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 往来の多い街に着いたのは昼も近いころだった。
 二人とも体力はまだあるし、先を急いだ方がいいというなまえに対し、与四郎は休むことを勧めた。

「こんくれーでバテねぇことはあいつらもわかっから。発った時刻も読まれてんだ。かえってここらで追い越してもらうほうがいい」
「私はその殺し屋さんたちを知らないんだけど、学園で足止めくらってる可能性はないの?」
「何べんか学園長先生狙いで侵入してっけど、今回は狙いの俺らが学園内にいねーから。やりあう目的じゃなく、さっさと逃げようとすんなら行動は早えーと思う」
「…どこまで追ってくるかな」
「しつけーのには定評があっからな。捕めぇてふん縛らねぇ限り追ってくんべ」
「面倒な人たち」

 ほう、と溜息をついてなまえはぽっこりと膨らんだ腹をなでた。唇を動かさない独特の話し方ではなく、やわらかな声音でそこに向かって話しかける。

「おまえが生まれるまでに、いろいろ片付けておかなければね」
「そろそろ名前も決めねーとな」

 顔を見合わせて、二人同時ににやりと笑う。
 荷物を腹にくくりつけ、妊婦姿になるというのはなまえの発案だった。
 夫婦者になりすますことは容易に想像できる。
 問題はそこから絞り込むことだ。せり出した妊婦の腹は、人相よりもよほど印象に残る。これでうまいこと捜索の網をすり抜けられればいいのだが。
 かき乱した髪と、少し濡らした着物、それにくたびれた姿勢で、なまえの見た目は歩き疲れた妊婦そのものだ。
 よりそって歩きながら与四郎も時折気遣う様子を忘れない。
 里帰りする妻と、送り届ける夫。
 妻の体調が思わしくないからといえば、この時間に宿に泊まることも難しくない。
 案の定、一軒目の宿で何の疑いもなく部屋をあけてくれた。
 本来ならば部屋を掃除したり忙しい時間だが、ゆっくり休めるように人は来させないからと、宿の主は最奥の一室を選んでくれた。少し申し訳なかったが有り難く好意に甘んじることにする。

「さァて、ちっと休んどくべ」
「…うん。与四郎寝てていいよ。しばらく忙しかったでしょう」
「おめーもこれから慌ただしいだろ」
「まあそうだけど、与四郎が先に休めばいいよ」

 歯切れの悪いなまえに布団を進めようとして、与四郎は硬直する。
 一つ布団。
 まあ夫婦と言って泊る以上当然の応対ではあるのだが、なんというか、生々しい。

「緊張してるの?」

 問われて、与四郎は耳まで火照るのを自覚する。
 布団を睨んだまま答える。

「随分余裕だな?」
「くのいちの同級生は皆経験済みだったから…こういう状況も話だけは聞いた」

 こう見えて結構耳年増だよ、私。

 笑いさえ含んだ声に与四郎は大きく息を吐いた。
 …情けねぇな。
 思うことは、何度目か知れない。

「枕話も恋話もいろいろ聞いたな。私も同世代の子はくのたましか知らないから、多少偏っていそうだけど。…風魔にも女の子って結構いるの?」
「女はいる…けど俺はあんまり知らねー。そっちとおんなじ別学だったし、うちは男兄弟ばっかりで接点もなかったからよ。…そっちはどーなんだ」
「さあ、どうでしょう」

 首をかしげて唇を釣り上げる。
 笑っているはずなのに妙にさびしげな表情に、与四郎は先ほどとは違う熱をかろうじて飲み込んだ。

「仲間宛ての文を預かったりはしたけれど、自分宛てはとうとう一通もなかったの」
「んじゃ、こーゆーのは?」

 足をかけると意外にあっけなくなまえは床に転がった。
 束ねていた髪がほどけて広がる。
 張り手の一つも覚悟したが、以外にもなまえは楽しげに笑った。

「組手の時なんかしょっちゅうだよ。うわ、与四郎さすがに隙がない…!」

 ああでもないこうでもないと、ひとしきり抵抗したなまえは不思議そうに与四郎の顔を見上げた。



「与四郎?」


 ―――正直。
 我慢できる、できずともしようと思ったのだ。
 じゃれあいの冗談ですまされるまでは。

「…、ちょっと、」

 首筋に顔を近づける。
 なまえが身をよじるが、上をとったこの体制で抑え込むのは与四郎にはごく容易い。

「やめねぇぞ」

 呟いた声の低さにか、抑える腕の強さにか、なまえの動きが止まった。瞬く間に与四郎の手が動く。頭上に掲げた両手を縛りあげられながらなまえは沈黙を守っている。

「本気で聞く。おめーは、好きな奴いんのか」
「いない」

 強情にしか見えない。
 真っ白い顔で、かすかに震えて。

「いない!」
「だったらこーいうことできるよな」
「やッ」

 目前の首筋に唇で触れる。
 なまえの肌はしっとりと冷たくて、ほのかにあまいにおいがした。
 ほしくてほしくてたまらなかったものが、この手中にある。
 こんな方法で本当に手に入るなんて思わないけれど。

