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 口中にたまった血液が、唾液と混じってダラダラとこぼれる。
 頭の中を鉄棒でかき回されるようだ。苦痛が大きすぎて恥ずかしさなんてどこかに飛んでしまった。さっぱり視界が開けないのは瞼を切ったせいだろう。耳。さっきからわんわんと反響する音の羅列。

つかえねえ

くそがき

どっちに

にがすな

 …腹に衝撃。

「がっ」

 嘔吐するものも残っていなかったが、お約束のように体はきちんと反応した。筋肉が動いたおかげで全身の痛みが再燃する。
 けれども同時に倦怠感に侵されていた思考能力も、いくらか目覚めたようだ。  
 散々自分をいたぶりつくした男たちが去っていくのを感じて、与四郎はそろそろと詰めていた息を吐き出す。

「い、てえ」

 言葉を口にしたつもりだが、耳に残ったのは不明瞭な呻き声だった。
 なまえが去ってからおそらくそれほど長い時間はたっていない。暗殺者の探索網がどれほどの広さかはわからないが、走法をわきまえた者を追うのに距離があいては不利だ。彼らが追跡をあきらめない程度の間。
 それっきりの間に、自分はこんなにも一方的に痛めつけられた。
 宿から引きずり出されて小屋に連れ込まれ、尋問らしきものはあったが長引く拷問ではなかったのが幸運だった。生きている。
 しかしそれがどれほどの幸運であっても、もはや与四郎に起き上がるほどの気力はなかった。なまえを一人で行かせた。あんなにも追い詰めて。利用されたことよりも己のしたことのほうが枷になって四肢を戒める。
 起き上がることはあきらめて、与四郎はそのまま目を閉じた。




 なまえを恨むか、と問われれば間違いなく否定する。
 悔いるのはただ理性を一時でも手放した愚かさと、暗殺者たちに手も足も出なかった無力さだ。せめて一時でも足止めになれればよかったのに。 
 なまえを見失ったことを兄たちは責めるだろう。
 だけど、そんなことはもうどうでもよかった。
 死ぬかどうかの水際まで追い詰められた時、自分は里の先行きになど興味がない。
 だけどこんな状況でも間違いなくなまえの無事を祈っている、それだけは確かだ。


 

 ひたりと近づく足音を察知したのは、聴覚でも触覚でもない、獣の本能とでもいうべきものだった。 
 前触れなく覚醒した意識が張り詰める。
 誰かがいる。
 けれども与四郎はそれと同時に、自分の体がどれほど動かなくなっているのかを知った。手足のみならず体幹すらも感覚がない。幽霊にでもなったような具合なのに、身動きが取れないことで体の存在を意識する。目があかない。耳鳴りはやんだが、何を聞いてもずっと遠くの音に耳を澄ますような具合だ。

「…ひど…」

 人の声だ。
 男たちがが戻ってきたのだろうか。それにしては殺気がない。
 
「与四郎、与四郎」

 声が近づく。耳元にかがみこまれているのだ。

「聞こえてるね?そのまま、動かないでいい。これから、手当てをするから、痛むよ。手足を、縛るね」

 一語づつ区切るように言われ、ようやく内容を理解する。手当て?誰だ。まさか。
 ごそごそと気配が動いたかと思うと、突然腹に熱を押し当てられて、枯れた喉から悲鳴がこぼれた。動けたならばもがいただろう。押し当てた張本人は気にとめた様子もなく、それから転々と数箇所に同様の苦痛を刻んでいく。一度目こそ声を上げる気力もあったが、二度目以降はもう痛みを享受する意識があるだけだった。






 
「…やばい、…っ」

 消毒、切開、縫合、止血、汗だくになって一連の処置を施していたなまえは、触れる体温が低下していくことに気が付いていた。おぼろげながらあった意識も今ではどの程度残っているのか危うい。もっと早くに来ていれば、ここまで失血はしなかっただろうに。外傷の処置はできたが、内出血はどれほどかわからない。臓器が無傷であることを祈るばかり。できる処置はここが限界だ。
 脈動が遠ざかる。呼吸が、命が、

(止まるな!)

 口を大きく開いて相手のそれに息を吹き込む。数回繰り返しながら、頭の隅で何かがささやいた。

(呼吸を分け与えられるなら)
(血も与えられるんじゃないの?)
(不老不死は信じられなくても)
(私は自分で自分をを『治癒』できている)

 胸部に手をのせて心臓の位置を確かめる。体重をかけて圧迫、緩めることを繰り返す。あっというまに腕がしびれる。

(どうする)
(このままでは与四郎は死ぬ)
(医術はもう彼を救えない)
(…どうする?)

