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「…戻りませんね」
 呟いたのは高坂だった。
 諸泉は不安げな、山本は厳しい表情をそれぞれ城へと向けている。
 引き上げる時間はとうに過ぎていた。遠目に見ても作戦の成否はわからない。首尾よくいっていたとしても城外に詰めた兵士がいる。居続けるのは危険だ。
「組頭、御判断を」
 選択の余地はなかった。
「撤退だ」
 頷いた一同に雑渡は予想外の言葉をつづけた。
「私はもう少し残るよ」
「何を仰る!」
 目を向いた山本に雑渡は軽く肩をすくめた。
「折角の舞台を尻切れ蜻蛉で帰るのも無粋だれう。帰らないなんていってないじゃないか。それとも私はそんなに信用がないのかな?」
「日ごろの行動を省みて言っていただきたいものですな…」
 普段いくら口をうるさくしてもふらりとどこかに消えてしまう雑渡の振る舞いを思い出したのか、結局山本の口調はだんだんと尻すぼみになっていった。
「わかりました。重ね重ね申し上げますが、けして城内には立ちいられませぬよう」
「はいはい」
 軽い返事説得力はまるで無かったが、山本も高坂も諸泉もそのまま先に撤退した。
 生死のかかった任務遂行において国中の誰より信を置ける、それが雑渡昆奈門という男であった。







 霞む視界に影がおおいかぶさり、転がっていた体が揺れた。
「なまえ!」
 追手かと思ったが、呼ばれたのは私の名前だ。おかしな夢だ。こんな場所に知り合いなんて誰もいない。いたとしたって殺してしまっただろうに。おかしくって笑ってしまう。
「なまえ」
 ああそうだ、夢だ。配合したものには幻覚作用もあったから、きっとそのせいだ。
 こんなよく知った声。
 一番聞きたい声が聞こえるなんて都合いいこと、あるはずがない。
 幸せな夢を見ている。
 これが私の最後なら随分上等だ。
「…食満…」
 幸せなまま呟けば、抱きかかえる腕がぎくりとこわばる。
 気がつかずなまえは混濁の中に意識を落とした。












 口元を覆う布にさらに絞った手ぬぐいを重ね、被毒を厳重に警戒していた男は、思わず詰めていた息を吐き出し叫んだ。
「なまえ!」
 侵入口からわずかの場所でくたりと倒れていた女は、いつのまに面変わりしたのか、間近に見ればもう少女の面影は少ない。抱きかかえた体は軽く、筋肉は確かについているのに肌はまるで指が沈むようなやわらかさだ。会いたかった。触れたかった。できればこんな形ではなく、だけれど。
「なまえ」
 まだ息はある。
 浅く弱い呼吸の合間になまえが微笑む。
「け、ま」
 唇が形作った音に与四郎は一気に現に引き戻された。
 たった一言が思い知らせる、なまえにとって一番大事なのは…あの男だと。似ていると言われたことはあるが、そんな相手ならばこそ見間違えるわけがない。意識の混濁が激しいようだ。感傷に浸っている場合じゃない。一刻も早く外へ連れ出さなければ。
(…オレも大概ぇ諦めの悪ぃ…)
 口布の下で自嘲する。
 一言で打ち砕かれたくらい望みはないというのに、抱きかかえたぬくもりだけで、こんな状況でも幸せで目がくらみそうだ。いっそ連れ去ってしまおうか、このまま二人で風魔でもタソガレドキでもなく…。胸をかすめた考えを外の風が払っていった。
「さて、どーすっか」
 周囲のかがり火に目を走らせて呟く。
 さすがにもうすぐ異変に気がつくだろう。それまでに包囲を抜けるのはたやすかったが、その後はどうしたものか。
「その子を返してくれればいい」
 前触れなく返った言葉に与四郎は瞬時にその場を飛び退った。
 暗闇から生まれ出たような男は、包帯から覗いた目を光らせて与四郎へと一歩近づく。
「タソガレドキの組頭殿、御自ら迎えに来るなど思いもよりませんでした」
「保護者だからね。可愛い娘が門限を守らなければ心配もするさ」
「秘蔵していた駒でも、仕損じれば捨てる合理主義と思っておりました」
「風魔とやり合うつもりはないが…今日は少々私も気が立っている。あまり挑発しないでほしいなあ」
 気軽な様子で言うが漂う気配は恐ろしく重い。無意識に半歩引いて、与四郎は自分の足音に歯噛みする。悔しいがどうしたって敵う気がしない。最強を噂される男に、本人いわく今日のところは戦う意思がないというのは、ものすごい幸運だった。こんな化け物からなまえを連れ去ろうなんて無謀過ぎだと与四郎は自身を計る。
 腕の中のなまえが小さく身じろいだ。
「なまえはね。特別なんだよ」
 ごく低い笑いが、沈黙の中を不思議に響いた。
「ずっと見張っていたくらいだ、君も知っているんだろう。その子は多少特別だから、この毒霧の中でさえそうして生きている。でもね、私にとってはそんな事情とは別に、なまえは可愛い娘なのさ。捨て駒などと言わないでおくれ。あいにく他人に言われて許せるほど、私は気の長い方ではないから」
 ぬうと差し出された二本の腕は太い木の根のように名前を抱え込んだ。
 抗うことができない。ぶつかりあった視線を逸らさないことが与四郎の限界だった。背中に汗が流れる。ぬくもりをなくした両腕が急激に冷えていった。
 だから、包帯の男が次に口にした言葉は、とても奇妙に思えた。

「ありがとう。私では助けられなかった」
 
 気を失った人間一人抱えているとは思えない身軽さで雑渡は城壁を飛び越えていく。
 体を縛っていた重圧が無くなって初めて、与四郎は大きく息を吐き出した。
 闇夜が少しずつ去ろうとしていた。