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 学園への道行きは遠からず近からずと言ったところだ。
 もちろん気易く往来をするようなものではないが、年に何度か顔を出すのは苦にならない。喜三太の入学前から何度か通っているが、その距離がこたえるのは与四郎にとって初めての経験だった。
 …足が重い。
 兄の道具になるという事実は、多少の腹立ちを含んでも、それ以上の感情を抱かせなかった。
 錘になっているのはいつ誰と相対するかという緊張感、それになまえに対するなやるせない想いだ。今ならばわかる。出立する日になまえがこなかった理由。これ以上の接触は危険だと、おそらく学園長から知らされたのか。

(今更どの面さげて会えっつーんだ)

 あの時の、浮かれていた自分が馬鹿みたいだ。好きだと会いたいと思うほど、里でのやりとりもこれからしようとすることも、酷く黒くて粘り気のあるものへと変わっていく。泥濘のからみついた両足は踏み出すごとに力を要した。
 それでも内心ほっとしているのも事実だった。
 兄が直接ここへ来るよりはまだ望みがあるだろう。…何に対しての、とは言い切れなかったが。
 もうまもなく学園の『敷地』に入るころ。
 与四郎が草藪に身を潜めたのは、月の明るい夜半。
 人の気配がする、といってもはっきりした感覚があるわけでははなかった。気のせいかもしれないが、可能性がわずかでもあるなら見過ごさないほうがいい。追手が誰であれ、ひな鳥同様の自分よりは確実に上だ。
(まさか同級生をよこすようなことはねぇ)
 仕損じては困るはずだ。
 どれほど息をつめていたか…杞憂だったかと疑う頃になって、がさがさと草を踏む音が聞こえた。
 こめかみから汗が伝う。
 あれが追手として、今ここで見つかれば。
 戦闘になれば己が負ける可能性のほうが高い。そうしたらなまえは、誰か他人の手で風魔へと連れ去られる。
(そんで、誰かのモノに)
 なまえが他人に所有される。
 厭だ。
 己のものにしたいなどと言えるほどうぬぼれてはいないが、彼女は彼女の意思によってあるべきだ。阻害するものに、彼女が屈することを肯定したくない。錫高野が直接的に関わるうちは与四郎にも手の出しようはあるが、他家の手中にはいってしまえばそれすらかなわなくなる。
(どうする)
 どくん、どくんと鼓動が響く

 今選べるのは二つだ。
 出るか、隠れ続けるか。
(…どうする…!?)
「しかし訳の分からねぇ依頼だな。こんなところの小娘ひとりどうする気なんだか…」
「取引は取引だ。とっとと片付けてずらかるぞ」
 小声に話す男が二人。目をこらせばどこかでみたことのある人相だ。
(あれは…殺し屋)
 土寿烏と万寿烏だったか。
 先に山野とともに追い、身柄は里に引き渡したはずだが…。それが取引によって放たれるとは。
(とんだ道化じゃねーか、俺も先生も!)
 歯噛みしたのは一瞬ですぐに意識は目の前の事象に集中する。
 男たちはさらに小声で何事かを囁き合うと、二手に分かれて学園の敷地へと侵入していった。技巧の差こそあれ数え切れない仕掛け罠の張り巡らされたそこに、しかも生徒たちと行きあう可能性の高い夜に向かっていくのだから、大した自信というべきだろうか。…少なくとも今の与四郎には同じことをする度胸はない。
「しっかし、やべー事ンなったな」
 口に出してみると己の声は予想以上に弱り切っていた。
 思い切って学園側になまえの警護を頼んでみようか。
 いや、それをすれば自分がここに来た理由から説明しなければなるまい。里の動向が露見すれば殺し屋どもだけでなく、自分と、それに喜三太までもが学園となまえに近づけなくなってしまう。代償が大きすぎだ。
 一番理想的なのは殺し屋の男たちが侵入せずに引き返すこと、次点で侵入後に何も吐かずに捕えられることだが…。なにやら離れた場所が騒がしくなってきたので後者の可能性が高いだろうか。
 とりあえず可能な限り近づいて様子を見てみよう。
 夜が明けてからなら喜三太への面会と言う名目で堂々と内に入ることもできる。なまえと接触する機会もあるかもしれない。
 そう決めたところで与四郎は男たちが向かったのとはまったく異なる道筋を選んだ。
 以前なまえの案内で通った場所だ。
 仕掛け罠が増えている可能性はあったが、やみくもに進むよりは安全に学園に至る事が出来る。
 沢の横を通り過ぎようとしたとき、ふと聞こえた足音に与四郎はあわてて身をひそめた。
(今度は誰だ…ん?)
 学園の生徒かと思ったのだが。
 視界に入ったのは学園の制服ではなく、黒装束の女だ。足取りからしてかなり若い。
 まさか第二の追手かと身構えた与四郎だが、次の瞬間あっけにとられた。
 女が黒装束を脱ぎ出したのだ。
(え、おい、ちょっと)
 あらわれたのはごく普通の小袖姿だ。ただし日中であれば、だが。
 たばねていた髪をほどく瞬間に横顔が見えた。
「なまえ!?」
 女がびくりと振り返る。
 月の光にか、青白い顔はたしかにここしばらく何度も思い描いていたなまえのものだった。