 なまえは荒い息を吐きながら与四郎の青白い顔を見下ろした。
 迷う時間はない。
 可能性がわずかでもあるなら、選ぶべきだ。
 剃刀を握った手が震えた。さっき宿の部屋では簡単に流せたのに。

(強い薬を与えれば病人は死ぬこともある)
(『毒』か『薬』かは使い方次第)

 伝聞が本当だとしても、この血が本当に薬だとしても、使い方をなまえはおろか誰一人知らないのだ。
 宿で口にした可能性は高い。数えきれない毒をとかしこんだ、わが身に流れるこれは一体どちらというのか。
 消えかける命に止めをさす行為かもしれない。
 こわい。
 だけど人が死ぬのはもっと怖い。
 悔いるのは、与四郎を捨て駒にして逃げ出したことだけに止めるべきだ。このうえ死に際をただ傍観に徹したら自分を許すことができなくなる。唇を強くかんだ。痛みが心を決めさせた。
 ぶつりと指先の皮膚を割いて鮮血がこぼれた。もう限りなく衣服を汚した色に、新たな滴がぽつぽつと落ちる。
 ためらいなくそれを口中に差し込んでなまえは与四郎の名前を呼ぶ。繰り返し。
 
「与四郎、飲んで。与四郎」

 口の端をわずかに伝う。
 引き抜いた指先の傷口はもうふさがりかけている。再び傷を作っておしあてる。

「与四郎」

 嚥下の気配はない。
 血を体内に取り入れること。
 食物として、が無理ならば。
 止血していた布をほどき、なまえは与四郎の腹にかがみこんだ。目の前にある傷は手のひらほどの大きさで、生々しく肉の色をさらしている。痛かっただろう。自分のせいでこの人は負傷した。眉を寄せてなまえは己の手を見つめる。指先じゃたりない。
 再び刃物がひらめく。鋭利な痛みに奥歯を噛んで、なまえは血の吹きだす傷口を、与四郎のそれにおしあてた。
 正気の沙汰とはまるで思えなかったが、結果がでるならそれでいい。なんだってする。

 …どれぐらいそうしていただろう。
 痛みが和らぎ、熱いようなむずがゆいような感覚が手のひら全体を覆い、なまえは自分の傷口がふさがったことに気がついた。
 多少失血の倦怠感はあるがふらつくほどでもない。
 再度手のひらに刃物を押し当てようとしたところで、与四郎の傷口に目をやってぎょっとする。

「うそ」

 ふさがっている。
 自分のものほどではないけれど、あきらかに再生している。
 慌てて他のものも見てみれば、小さいものはもはや綺麗になくなっている。脈拍を確かめるまでもない、顔にも血色が戻っている。

(何、これ)

 安堵よりも感じたのは嫌悪だった。
 なまえが知る限り、どんな薬もあくまで「本人の治癒能力を助ける」ものだ。
 自身が異端なのは自覚しているけれど、もともとそういう生物なのと思えば納得できた。だがこれはなんだ。与四郎は、つい先ほどまで瀕死の状態になっていた。持って生まれた治癒能力がそういう程度だったからだ。なのにたかだか少量の血を流しこまれただけで、備わった性質が激変してしまうなど、あってはならない。おかしい。

「…与四郎?」

 不安のままに手を伸ばす。求めた掌をにぎりしめ、なまえは茫然と目の前の人間を見下ろした。
 覚悟がなかったとは言わない。
 けれど、こうして我にかえれば迷うのも事実。衝動的に見捨てて、捨てきれずに戻って、自責の念から強引な行為をした。それでも結果だけ見るなら、医者ならば命が助かったことを喜ぶべきだろう。忍なら新たな能力を見出したことに誇りを持つべきだろう。
 だが無理やりに身体を変化させるような真似を…された方にとって、これはどういう類の『異端』になるのだ。
 奇跡と崇め、利用しようとするのか。
 化け物と罵り、排除しようとするのか。
 どちらも自分が受ける分には構わない。もとよりそんな立場は自覚している。
 最悪なのはこれで与四郎までもが『同じ体質』になってしまうことだ。風魔が『不死の一族』をもとめているなら、与四郎がその一派に加わった場合、真っ先に利用されるだろう。自分が探しだされ狩られることは諦めもつくが、与四郎が同じ目にあったら巻き添えもいいところだ。
 薄く開いた唇からかすれた呻きが漏れ聞こえる。
 慌ててつかんでいた手を離すと、なまえは与四郎の両肩を抑えた。

