机に向かって墨を擦るのは久しぶりだ。
 しばらく外をかけずり回っていたし、極力手間をかけたくないので報告書はいつも簡潔だ。十数枚書いても矢立の墨壷で事足りる。
 もし、母親の名前がまだここにいたら今ごろ子供の名前を書くために墨を擦っていたかもしれない。名付け親は上司にでも頼むか、緒泉組頭は適当な名前しかつけないから山本さんにでも、などと思案していただろうか。
 キイと耳障りな音が響く。
 ち、と舌打ちして雑渡は手を止めた。墨に小石が入っていたのだ。小刀を求めて腰帯に手をやる。
 母親の名前がいたら苦笑しながらかわりの墨を差し出すだろうな、と思った。旅暮らしのせいか驚くほど荷物が少ないのに、紙と墨と筆だけは人の分まで用意している女だった。記録しておきたいのよ、どうせいなくなってしまうけれど、すべて忘れてしまうのは寂しいの。…それならずっとここに留まればいいといくら言っても頷かなかった。父親ゆずりの頑固さかと思っていたがそれ以上だ。
(ああ、面倒だ)
 苛立ちをこめて小石を削りだし、力任せに硯を擦る。目に見えないけれど確かに感触が変化していく。磨耗する。
 そうやって一時の熱として忘れられていくのだろうか。他の有象無象と一緒に。
「…遺書なんか」
 書けと言われたから書くが、いったい誰に宛てろと言うのだ。親がいれば親、妻がいれば妻、自分にはどちらもいないのに。
 一度癪に触ると手をつける気にもなれず、雑渡はごろりと寝転がった。
 生きて帰ればいいだけ、と任務のたびに思う。今回に限ってなぜ遺書など残せと言われるのかわからなかった。万一帰ることがなくても、家屋敷など適当な誰かが適当に処理してくれるはずだ。地下道だって実際に歩いてみれば時間はかかっても把握できるだろう。まあ罠でちょっとした怪我はするかもしれないが。
 たぶん、誰に宛てるかで内容は変わる。
 親ならば早死の不幸を詫び、妻ならば思いの丈を書き連ねるか、己の事など早く忘れて幸せになれと言い含めるか。母親の名前が自分に残した手紙は後者だった。腹立たしいから忘れずにいると決めた。情報を拾い集め、遠方への任務であっても労を惜しまず、またそこでも行方を探して。そうして先日掴んだ話では、さる国の臣の後添いとなり、子供が、娘が生まれたという。…婚礼の日取りからして早すぎる子供を。
 誰の子か、など考えもしなかった。
 確信だけがあった。
 睦み合い、子をなしたのに、去っていく。理由なんて決まっている。自分には彼女や子供を守りきる力がないと断じられたのだ。屈辱という言葉で片付かない程度の怒りがある。いくら仕事に打ち込んでも消えない温度で、まだ胸の内を焼いている。
 顔もみたこともない、名前も知らない子供。
 抱くことのかなわない家族。
 母親の名前を想うのは癪だから、かわりに赤子のことを考えてみる。そうだ、遺書ならあのこに宛てればいい。出会ったこともない、きっとこれから名乗ることもない。
 …だけどいつかもし、まみえる機会があるならば、その時は他者と比べようもないほど強くなっていよう。その子供を守れる程度に。
「どれ、」
 起き上がり筆を取る。



 雑渡昆奈門より娘に宛てる。
 父が死亡した場合、家屋敷金銭のすべての権利は我が娘のものである。以上。



 いくつかの年が過ぎ、功績はきわめて無造作に積み上げられた。死線もいくつかくぐったが思うことは毎回ひとつだ。死ななければいいのだろう?と。
 わけもなく、一人生き急ぐような雑渡に、組頭たる諸泉は時おり何か言いたげだったが、結局口にするのは遺書を書いておけとの一言だけだった。
 ある屋敷を探る仕事が与えられたのは、そんな折のことである。
 相手は他国の重臣。主の乱心により国が荒れ、諫言が増えたために不況を買って官位を剥奪された身だった。主に見切りをつけて反乱をくわだてるならばつけいる好機。はたして武具や兵糧等の蓄えは、今の人望はいかほどか。
 命令がおりたときに雑渡は笑った。
 あらためて調べるのを拒みはしなかったが、あらかたの情報はすでに握っていたのだ。四人の子供たちから妻の…母親の名前の名前まで。同時に彼の国の荒廃が、みょうじ狩りに執心した主が発端であることも、知っていた。
 緒泉はこの時も、遺書を書いておけと、いつもの言葉を繰り返した。



