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 目覚めて最初に視界に飛び込んできたのは、見覚えのある天井の木目。瞬いたら涙が流れた。最初は乾いた眼球を潤すための反射に。ついでこらえようのない熱いものが体の奥からせりあがってきて。
 のろのろと両手を持ち上げる。動く。あんなに重かった体が、きちんと自分の意思に従って、動く。
「…わたし、いきてる…!」
 がさがさと乾いた声で呟けば、障子の向こうで気配が動いた。
「目覚めたか」
「小頭」
 跳ね上がる心持ちで、実際はのろのろと寝床に座りなおす。厳しいおもざしを見た途端、頭が一気に現実感を取り戻した。
 あそこから自力で帰還できたはずがない。
 誰かが連れ出してくれたのだ。
 好きな人の幻を見たなんて能天気は口が裂けても言えないが、しかし、では誰が。
「礼なら組頭に言いなさい。我々は先に撤退していた」
「組頭!?まさか毒を」
「安心していい、珍しく若いのに御自分で稽古をつけるくらいぴんぴんしているから。…それはそうとなまえ、何故あんなことになったんだ」
 穏やかな口調だがそれが逆に恐ろしい。
 がちがちに肩をこわばらせながら、なまえは「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
「予想していたより毒性が強かったようです。以後は事前に服毒訓練を」
「そういう問題ではない」
 強い口調で遮った山本は、顔を上げたなまえに、複雑な表情を見せた。
「そういう話ではなく。…草と呼ばれようとも忍は人間だ。取り換えはきかない。最悪任務を仕損じても仕掛け直せばいいんだ。自分達さえ生きていれば再機は訪れる」
「…小頭」
「なまえ、お前はもっと自分の価値を理解しろ。任務遂行した責任感は認めるがな」
 そこまで言うと山本はふと表情を緩めた。
「しばらく休みもなかっただろう。せっかくの機会だから、少し静養していなさい」
「はい。…申し訳ありませんでした」
「わかったならいい。…ああ、組頭から話があるそうだ。夜あたり動けるようなら部屋に行っておいで」
「わかりました。あの」
「どうした」
「…小頭、ありがとうございます。ここに帰ってこられて、ほんとうによかった」
「そうか」
 にこりと笑って、山本は静かに障子を閉めた。


 反省しきりな様子のなまえに説教するのは気楽なものだが、さて、次の相手はそうもいかない。



 雑渡はのんびりと縁側に寝転び、庭先のすずめに餌を投げながら茶を啜っていた。どう見ても老猫がくつろいでいる図である。朝から数十人をこてんぱんにした人間とは思えない。しかもこの猫、歳経た分か生来の性格か、ひどく老獪である。
「ああ陣内、いたの。なまえの方はどうだった」
「…だいぶ回復しましたね。夜にお部屋に伺うよう伝えておきました」
「数時間で調子が戻るんだから若いっていいねえ」
 私は久しぶりに運動したら腰が痛いのに、などとうそぶく上司に、山本の中で何かがぷちんと切れた。
「な、に、が、腰痛ですか!人の話を右から左に流しやがってこのド阿呆」
「うわー怖い怖い、…え、ちょっと陣内、目が本気だよ」
「当然です」
 おちょくるような笑顔を浮かべていた雑渡がはじかれたように正座する。不惑も間近な男がしおたれる様子はいい見物だが、尋常ならざる山本の殺気を感じてか、あたりには人はおろか小鳥の気配すらない。
 深く息を吸い込んで怒りを沈めた山本は、それでもまだ充分不穏な面持ちで、雑渡の正面に座った。
「私が申し上げたことは覚えていますか」
「えーと、なんだっけ?」
「『城内に立ち入るな』とさんざん申し上げたはずですが」
「ああ、うん、ごめんね。忘れてた」
 けろりと言って雑渡は笑った。
 山本は憮然と「冗談じゃない」と吐き捨てる。
「ほんとうに、冗談じゃありません。何故我々を使わないんです。そのための部下でしょう」
「…こんなに心配してくれる相手を死地に送るほど、私も非情じゃないよ」
 嘘か、真か。どちらともつかない態度で笑ってみせるて雑渡は立ち上がる。
「疲れた。夜まで休ませてもらう」
「そうしてください。本来なら帰ってきてすぐに休まれるべきです」
「外傷もなく、同行したおまえたちは働き続けているのに?」
 意外な言葉を聞いた、というように山本の眉が上がった。
「組頭と一緒になさいますな」
「病人扱いとは聞き捨てならないね」
「重さが違います故に」
 淡々と山本は答え、先んじて障子をあける。
「今、あなたの替わりは、おりません」
 廊下に踏み出した山本はくるりと振り返り、部屋に立つ雑渡をひたと見つめた。
 そのまま両膝をつく。なめらかな板がギイと音をたてた。
「十年前と同じことを繰り返すおつもりでしたら我々は全力でお止めいたします。…忍軍百名の重み、なにとぞお忘れなきよう」



