手燭のない廊下は墨汁の中を泳ぐような暗さだったが、慣れた足は迷わずにひとつの部屋に向かった。
「入りなさい」
 声をかけるより早く応えが返る。時間帯もあり極力気配を消してきたつもりだったが、部屋の主には筒抜けもいいところだったようだ。
 束の間噛みしめた悔しさを奥深くに仕舞いこみ、なまえは襖に手を添えた。
「夜分に失礼いたします」
「呼んだのはこちらだ。そうかしこまるんじゃないよ。…ほら、おやつもあるから」
 示された小鉢に盛られた木の実や菓子の量に、なまえは素直に目を見張る。そんな様子に雑渡は満足そうにうなずいた。
「子供はたくさん食べて大きくなりなさい」
「…そういう年頃でもないと思うのですが」  
「おじさんから見たらまだまだ子供だよ。成長期には違いないさ」
 よく見れば雑渡本人は手酌で酒を飲んでいるようだった。ほのかに酒精の香りがただよってくる。 
 なまえは思わずまじまじと口元を凝視する。
「しみないんですか、それ」
「ああ、うん、痛いよ」
 けろりと答えて「でも旨いんだよねえ、困ったことに」と雑渡はまた茶碗に口をつけた。日頃雑炊ばかりすすっている人間の発言とも思えず、なまえはなんとなく黙り込む。これが大人というものだろうか。
「さて、夜は長いが子供は寝る時間だ。なるべく手短にいこうね」
「先ほどからその、子供子供と連呼するのは止めていただけませんか」
「うーん、そこは君の態度次第?」
 ことりと茶碗をおいて雑渡はなまえに向き直った。行燈の明かりがちりりと揺れる。
 闇に溶けていた何かが大きく膨らんだ気がして、なまえはそっと膝上の両手をにぎりしめた。
「君がタソガレドキに来た理由は入隊の時に聞いた。私はみょうじという一族の特性を知った上で理解しているつもりだ。『どこよりも強いところに身を置きたい』…それは今でも変わらないかい」
 全身を打ちつける罪悪感に唇をかむ。
「強固な守りはただ与えられるものではない。我々を強者とするのがどういう行為によるものか、わかっただろう」
「はい」
 自らの手が行った一方的な殺戮を肯定することはできない。言いようのない、粘つくような感情を一生背負うのだろう。おそらく、この先、もっとたくさん。
 けれども立場はいつ逆転するかわからない。
 選択一つで自分はあそこに転がるモノになるのだ。かつての祖父のように、輪郭もおぼろげな家族のように。
「私の望みは、かわりません」
 まっすぐに見返す視線を受け止め、雑渡は苦笑ともつかない表情をうかべた。
「…約束したことを話そう。ただし私が知るのは君の母上のことだけだ。いいね」







