小頭が書類業務に励んでいるころ、少し離れた休憩室では高坂が頭を抱えていた。
「起きない…!?」
 組頭に押しつけられた『荷物』の置きどころに悩んでとりあえず運んできたはいいが、当人はすうすうと寝息をたてたまま目覚める気配がない。高坂とて入隊のころには随分しごかれたから訓練の内容はわかる。忍服の裂け方や、そこここの鬱血を見ても、上司のやる気が伝わるようだ。それにしても裾をわって白いふくらはぎが見えているのだから、もう少し色気があってもいいようなものだが…丸まって足元に転がっている小娘は、喧嘩のあとの子供にしか見えない。いいかげん面倒になってきた高坂は、立ち去ろうかと背を向けた。
「高坂さん?」
 不意を突いた声にぎょっとして振り替える。
 最前まで爆睡していたなまえはあっさりと起き上がって背伸びをした。あたりをみまわして不思議そうな顔をする。
「あれ?私井戸にいましたよね」
「寝てたところを組頭に発見されていた」
「ああ…それで高坂さんが。ありがとうございます」
 なぁんだ、といわんばかりの納得顔に高坂のほうがたじろぐ。どういう思考回路か知らないがなぜこの説明で状況を飲み込めるのだ。
「お前、女ならもう少し気を使ったらどうだ」
 呆れと老婆心で忠告してやれば、彼女はそれこそ心外だったらしく、「どうして」と斬り返してきた。
「何故って…お前、女だろう」
「女には違いありませんが、だからなんだと申し上げているんです。男性ならあの訓練受けて七日間の不眠不休でも寝落ちないんですか?同期全員途中で倒れてましたよ?ここは敵陣じゃなく、一枚岩を誇るタソガレドキの城内なんでしょ?訓練期間おわりましたよね?っていうか実際何事も起こってないんだから問題ないでしょうよ、それともなんですか高坂さん私の足くらいで欲情できるんですか」
「んなわけあるか」
「じゃあいいでしょう、ああもう…ねむい」
 言うだけ言って一方的に去っていく小さな背中を、高坂陣内左衛門はなかば呆然と見送った。







 は、と目を開いて視界に入って来たのは天井の木目で、なまえはぼきぼき鳴る肩を回しながら起き上った。なんだか妙な夢を見た気がする。まさかまさか、ちょっと怖そうな先輩にむかって暴言吐くなんてありえない夢を見たものだ。それにしても今回の訓練開始から七日ぶりの布団は、とんでもなく気持ちいいものだった。できることなら再び倒れ込んでしまいたいくらいだが、明るさからしてもう結構な刻限だろう。
「なまえ、起きた?」
「はい!」
 ひょいと覗きこんできた諸泉に返事をして、慌てたなまえの手が枕元の包みに触れた。…包み?
「あれ、私こんなもの置いてたっけ」
「あ、それは高坂さんがまとめててくれたんじゃないか。なまえ訓練のあと着替えほっぽりだして寝てたんだって?風邪ひくなよ」
「…高坂さん?」
「うん。ちゃんとお礼を言っておくんだぞ、運んでくれたんだから」
「はーい…?」
 にこにこという諸泉を見ていると、和やかな気持ちになるのだが、与えられる言葉の数々に脳内の処理が追いつかない。これ、現実じゃない。あってほしくない。
「もう一回寝…」
「なんでそこで布団に入るんだ」
 首根っこを掴まれて、なまえは青い顔を諸泉に向ける。
「あああああの、高坂さんお怒りじゃありませんでしたか、その、」
「…………いや、」
「何ですかその間は!目を合わせてくださいよ諸泉さん!」

 ぎゃいぎゃいと言い合っていると、廊下から静かな足音が近づいてくる。

「起きたならさっさと仕度しろ。組頭がお呼びだ」
「こ、高坂さん」
「急げ」
 用件だけ告げると踵を返す。反射的にその袖をつかみに行って、なまえはあたふたと、だいぶ目線の高い顔を見上げた。
「なんだ」
「もッ、申し訳ありませんでした!寝ぼけて大変失礼な事を」
「構わん。確かにお前だけ心配するのも妙な話だった」
 それに、と腕を組んで高坂は傲然となまえを見下ろした。
「色気のかけらもない小娘だしな。上から下まで見ても何とも思えん」
「上って。下って。…え?」
「よかったな、そのままなら当面安心だ」
 今度こそ立ち去った高坂を見送り、立ち尽くすなまえは自分の胸に手を当ててみる。自業自得なのはわかる。わかるが、しかし。
「まあ、早く着替えてくるんだよ?」
「…はい」
 目を合わせないまま背中を叩いていく、諸泉の優しさが今は痛い。









