自分が医者として一人立ちしてから母が老いるのは早かった。幼いころは優しく、長じてからは厳しく時に冷たいとさえ思ったが、持てる技術を注ぎ終えて彼女は一回り小さくなったようだった。
 枯れ木のような母の手は、昔からひどく荒れていた。手首から上の肌がすべらかなのに対し、手のひらも甲も指も、何度も垢切れた苦労人の手だった。その手が自分を抱き、撫で、時に叩き、文字通りに手をとって導いてきた。
 だけど、母が隠してきたもうひとつの顔も知っている。
 夜中に目を開けたとき、すすり泣く声を聞いたのはいつだったか。ススム、と言う名前をその時覚えた。ひどく後ろめたかったのを覚えている。
 そんな時に母は決まって、昼には薬研や乳鉢、時に鉗子やメスを握る手で、なにか違うものを抱いていた。不在を見計らってこっそり開けた引き出しには、鈍く光る大きな刃と擦りきれた布が巻かれた持ち手の、物騒な気配のする「なにか」がサラシに包まれて仕舞われていた。そっと元に戻して、どきどきする胸をおさえて、何食わぬ顔をして過ごすように努めた。
 あれはきっと「おとうさん」だ。
 母はその人について、国のために戦って死んだということしか語らなかった。顔も知らない父が「どちら側」であったかは、名前さえ頑なに教えない母の様子からなんとなく察することができた。
 知らない人だから好きも嫌いもない。
 ただ、母一人に苦労を負わせていなくなった事だけは少し恨んでいる。幼い頃の貧乏も一人で母の背中を見ていた寂しさも辛くはないが、母の手が体がこんなにも急に老いたのは、一緒に背負うべきだった父がいないからだと、そんな気がした。
「…父さん、ちゃんと迎えに来てやりなよ」
 とうとう昨日から昏睡した母はそれでも時々うすく目をあけて、自分の顔をみて、いかにも安心したようにふたたび深い眠りに落ちる。間隔が次第に開いて、たぶんもう長くはなかった。モルヒネの使用は許容量を越えていたが、病に蝕まれた体では苦痛ばかりが長引くから、できるだけ静かに送ってやりたいと思っている。
 母とはあまり似ていないこの顔は、きっと父からもらったのだろう。教えこまれた技術は母がもっているすべてだった。寂しくないと言えば嘘だが、愛されていたことは間違いなく信じられる。
 だから、あの引き出しの奥の暗器は、母と一緒に元の持ち主に送ろうと思う。

「…聞こえてるかい」

 母さんがそっちにいくよ。
 ずっとあなたに会いたがっていたんだよ。
 
 ねえ。


 
 ススムさん。


 …おとうさん。