「与四郎…っ」
 なまえが呆然としたのはほんの刹那で、彼女は迷うことなく抜刀した。
「風魔の手先ね」
 咄嗟に言い当てられた秘めごとに、繕う言葉を与四郎は持たなかった。
 こんな時なのに胸の奥が熱くなる。
 対峙し、睨まれ、押し殺した殺気を放たれていても、再会は苦しいほど嬉しい。
「通して。私、あなたとやりあうつもりはないから」
「俺もねーよ。どこ行くんだ?こんな夜中に」
「あなたには関係ないところ」
「逃げんのか」
「あなたが追うならそうなるね」
「…殺し屋見なかったんか?俺の後ついてきたやつら、さっき学園のほーに行ったぞ」
 言う間にも離れた場所から男の悲鳴が聞こえた。
 ぴくりとなまえの眉が動く。
 与四郎は苦笑する。
「んで、俺も隠れてっとこ」
「敵の敵は味方だって?私にとって目下のところ、追いかけてくる猟犬はあなたなんだけどな」
「ウサギ同士仲良くしてくれねーか。情けねぇけど、俺がまともにやりあって勝てる相手じゃねぇ」
 ----つまり、お前もかなわない。
 言外になまえの力量を計ってみせると、彼女は目を細めて沈黙した。
 得物を下ろす。
「――――…わかった」
「とりあえず離れてまぎれっぺ。俺も着替えっから、街道に出よう」
「夫婦?兄妹?」
 打てば響くように問われて、与四郎が少し視線を彷徨わせる。
「あー…兄妹ってほど見た目、似てねぇよな」
「どこからどうみても赤の他人だよね。…うん、人妻ね、大丈夫かな…」
 15、6で嫁入りするのも珍しくはないから、外見に問題はないはずだ。
「あの、…よろしくお願いしますわね、あなた」
 はにかんだ頬笑みで上目づかい。
 まだ心の準備が。
 駄目だ歯止めが効かない。
「…あ、え?」
 抱きしめた体はほのかに甘いにおいがした。
 戸惑う声に我にかえる。
「うちの嫁さん、あんまり可愛いかったからよ。二人旅なんだからこんくらいしたっていいべ?」
「もう!」
 そんだけ演じてもらえればこっちは適当でもいいね!と離れたなまえのぬくもりを惜しみつつ、与四郎も装束を脱ぎ捨てた。背を向けていたなまえがぽつりと呟く。
「…与四郎。信用はしないけど利用するよ」
「おー、好きなだけ使っていいぞ」
 振り返った肩を押すと、なまえは小さく笑ったようだった。