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 富士山丸と言う名前のとおり大きな船だ、と烝は船首を見遣った。仮に自分が侵入するならどのような経路をとるだろうと考えながら、荷造りする手に視線を戻す。
「医療器具一式、鞄に揃えて箱にいれました。3組。脱脂綿と包帯はそっちに入るだけ。消毒薬は5升、麻酔薬はモルヒネの追加待ち。南部さんのツテだから間違いはないと思うけど」
「足りるか阿呆」
「まったくだわ」
 帳面の書き付けを読み上げるなまえもうんざりした顔を上げた。
「良順先生いわく、薬の類いは何とかならなくもないって。糸や鉗子もまあ…けどメスはね、研ぎが追い付かなくなりそう。最悪小刀なら、私たちの方が扱い慣れているかもね」
 刃物としての性能がまったく違うことは理解して、尽くせる最善がそれだ。返答する気も失せる。
 この戦がどれほど長引くのか不明だが、これから先に長期化することを考えたら、希少な道具は出来るだけ確保しておきたい。わかっていて儘ならない現状が口惜しかった。それでも無いよりマシだ。自分に言い聞かせる。
「ねえ、やっぱり陸路で運ぶほうがいいんじゃない?」
「今更何言うとんのや。そないに気にするんやったら、一人で行けばええやろ」
「烝くんの方が足早いって」
「はっ。俺んこと船に乗せとうないんか?」
 面倒になって言い返したが、なまえは決まり悪そうに目を反らした。冗談にしきれない空気。
「…そう。乗せたくないの。できたらここに残ってほしいくらい」
「医者が怪我人病人見捨ててどないすんねん。お前にだけは言われとぅないわ」
 今までなまえに散々離脱を勧めたのだ。拒み続けた本人に今さら道を示されても頷くわけがない。とはいえ勧めた手前、その気持ちはよくわかるはずだ。
「……死なん、て言うても信じひんのやろ」
「うん」
 きっぱりと頷いて、思い詰めた者の鬼気迫る様子で、なまえは「だから」と呟いた。
「烝くんだけでも陸路で行って。襲撃された時共倒れになったらいけないし、何事も無くたって、運搬要員がいるのは絶対無駄にならない。女である私が運ぶより怪しまれないっていうのも重要」 
 けして酔狂な話ではなかった。そもそもは師が提案し、陸路の危険が勝ると却下された話だった。とはいえ蒸し返しても、手段と目的が逆転したことを理解してしまえば飲み込めない。
「なまえ、お前…」
 これではまるで…
「準備はいいかね」
 小屋の入口が陰って、肩越しになまえが視線をあげた。
「斎…山口さん」
「そろそろ刻限だ。搬入しなければ」
「それではそちらの箱を持っていただけますか」
「え、それ一番おも、っ」
 指差した手でそのままなまえの口をふさぐと、いっそう鬱々とした表情で溜め息をつかれた。
「蕎麦一食分の貸しだ。必ず奢ってもらおう」
 手のひら越しになまえの表情が変わったのを知る。未来(さき)の話なんぞするからだ。止める間もなく腕をすり抜け、小屋を飛び出していく。
「…余計な事を仰って下さいましたね」
「薮蛇だ」
 荷箱を抱えた山口は、痴話喧嘩に関わるつもりはないが、と呟いた。
「君はもっと上手く片付けるものだと思っていた」
「若輩者で」
 かつて新撰組幹部といえば妾宅を持っていた者が大半だった。一応監察方として、それぞれ戦にあたり手切れ金を渡したというところまでは耳に入っているが、山口もその中に名前が含まれていた。
「…あの子も、今更だな」
 なまえ。
 覚悟が足りないと言えばそうだが、伏見の件ですら平静な顔をしていたのに、先ほどから急に一体どういう心境の変化か。
「アンタが何ぞ吹き込んだんやないんか」
「まさか。君たちには平等に伝えた」
 過日の蕎麦屋で語られた言葉。
 あれは真実だ。よくわかる。仮に千里眼や先見ではない詐術だったとしても、いずれこの時を懐かしむというのは確実な『預言』だった。…深読みするなら誰かが欠けるのだろう。二度と同じ面子が揃わない。おそらくそういうことだ。
「片づけて済むなら如何様にも。…しかし大人しく終(しま)いきれない相手なら、最初から手を出さぬ方が賢明だったな」
 海鳥の声にまじる山口の言葉は間違いなく痛いところを抉った。
 添いきれなくて良い。束の間であるとわかって繋いだ仲だった。始まりは間違いではなかった。嘘でもなかった。しかし終わりが見えたら惜しくなったのは確かだ。失われるのが自分であってくれと心から思う。
 甲板を仰いで山口が目をすがめた。搬入場所に荷を置いて背を向ける。
「若輩者だと言う君への助言だ。愚者であるなら、せめてそれを貫き通すのが筋だろうよ」


「…ですから、周辺の警備を強化していただきたいのです」
「不審船といっても、いきなり押し掛けて尋問とも行くめぇ。相手が何だか知らねえが、京の時とは勝手が違う。下手な相手と構えて出航できなくなった日にゃァ目も当てられん」
「装甲船が見過ごすに値すると?」
「いや…」
 秀麗な面の下半分を片手で覆い、土方はなまえを見下ろした。
「お前がこうして上げてくるネタは確かだろう。俺に見えねぇもんでも、うちの監察の目は確かだ。…が、分かりやすい証拠(うしろだて)がねぇ事に兵は動かせねえ」
「ならば有事の際の発砲許可だけでも」
 食い下がる間に外から微かな声がした。
 なまえと土方が息を飲む。
「市村…?」
「副長、処罰は御存分になさってください。『上』の方にお目通りを願って参ります」
「おい待てなまえ、なまえ!」
 呼ぶ声を聞き流して走る。
 間に合え間に合えと心の中で念仏のように唱える。神も仏も信じなかったが、やりなおしの人生に意味を持たせてくれるなら、惰性で汚したこの体を何べん壊されたって構わない。あの人を生かせるなら、引き金にかかった指を叩き落とせるなら、私は私の運命とやらに喜んで殉じよう。
 撃たせない。
 絶対に。
 市村鉄之助を守るのは、私だ。