甘いもん好きやないねん。
 冷たくも厳しくもない平坦な言葉になまえは心の中で目の前の男を平手打ちする。日焼けとは無縁な顔が赤くなる様を考えて、やっぱり痛そうだわ、自分の良心が、とこれまた内心で呟く。
「そっかぁ。残念ー」
 黙って立ち去ったら角が立つなと考えて言葉を吐き出す。若干伸ばした語尾で百パーセントの本気でないことをアピールするのも忘れずに。
「市村やったら喜ぶで」
「は?」
 集団の中にいるなら、多少はコミュニケーションをとるのが義務だ、となまえは思っている。たとえ相手が徹頭徹尾の無表情で、およそ相手の気持ちをおもんばからないこの山崎烝であってもだ。
「市村」
「ごめん山崎くん聞こえなかった。なに?」
「せやから」
 一般的な良識として、人からのプレゼントを断って、他人にやれとか言うものだろうか。少なくともこれまでのなまえの経験にはない。
「それ、市村にやったらええやん、て。あ、デカイのでも小さいのでも両方な」
 いやいや問題そこじゃないでしょ。
 山崎はそれで話題を終わらせたつもりだろうが、これは無理だ。呆然としたところにちょうどよく辞書を掲げた「デカイの」こと辰之助がやってくる。
「お、なまえちゃん久しぶり。烝これ返すよ、助かった。ありがとう」
「まだ俺使わんで?」
「うん、いいよ。俺も済んだし。借りっぱなしで何かあると嫌だからさ」
「辰之助さんちょっといいですか」
「え?あ、うん」
 そうやって離れてもまったく気にした様子のない山崎にまた腹をたてながらなまえは辰之助を従えてずんずんと教室を出た。


…「デカイの」にしてみたら普段の歩調とかわらないのだろうが。 




「信じられますかあのひと。人にやれとかありえない。宇宙人のがまだかわいいんじゃない?ねえ?」
「ねえっていうか俺食べていいのかなこれ」
「どうぞどうぞ。ちゃんと手袋して加熱して衛生管理ばっちりで作ってますから安心してください。…それで山崎ですよ、あの無表情男」
 アピールポイントが若干ずれている気もするが、シンプルな透明のビニールに入ったクッキーはいかにも手作りらしい大きめのサイズだ。荒く刻まれたチョコレートとナッツ。咀嚼するとココアのほろ苦さにまじって、ほんのりとバターの香りと塩気。
「おお、すごく美味しい」
「そうそれ!そういう反応がほしいの!…あっこれ冷たいけど、ブラックです」
 やたら大きいキャンバスバッグはこれのせいかと辰之助は納得した。何人分だか知らないが缶コーヒーまで持ち歩くのに紙袋ではたよりないだろう。
 …この準備の良さというか、こまごまとした丁寧さは、ススムも似たようなもんなんだけどなあ。惜しむらくは彼がそれを発揮するのが目上の相手やバイト先のみということだ。なまえのようにある程度誰にでも節度と礼儀を重んじるタイプから見ると苛つく理由はよくわかる。
「甘いもの嫌いならバレンタインの話題なんて振るなよって思いません?山崎くんから言ってきたんですよ、お前も何か用意してるのかって」
「へえ、」
 プルタブを起こしながら辰之助も目を見開いた。
 他人の動向にあまり干渉しないススムにしては随分踏み込んだ質問だと思ったからだ。
「してましたよ。だからしてるって答えて、そしたら普通渡すでしょ。チョコ菓子」
 水っぽいコーヒーは焼菓子の余韻を消すには至らなかったが、充分満足できる休憩時間になった。空き缶を受け取ろうとするなまえに手をふるってゴミ箱に向かう。
「なんだろうね、あいつ。別に嫌がらせとかじゃないんだろうけど、たまに肝心な時に言葉足らずなとこあるからなぁ」
「…辰之助さんでもわかりません?」
「うん、ごめん」
 珍しい、妙だとは思うけれどそこまでだ。
 本心から申し訳ないと思って謝ると、なまえは困りきった顔で笑った。
「力になれなくて悪いんだけど、よかったら今度このクッキー作り方教えてよ。鉄にも食べさせてやりたい」
「それならこれ鉄くんにどうぞ。まだたくさんありますから…レシピはメールでいいですか?」
「うん、ありがとう。…あ、俺アドレス教えてたっけ?ちょっとまって」
 ポケットからふせんとペンをとりだして書いて、なまえに手渡す。そろそろ始業だ。
「読めなかったらススムに聞いて。じゃ、ごちそうさま!よろしく!」