 先代城主が南蛮貿易に積極的だったタソガレドキでは、その利にあやかろうとする商人たちの動きもまた活発である。とはいえ戦乱の時勢。軍備の強化に力を入れる国では、いつ何時戦に巻き込まれ、得意先が敵国になるとも限らない。だから大店の商人たちは諸国との中立をはかる国に腰を据えたがる。タソガレドキに集まるのはおもに定まった店を持たない旅商人たちで、その中には行者や歩き巫女など『少々得体のしれない』者もしばしばいた。
 城下町から少し離れた忍び村は、そのような者たちの定宿でもあった。
 村の中でも大きい雑渡家は頻繁に『客人』が訪れる。
 ある薬師の一行は家族で諸国を移動しているそうで、どこか常人離れした他の客人たちに比べると優しげな雰囲気をしていた。とりわけその娘とは年齢が近いこともあって、昆奈門にとっては年に何度か泊まりに来る親戚のような感覚だった。
「それが母親の名前。そうだねえ…君をもうちょっとぼんやりさせたみたいな子だったよ。村の子供と遊んでいても、仲間はずれにされがちなんだけどね、されてる本人は『あれがあの子たちの遊び方なの』ってニコニコしているっていう」
「…はあ」
 頭の弱そうな子だなあというのが話を聞く限りの第一印象だ。複雑な表情に笑って雑渡は片手を振った。
「別段馬鹿なわけでは無かったよ。ただ同年代の人間関係に不慣れすぎて、どうにも目線が大人のものなんだ。自分と周りの間に線引きしているから何をされても腹が立たない。他の子供と積極的に関わろうとしない子だったが家柄を考えれば当然だったろうね」
「どうしてそんな相手と親しくなったんです?」
「みょうじがどういう家かなんて知らなかったから、最初は単純に同情したのさ。それが話してみればそこらの大人よりよほど学があるじゃないか。悔しかったね、なにせ自分よりできる子供など初めてだったから」
 挫折とまではいかないが鼻っ柱はへしおられた。
 生来の負けん気で競い合っても学問において母親の名前にかなうことはついぞなかった。結局数年で母親の名前に勝つことはあきらめて体術を磨こうと決めたのだが、それまでの間、雑渡は母親の名前の一家が来るたびに毎日彼女と机を並べていた。
「そういう幼馴染だったんだが、縁談が決まってからはすっかり疎遠になってしまった。残念ながら君の父上については知らないよ。ああ、爺様の頑固ぶりについてはいくつか話せるネタがあるけど」
「…いいえ組頭、まだ大事なことをお聞きしておりません」
 包帯からのぞく視線を茶碗に落とし、雑渡は無言で先を促す。
「母と知り合いになられた経緯はわかりました。では組頭が今のお体に…いえ、『今の状態で生きられる』ようになった理由は?」
「君の母上に血をもらったからだよ」
「…どうして」
「母親の名前がやさしかったから、かな」
「それだけですか?」
 雑戸は姿勢を正しなまえに向き直った。
 明りが揺らぐ。
「何でも話せるわけではないのさ。私は大人で、君は子供だからね。大人というのは秘密を持っているものだ」
 はぐらかす口調だがまなざしは真摯だ。
 反論しかけた口をつぐんで、名前は別の言葉を吐きだした。
「…私が大人だったら教えていただけることなのでしょうか」
「さて、どうだろう。私が死ぬまでには教えてもいいかなあ」
 含み笑って雑渡は懐に手を入れた。
「君の母上からの預かりものだ。受け取りなさい」
「え?」
 差し出された包みになまえは妙な既視感を覚える。
 手のひらに乗るほどのおおきさ。
 以前、手渡してくれた人に、つきかえしてしまったもの。
 包みを開けば以前見たものと同じ、しかし傷のない美しい櫛がそこにあった。
「対になるよう拵えて、一つは母親の名前が、一つは君に持たせる予定だったそうだ。母子が離れ離れになっても、互いにしのべるようにと」
「どうして…」
「本当は君を手放す時にも持たせようとしたのだがね。爺様に『万に一つも繋がりを残してはならない』と止められたんだよ」
 当時は本当に状況が厳しかったから。
 なまえは顔を上げられずに、膝に広げた包みを見下ろす。
「…学園長先生のもとへは、祖父が連れてきてくくれて…。そのときに母も亡くなっていると聞いています。組頭はそのことも御存じなのですか。母はどこで、どうして」
「残念だが」
 言いつのる言葉を冷やかな声が打ち消す。
「話せるのはここまでだ。…子供はもう寝る時間だよ。早く部屋にお帰り」
 茫然としたまま名前は頭を下げる。
 別れてすぐに死んだという母。
 今聞かされた話が真実なら、この櫛は自分が祖父に連れだされる直前、すなわち母が死ぬ時に雑渡の手に渡ったことになる。
 幼馴染という知り合いが、そう簡単に再会するものだろうか?まして火急の折り、手持ちの品の来歴など語るだろうか。片や追われ狩られる女と、片や大国タソガレドキの忍。
「…夜分に失礼いたしました。おやすみなさいませ」
 添えた手が震え、襖がカタカタと小さな音を立てた。隙間から見える雑渡は素知らぬふりで鷹揚に頷く。


(まさか組頭が?)


 足音を殺して廊下を歩く。
 見えずとも道は判るが、あたりは一寸先も見えない闇だ。


(組頭が、母様を?)


 手の中の櫛が重い。
 胸中に広がる疑念の重さだ。
 初めに雑渡とかわした問答に嘘はない。披毒した自分を救ってくれた人。我が身を粗末に扱うなと心配してくれた人。彼らの配下となったことに後悔などなかった。過去をやり直すとしてもきっと同じ道を選びタソガレドキへ来るだろう。間違えてはいない。それなのに、この重さは何だ。







 形見の櫛を手にしていても、思い起こされる母親は後姿ばかりでこちらの問いに答えてはくれない。
 その晩は暗澹たる気持ちで眠りについた。
 どうしてだか夢に見たのは返した櫛を持ち歩く食満の姿で、自分の未練に苛立ちながらも、目覚めた朝にはぼんやりとした幸せの名残りを惜しんでいた。