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海に沈むあの人を見たとき口にできたのは獣のような呻きだけだった。葬列ではかろうじて食い縛っていたものが、水音を聞いた瞬間にこらえきれず少し溢れた。
 後ろから支えてくれた手があることは知っている。しかしそれがどんなに優しく思いやりに溢れていても失ったものには代えがたかった。単なる私のわがままだ。誰も喜ばない八つ当たりだとわかっている。
 
 男ばかりの行軍でこういう役が回ってくることは当然の事だった。今まで何もなかったのは圧力や手回しで制止してくれた人達がいたのと、私がそれを徹底して拒んだからだ。幹部が次々に欠けた現在、一番に歯止めとなっていた土方副長はもはや末端の女一人に目を配る余裕などなかった。その目となり鼻となり機能していた人もいない。
 あの人がいないから私には、拒む理由も無い。
 

 ひとしきりの行為の後に感じるのは必ず嫌悪感だったが、それも段々と薄れてきている。慣れというのはすばらしい恩恵で、たぶんこのままあの人のいない日常にも私は慣れていくのだろう。忘れることなく慣れることができるなら生きていける気がする。早くそこに至らないかと毎日毎日願っている。そうしながら冷たい水の中で汚れた股や口や色んな所を強く擦る。痛む。いくら洗っても臭いが消えない気がする。
「なまえちゃん」
 土手上から聞こえた声に息がつまった。
 でもそれだけ。素裸だからと慌てるほどの可愛らしさまでいつのまにか擦り落としてしまったらしい。
「辰さんちょっと待って、そこで止まってて」
「鉄が探してるよ。何してたの?」
 詰問の口調ではなかった。言葉通り、他意はないのだろう。
「ごめんなさい。しばらく体洗えなかったから」
 また嫌なところで来たなと思いながら返答した。できればこのまま立ち去って欲しいと思ったが、律儀な人は「俺見張り番してるよ」と背を向けたらしかった。語尾が少しだけ遠くなる。
「寒いだろ」
「大丈夫」
 言いながら歯の根があわないのが現実で、水から上がった体はもう温度さえわからなかった。乾いた手拭いで拭いて着物をまとう。そうしてようやく、濡れた髪の先が冷たい、と感じた。
「辰さーん、ありがとう!」
 草の間から立ち上がり声を張ると、土手上から振り返った人は頷くような動作をした。震える手足でかけ上がると息が切れる。
「鉄っちゃん、呼んでるって?」
「あぁ、まぁ…急がなくてもいいと思うよ。呼びに来ておいて何だけど」
「暇だからいいの。衛生係も炊飯係も他にいるし、お役御免だもの」
 歯切れの悪い物言いに気づかない振りをして笑う。そしてまた墓穴を掘ったことを理解した。役目もないのに行軍に加わることは許されない。つまりは衛生でも炊飯でもない役があるということで。
 見下ろす目がどんな色をしているかは見なくてもわかっていた。いくら隠しても辰さんは気づいているであろうことも。
 本当は鉄之助(おとうと)に私を近づけたくないのだ。
 誠実な人だから頼まれ事を握りつぶさずこうして呼びに来てくれるけれど、それは鉄っちゃんのためだ。今やほとんど医者の端くれではなく女としてのみ求められる私を、以前と変わらずに扱ってくれるのも、それを頼んだ人がいるから…否、いたからだ。
「なまえちゃん、他に羽織るものある?」
 言いながら自分の羽織を脱ごうとしてくれるのを慌てて止めた。勝手に水浴びしたこちらに付き合わせて、風邪でも退かれてはたまらない。
 本当に大丈夫?と見下ろす顔をうっかり直視してうまく息ができなくなった。 
(私は不誠実なのかしら)
 いくら否定しても、誰も皆が是と言うだろう。操をたてるという言葉があるが、私にわからないのはそれだ。生きているならわかる。あるいは死んだ相手が明確に望んだならわかる。
 …私に何も遺さなかったあの人なら?
(…お役目を、と言うような)
 何にしても確かめる術はない。永遠に。


 夕刻にさしかかろうとするのに砲撃の音がした。
 敵の陣形を探る密偵として指名された。鳥羽伏見以来、このような仕事は久々である。かつてのような緊張も高揚もない。頭から爪先までを金属のような冷たさと重さが満たすだけだ。
 先の戦から仕事の質が変わったのだと思う。
 死んでも背を向けるな、という掟は形骸化したし、生きて仕事を成せという忍の不文律も、どん詰まりまできてしまった。今、死地はどこにでも、ひどく身近なところにある。
「なまえちゃん、無理はしないで」
 淀んだ声に振り返ると辰さんが珍しく笑っていた。薄暗くてもよく見える。声とは反対に、いかにも明るいような顔。
「相手が攻めてきたって、みんな撃ってしまえばいいだけなんだから」
 事実だったが、何故だかぞっとして、私は頷いた。見てはならないものを見た気がする。笑顔を浮かべていたが目はちっとも笑っていなかった。敵陣に私がいたとしても躊躇なく撃つだろう。それが今の辰さんの『お役目』だ。
「…うん、大丈夫」
 改めて自分の中を確認しても恐怖はなかった。
 うまく行けば辰さんのお役目を極力楽にできる。失敗したら死ぬ。割りきれる。いたぶられるだろうが仕方ない。私が死んで悲しむ人はいくらかいるかもしれないけれど、私自身が悲しませたくないと思う相手はいないのだ。もう。
「行ってきます」



 失敗したと悟るのよりわずかに遅れ、体の真ん中で熱が弾けた。そこから沸騰した血液が食道を気管をせりあがって溢れる。発砲音が聞こえて、また体のそこかしこが弾ける。
(苦しい。…痛い)
 死ぬんだ、とわかった。
 あの人こうやって痛い思いをしたんだ、と思ったら、苦しみより脳髄を埋め尽くしたのは後悔だった。あの人がどういう気持ちでいったか、あの人にしかわからない。末期は鉄っちゃんだけが看取った。正直なところ多少それも後悔に含まれていたが、でも仮に私が同席したとして、どんなに穏やかな死に様だったとしても、許せる筈がなかった。
 あの人が、烝が生きていることが私の全部だった。死んだという事実、それのみを、ただ許せなかった。



 どうして二人で幸せになれなかったんだろう?私たち。