「動いちゃだめ。まだ傷が安定していないの。顔だけ横に向けて、水あるから」
「なまえ?」
「…うん」

 何を言うべきなのか迷い、なまえは口ごもる。用意していた小布に水を含ませ口元にあてる。吸い飲む様子を窺いつつ数度繰り返すと、与四郎は力を抜くような息を吐いた。

「ああ、夢じゃねーな。痛ぇ」
「…ごめんなさい」
「何だ?助けてくれたんだべ?」

 おかしそうに笑って与四郎は再び目を閉じた。

「謝んのは俺の方だし…悪ぃ、もちっと居てくんねーか。すげー眠ぃ…」

 眠りにおちるまではあっと言う間だった。けれど先ほどまでの昏睡とは違って、呼吸も安定して穏やかだ。
 完全に無防備な表情と言葉になまえの胸が痛む。
 自分を狩る側の人なのに。

「…なんでそんな信用してくれるの…」

 本気で巻き込むまいとするなら、向けられた好意や優しさも、握りつぶして忘れてしまうべきなのだろう。
 そう考えてここまできたのに。
 食満を思い出す。
 熱を含んだ視線と、声と、手渡された櫛。
 あんなにも嬉しかった気持ちにふたをして拒絶したように、今回だって逃げてしまえば良かった。戻ってきたのは優しさなんかじゃなく、罪悪感に耐えられなかった自分の、忍としての脆弱さの故だ。なにもかも中途半端だったためにこんな『治療法』さえ施してしまったのに。そんな風に笑われると、許容してくれる手にすがってしまいそうになる。

 ----どんな奴だったんだ? 
 ----食満にに似てるかも。

 今はもう遠いやりとり。
 途方もなくずるいことだけれど、あの宿の一時に、考えてしまったのだ。
 もしここにいるのが食満だったら。
 振り払った手を、あの時取っていたならば。いずれ二人で逃げることはできただろうか。異端という言葉でともに括られてほしいと懇願したらあの人は自分を許してくれるだろうか。与四郎に食満の面影を重ねた瞬間、揺らいでしまった。駄目だと、やめろと、『自分自身に』言い聞かせなければならないくらい。
 追ってきたのが与四郎でない誰かなら、争ってでも同行を拒んだのではなかったか?
 傷つき倒れたのが違う人なら、たとえば伊作や文次郎なら、自分は同じ処置をしたのだろうか?

「…ごめんなさい、」

 捨てきれないあさましさの故に、こんな事態にまでして。
 うなだれながらなまえは繰り返し自身に言い聞かせる。
 これ以上関わってはならない。
 差し出された手を取ってはいけない。
 どのみち私が欲しい手は自分自身で払ってきた。選んだ以上は進まなければならない。後悔する資格なんて、ない。




   
 
   

  次に与四郎が目覚めたのは日の出間際の黎明で小屋の中には誰のぬくもりもなかった。
 一瞬、幻でも見たのかと思って起き上がったが、すぐにその事実に驚嘆した。申し訳程度にまとった着物はぼろぼろで赤黒いしみだらけだ。負傷したのは間違いない現実らしい。腹をなでる。手足も、胸も背中も。触れればひきつれた感触こそ残っているけれど、治っている。
 茫然とした与四郎だったが、敷かれた筵の隅にやけにきれいにに畳まれた着物をみつけて手に取った。
 広げると中から紙片が落ちてくる。薄明かりの中、びっしりと書き連ねられた文言に目を通す。
 抜糸の手順、血を取り込ませたこと、傷は癒えているが伴うであろう副作用がわからないこと、養生に向いた薬草の詳細、合間に何度も何度も繰り返される謝罪の言葉。

「…なまえ」

 小声で呼んで、もう一度腹の傷跡に触れた。
 同行を申し出たのは純粋になまえの力になりたいと与四郎自身が欲したからだ。一時の感情で傷つけ、己の力量の未熟さゆえにいたぶられても、なまえは戻ってきて助けてくれた。彼女とっての理由がどうであろうと、与四郎にとってはただそれだけの、なまえには何の落ち度もないことなのに。

(食満、か)

 他人と重ねられていること。どんなに苦々しいものを含んでいても、完全に失ってしまうよりはずっと幸せだ。そんな執着ともつかない愛情があることを、与四郎はなまえのいない朝にはじめて知った。彼女はきっと知らないのだろう。知らないから逃げている。ましてそこに付け入ってでも手に入れたいと渇望する醜さなんて。
 与四郎は立ち上がり着物に腕を通す。小屋を出て、荷箱の残骸を拾いあげる。中身はあらかた紛失していたが里に戻るくらいはできる。なまえの動向を探るという任務は失敗だが、叱責でも処分でも甘んじて受けよう。生きていればいい。この執着があれば何度だって彼女を見つけられるはず。確信があった。
 振り返り、空を仰ぐ。

(俺も利用する。…里を、風魔を、自分のために)

 風が吹いた。
 見上げた行方には真っ赤な朝焼けが広がっている。










風魔編・第一部  了