「ようやくそろったね」
「遅れて申し訳ありません!」

 なまえが部屋に駆けこめばもう山本が茶を配り終えたところだった。新人にあるまじき失態と顔色を変えるも、そろった面々は当然のごとく茶菓子はこれがいいのあれがいいのと談義をはじめる。煎餅があっというまに無くなったところで、山本がひとつ咳ばらいをした。もぐもぐしながら諸泉が座りなおす。
「尊くんの煎餅好きも相変わらずだねえ。今度の任務の前に買いこんでおくといい」
 脇息にもたれてけだるげに雑渡が言う。組頭がごろごろ寝転んでいないのは久しぶりだと、自分以外全員が思っているのをなまえは知らない。
「『前』に?」
 思わず口に出たなまえの呟きに、雑渡が頷いた。
「次の仕事は城攻めね。煎餅も名物らしいが、さすがにしばらくは商売どころじゃないだろう」
「お待ちください」
 山本が口を挟んだ。
「城攻めは我々の任務とは言いますまい。城内の手引きですか、それとも」
「いや、城攻めでいいんだよ」
 雑渡の唇がにい、と歪む。
「ここにいる我々だけで一城を落とすのさ」
 高坂が中腰になって、一瞬の後に座りなおす。口を開けば全員が同様の言葉を繰り返しただろう。まさか、どうして、と。
 そんななかなまえはそろりとを挙げた。
「あの、組頭。…私もその頭数に?」
「無論。イヤと言っても出てもらうよ、おまえが要だからね」
 場の空気が凍ったのは気のせいではないはずだ。初仕事の新人に。たった四名で一城を落とすなど、いっそ馬鹿げた命令の、要など。
 絶句した面々の中で雑渡一人が何事もなかったかのように懐から『あるもの』を取り出した。なまえの顔色がかわる。
「それは」
「伊作くんから貰いもの。しばらく前にね、欲しいって言ったら、どうせ内容知っているんでしょうってさ」
 たしかに伊作の予想通り雑渡は一度中身を読んでいるのだが、喜んで他人に渡すような代物でもない。もしや伊作は自分がタソガレドキにいることを知っているのだろうか。どんな顔をしていいのかわからず、なまえは無言で冊子を受け取った。
 内容は覚えている。
 同時に未完成だったと断言できる。
 伊作には、調合ができない。
「…夢物語に価値があるとは思えませんが」
「さて、どうかな」
「え?」
「君たちが描いた地点には到達していなくても…経過は存在するだろう?」
 完成できない理由。
 伊作ではできない、なまえにならできたこと。隠したままで去ってしまったけれど。
 調合の途中で多量発生する気体には、生物の意識と呼吸を奪う作用がある。それを越えればおそらくは描いていた『苦痛を消すための薬毒』が目に見えるかたちで残るはずだった。しかしその仮定を現実にするには、まずは誰かが有毒の中で作業をしなければならない。
「…まさかとは思いますが組頭、今回の『城攻め』とは…」
「そうだ」
 す、と血の気が引くのを感じた。
 山本たちの視線を受けて、説明せねばと思うのだが、なまえには言葉が見つからない。
「これは…武器とは呼べません」
「伊作君の言葉を借りればね、学問を机上以外で発展させようとすれば多少の痛みは付き物さ。私もそれには同感だ」
「多少!?」
「材料は揃えた。手立ては講じている。学園よりも多くを為せると、言っただろう?あとは覚悟次第」
 なまえは唇をかみしめる。
 今ここで学ぶよりも多くを与えられる…君にその気があるならね。その言葉にひかれたのは事実だ。
 もう一つ。
「…組頭は、私の両親を御存じなのですね」
 包帯の中から覗く目が一瞬驚いたように見開かれ、それから、場違いなほどやさしく微笑んだ。
「任務が終われば話してあげようか。さあ、どうする」
「部下にお尋ねになることではないでしょう?」
 ここはタソガレドキ。
 彼の下にあることは、自分自身で選んだ道だ。
「確かに拝命いたしました。…皆様、どうぞよろしくお願いいたします」
 悪鬼に至る命令であっても、断るという選択肢は、最初から存在しない。