 あの凶事を覚えている者はだいぶ少なくなった。
 入れ替わりの激しい忍組だから年長者は櫛の目のように欠けてゆき、残った者のうち、雑渡がなぜこのような姿なのかを知る者はいても、至った経緯について知っているものは数えるほどしかいない。
 十年前。
 天を焦がす炎を見た時はさしもの山本も目の前が真っ暗になった。隣国の屋敷を内偵する任務についていた時のことだった。山本は離れた場所から監視をしていたが、中で動いていたのは当時火薬部隊小頭であった諸泉尊奈門の父親、それに若手の俊豪をうたわれた雑渡昆奈門の二名。轟音とともに四散し炎上する屋内から前小頭を担ぎ出してきた時、青年の半身はすでに紅蓮に舐めつくされた後だった。
 その経緯とやらも、真相は炎の中で消えてしまったのだ。
 なにせ状況を説明したのは当事者たる雑渡昆奈門ただひとりである。「もともと貯蔵されていた火薬が爆発した。原因はわからない」という曖昧な言を否定する者はいなかった。同行していた前小頭は比較的軽症であはったものの、事故前後の記憶混濁が激しく証言はままならなかったうえ、今後職務を果たすことも難しいと自ら蟄居してしまったためだ。その間小頭の役目は山本があずかることとなり、雑渡が復帰するのを待って正式に引き継がれた。口さがない噂のうちにはには「雑渡が事故を仕組んで諸泉小頭を引きずり落とした」と言うものもあったが、当の老諸泉本人が「雑渡がいなければ自分の命はなかった」と明言したうえで次期組頭への推薦も行ったのだから、立ち消えるまでそう時間はかからなかった。

 雑渡が組頭の座を得たのは至極正当な評価だと山本は思う。

 噂のような搦め手を使わなくとも遅かれ早かれ彼は小頭となり、さらに上までたどり着いた。だから雑渡が老諸泉を連れて帰って来た英雄譚はそのままの真実だろう。
 ただ一つ、『内部で何が起こったのか』という核心だけが、十年間誰も知ることのないまま今に至る。それならそれで構わないと今の山本は思う。
 重要なのはこの忍軍を束ねる傑物が、生きて今ここに存在しているという結果である。
 雑渡昆奈門が死んだら、元小頭のように任務中の負傷があったらと言う『もしも』は、あってはならない。その可能性を繰り返すことは、もはや彼の背に負われた忍軍組頭と言う肩書が、けして赦さぬことであるのだ。






 両手をつき、深々と頭を垂れる部下を、雑渡は無言で見下ろしていた。山本もまた沈黙を返す。
 なまえに向けた言葉に偽りはないが、この男と引き換えにはできない。ああそういえば前に誰かが言っていた。




(お話は受けられません。あの人のために、縛るものはきっと少ない方がよろしいのです)


 もうずっと昔。

 そのころはまだ部下であった雑渡がたった一度、頭を下げてある説得を頼み込んできたことがある。
 出自など気にしなくていい、本人同士が幸せになるなら祝福すると言葉を連ねた山本に、女はかなしい笑顔で首を振った。


 その後、十年前の災禍で雑渡昆奈門は小頭の地位を得たが、同時に複数舞い込んだ縁組をすべて破談にした。焼けただれた容姿を気にしてという言葉も偽りではなかっただろうが、結局は添いたくもない相手と一緒になりたくないというのが本音だったろう。
 山本にとって記憶の彼女の顔はもう定かではなく、ただ土鈴を転がすようなやわらかな声音と言葉が深く刻み込まれている。
(この男を執着させるものがあってはならない…)
 守りたいもの、命を賭せるもの。
 男と生まれてそれに巡り合うのは僥倖だが、忍軍と、ひいては国一つを背負ってしまっては、そうたやすく身命を捨てられてはかなわない。変事が起こって初めて山本はその事実に気がついたが、彼女はずっと以前に男の才と性質を理解していたのだろう。
 雑渡が欲した花はひとつきりだった。


「…お怨みになりますか」


 口を衝いて出た言葉に山本は顔をしかめた。
 雑渡が笑う気配がする。


「いや」


 身が爛れてもそれだけ昔と変わらない声が答える。


「忍軍(おまえたち)を放りだすものか。責任の上で、私は望んだことを為すよ。その為の努力さ」