「…いやいや、山崎くんに聞くのは無しでしょ?」



「そんで俺に聞くのかぁ」
「LONEで聞くつもりだったんだけど、せっかく会えたから。…にしてもあの字、板書と別人すぎてびっくりしたわ」
「ははは、辰兄のメモ俺でも読めねえもんな!…なまえのこれほんとうまいね。ごちそーさまでした!」
 あっと言うまにクッキーを食べきり、鉄之助はぱんっと手をあわせた。目の前には空になったラーメン丼とライスのおわん。いかにも男子学生らしい気持ちのいい食べっぷりだった。
「辰之助さんにも渡しちゃったからダブるんだけど、よかったらそっちも食べて。鉄くんお昼この時間じゃ大変だね。高等部今忙しいの?」
「ないない。昼抜きなんてねーよ。ラーメンはオヤツ。弁当ひとつじゃ足りねぇもん」
 さすがに成長期は言うことがちがう。
 入力した画面を自分のアドレス帳と照らし合わせ、鉄之助は「合ってると思う」と顔をあげた。
「でも実際ススムは甘いもの食べないんだよな。菓子パンとかミカンくらい?たまに食べんの」
「あー、ミカンすごい丁寧にむきそう。きれいにスジ取って」
「取らない取らない。あいつ自分の事は結構適当だぜ?白いとこに栄養あるんだって言ってた」
「何それ、おばあちゃんの知恵袋?」
 声をあげて笑った鉄之助だが、すぐに慌てて立ち上がる。
「やべ、袋教室に置いてきちまった」
「袋?」
「うん、今朝沙夜にもらってさ…ごめんなまえ、俺先行くわ」
「丼下げとくからいいよ。先行きな」
 悪い!と一声叫ぶや猛然と走り出した背中をなまえは苦笑いで見送った。あれが本命ってやつね、とトレイをもちあげる。置き忘れは苦しいが、こんなに慌てて取りに戻る姿をみたら、沙夜もそれほど怒れないだろう。
「どっかの誰かとは違うわ」
「誰が?」
 驚いて取り落としそうになった食器を横からのびた手が押さえた。
「何しとんねん、危ないやろ」
「だっ、なっ」
「持ってくで」
 言葉にならない抗議を聞き流して山崎は悠然とトレイを奪い返却口にむかう。そのまま食券購入に向かったのをみてなまえはもうこのまま立ち去ろうかと思ったが、お礼を言うのは必要だからと、理性が感情を押さえにかかる。よくみたら向かいの席にはいつのまにか荷物までおかれていた。
(どんだけ気配ないの。忍者か!)
「腹へっとるんか?」
「なんでそうなるの?」
「睨むから」
(だから、なんで、そうなるの!?)
 きつねうどんといなり寿司という組み合わせはスルーしたが、さすがにこの発言には返答もさっきはありがとうも面倒になって、なまえはぬるくなったミルクティーに口をつけた。
「…さっき鉄くんがラーメンを、おやつって言ってた」
「成長期と一緒にすんな。俺のは昼飯や」
「みかんの白いとこは栄養があるの?」
「繊維とビタミンPな」
「よく会話になるね」
「お前から振っとるやん」
 鉄之助ほどではないにしろハイペースに食器をあけながら山崎はちらりと時計を見た。
「ほんで何言いたいん」
「え?」
「人の顔みて驚くわ睨むわ、言いたいことあるんやったらはっきり言えや」
 この無表情男に言われると、毎度毎度心底腹が立つ。しかしまたよく自分の表情なんかをみていたなと驚きもする。
 どう返したものかと思案していると、短い眉毛が寄せられた。あ、珍しい。心の中では指差して驚いているけれど、外面は大事だ。
「なんのこと?」
「そんで取り繕っとるつもりか。笑わせるわ。中身ダダ漏れやでお前」
「え、…は?」
 言葉から怒っているのかと思いきや、山崎が笑いだしたので、用意していた反撃も使えずになまえはぽかんと口を開いたまま沈黙する。その様子がツボにはいったらしく、山崎がますます笑う。
「…や、山崎くん笑えるんだ…」
「ひとのこと何や思とんねん」
 ひとしきり笑って目尻をぬぐいながら、無表情男だったはずの山崎は紙袋を指差した。
「俺のないん?」
「甘いもの嫌いなんでしょ」
 トゲをたっぷり含ませて返せば、当たり前のようにうなずかれた。
「せやからコーヒー、くれるんかと思った」
「今日バレンタインですけど」
「知っとる」
「…缶コーヒーだけ?」
「うん」
 もう今さらそこまで驚きはしない。この男は自分の常識の外側にすんでいるとよくわかった。そういう境地で眺めると存外素直なのかもしれない。
「あー…、うん、どうぞ」
 手渡すと、しげしげと缶を眺めるので、なにか不備でもあったかと心配になる。何も言わないうちから「そういうんやない」と苦笑が向けられて目を見開く。
 何か不都合でも?なんて言ってないのに。
「ダダ漏れ言うたやん。顔に出てる。…いや、嬉しいな、思て」
 また読まれている。
「それは…ええと、ありがとう」
 (あれ?)
 これは当初の「理想の展開」だ。
 物品に違いはあるが手放しに歓迎されている。自分とは確実に相性が悪い、不倶戴天のなんとやらと思っていた山崎に。
 意外と喜んでるじゃない、私。
「三月に何か返さなあかんな」
「そしたら、お食事なんてどうですか、ここで」
「さすがにもうちょいマシなとこ連れてくわ」
 呟いた山崎に思わず笑う。
「だって缶コーヒー1本よ?」
「俺が、一緒に行きたいねん」
 見慣れた表情を目の前にしてなまえは再び沈黙した。無表情より、真摯とあらわすべきなのかもしれない。ああそうか。いつも自分に向けられていたのは無関心じゃなくて…。