごめんね、烝くん」
 なまえ。
 どうして。