「やだ、」

 吐息のような拒絶の声は、ひょっとしたら泣いているのだろうか。
 見る勇気はなかった。
 でも、だけど、今でなければもう二度と触れることなんてできないかもしれない。
 風魔に連れて戻れば兄のものになる。
 逃せば見知らぬどこかに消える。
 追っ手に捕まれば次はない。

「嫌」

 首から耳朶へ、再び降りて鎖骨へ、慎み深く重ねられた襟元に手をかけると白い肌は薄紅に染まる触れるたびに震える体からは何かしら磁力でも働いているのだろうか。うるさいほど警告を響かせる理性に逆らって、手のひらも唇も離れられない。
 衝動的に吸い上げると小さな赤い花が咲く。
 きれいだ。
 恍惚とした頭で与四郎は笑った。
 このまま ぜんぶ うばってしまえば。

「やだ、やだぁ、…食満…!」

 
 横っ面を張られるほうが何倍もましだった。
 たった一言に、瞬時に与四郎は身を起こす。

「…やっぱ好きなんじゃねぇか」

 解放された両手で顔を覆ってなまえは首を振った。

「ち、がう」

 湿った声でそれだけ言って息を吐く。
 何を言おうかと与四郎が思案する間に、なまえは半身を起こし乱れた襟元を整えた。
 赤くなった目で、しかしもう揺るがない視線で与四郎を見据える。 

「もう終わってるからいいの。未練がましいのは認める。…それより与四郎、あなたも私が欲しいのね?」


 違う。
 あれはそういう行為ではなかった。 
 齟齬を感じるなまえの言葉を、否定しかけて与四郎は言葉を飲み込んだ。
 結局自分の欲望でなまえを傷つけたことに違いはない。
 どちらの理由なら浅く済むのか…わからないけれど、弁解の余地はないのは確かだった。

「そんな顔しないで。覚悟が足りないのは私のほうだもの」

 細い手が頬に触れる。
 やさしい動作と裏腹に、ひどく醒めた声でなまえは呟いた。

「さっきの質問に改めて答えるね。私が一番大事なのは自分自身なの。身を捧げてかまわないと思えるほど好いた相手はいない」
「食満は」
「私の人生につきあわせたくないの」

 断言したなまえの様子で、学園で何があったのか、おぼろげながらわかる気がした。
 冷やかな面持ちでなまえは伸ばした手を与四郎の眼前にかざす。

「試してみましょうか」
「は?」
「みょうじの血で不死になる…私も臨床実験はしたことがないから、被検体がいるなら試させてほしいな。あらゆる毒を溶かしこんだ血を飲んでどんな反応が起こるのか。死ぬのか生きるのか、生きるなら苦しむのか廃人になるのか」

 くす、と笑って、なまえは剃刀を取り出した。
 躊躇なく指先に当てがう。
 制止の暇もなく刃のあたった場所からはみるみる赤い玉が膨れ上がり、滴になって伝い落ちる。

「あなたの里が欲しがってるものだよ。欲しいならどうぞ。何が起こっても私は知らない」

 与四郎はその何か宝玉めいた鮮やかな色を凝視する。
 自分が怪我をして流れるものと何も変わらない。その一滴のために諸侯が目を光らせ、風魔の里も動いた。
 なげやりななまえの笑顔。

「どうしたの?今なら労せず手に入るのに。早くしないと止まっちゃうよ」
「…俺が欲しいのはそんなもんじゃねぇ」

 なまえの目が細められると同時に階下で声が上がった。

「お客さんそんな無茶な…!」

 張りつめていた空気が膨張してはじける。
 同時に荒い足音が近づくのを聞いて、動いたのはなまえが先だった。
 近くにあった包みを引き寄せる。窓のほうに飛び退りながら中身を投げつける。反射的によけた与四郎は部屋の入口を背中でふさぐ格好となった。

「利用させてくれてありがとう」
  
 吐き捨てたなまえが窓から抜け出すのと、部屋の扉が蹴破られるのが同時だった。
 背中に叩きつけられた衝撃で息が詰まる。
 歯噛みしたい思いはどこに向けられたものか、考える暇はなかった。