 雑渡昆奈門より娘、なまえに宛てる。
 私は、お前達を守ろうとする男を利用する。陥れるかもしれない。恨んで構わない。私は自分の国と仲間を守る。



 しかし潜入して見た状況は、情報として雑渡が知るものより、格段に悪化していた。
 流民に目を光らせ讒言や密告が日常化した中で、元家臣であろうとも追求を交わしきれるものではなかった。反逆者として召し捕られる混乱の中、屋敷の中に侵入すれば、数多の武器や弾薬が抱え込まれていた。蜂起するのはもう間近だったろう。
 どうする、と言ったのは緒泉だった。なにもかも見通した顔をして、俺は止めねえが、と続けた。
 忍の職務を全うするなら何もせずに帰国すべきだったのだ。殺しきれない情を後押ししたのは母親の名前の父だった。門前の乞食に身をやつし地に額を押し付けながら頼む事に、頼めぬ義理を承知で頼む、娘は捨て置いてかまわないから孫だけでも救ってくれないか。この皺首一つなら差し出せる、なんなりと利用してくれてかまわない。
 老夫は血にまつわる噂の真偽を一切語らなかった。緒泉がもう一度問うた。どうする、と。



 雑渡昆奈門より娘なまえに宛てる。
 私が向かった時、お前の家族は皆処分された後だった。母親の名前はお前を連れて家を出ていたが、あの国は血縁のないお前の兄姉をも疑った。本物ならば死なないだろうと試したのだ。
 逃げる母親の名前を見つけたのは私だけではない。国中が密告に溢れていた。屋敷に連れ戻され、まず母親の名前への尋問が始まった。お前は母親の名前と引き離され、最奥に監禁されていた。



 兵士に成り済ますのは容易かったが、母親の名前やなまえの周辺警備は厳重だった。
 兄姉達が皆「あたりまえの死」を迎えたこともあり、最奥の子供への疑いはいくらか薄かった。とはいえ母親の後回しになったというだけの事、放免などあるはずもない。
 数日かけて工作して、ようやく子供の警備役をもぎ取る。初めて見たその娘は、ずっと昔の母親の名前によく似た顔だったが、表情はまったく違う。泣きわめくでも暴れるでもなく、暗がりに爛々とひかる目がこちらを睨んでいる。
 食事の箸が戻ってこないと思ったら、床を剥がした隙間から地面を掘っていた。見つかったことに気がつくや、それでこちらの目を潰そうと飛びかかってきた。反射的に首筋に手刀を入れる。くたりと子供が倒れかかる。見た目以上に小さく、頼りない体だった。
「可愛いげの無い…」
 緒泉が吹き出した。
「おめぇそっくりじゃねえか」
 何か言い返そうとしたとき、抱えた子供が呻いた。
「…と、さま……、」
 ぎくりとした。
 自分の事ではない、これは、あの死んだ男を呼ぶ声だ。意識が混濁しているだけだと言い聞かせる。
「かあさ、を、…たすけ…」
 ぎゅっと閉じた目尻から涙が落ちた。ばたばたと、いくつも、いくつも。小さい手がふらふらと宙をさまよう。なにも考えずにつかんでいた。それだけで子供は安堵したようで、再び眠りに落ちる。
「昆奈門」
 上司が低い声で名を呼んだ。
「娘に頼まれて、嫌と言える親父は居るめぇ」
「…この子供はどうするんです」
「俺ひとりで間に合うさ」
 即答だが安請け合いでないのがわかった。娘の顔をまじまじと見下ろす。年に似合わぬ疲労が張り付いていたが、まだ幼い子供だった。母親の名前によく似て、まったく別の人間。
 …なまえ。
 この手の中にあるものは、離したとしても失わない。失うわけにいかない。突如として沸き上がった感情に驚きながら、小さな体を手渡した、
「組頭。…お願いします」



 先代組頭にお前を託し、母親の名前の監禁された部屋に向かった。母親の名前は衰弱し、長くはないようだった。わたしは彼女の末期にひとつ、約束をした。



 見た瞬間に絶句した。
 仕事柄、拷問の類いに多少の慣れはあったが、あまりにむごい。そもそも彼女が生きていることが驚異的なほどの出血だった。
 屋敷の警備にあたっていた兵はほぼ全員を仕留めた。殺すことは存外容易い。技術と体力があればある程度はどうにかなる。縄を切ると、母親の名前が目を開いた。驚き、かなしそうな顔になる。
「昆」
「不満か」
「巻き込んで…」
「仕事なんだ。いこう」
 しかし母親の名前は頷かなかった。
「なまえ…私の娘は?別の部屋にいなかった?」
「上司が連れ出してる。じい様が迎えにきてるよ」
「駄目!」
 蒼白な顔に一瞬血の気がさし、すぐに咳き込む。激昂の勢いのままに母親の名前が袖をつかんだ。
「早く、逃げて、」
「増援なら」
「…爆破されるのよ」
 予想外の言葉に雑渡は眉を寄せた。
「わたしたちは火に弱いわ。ここの殿様は、手に入らないものは壊してしまうの、人にとられるのが怖いから」
「中には兵がいるんだぞ」
「そんなことで躊躇するなら、狂君なんて…」
 語尾が爆発音に紛れた。
「なまえ!」
「大丈夫だ、あの人は約束を守るから。お前も行こう。早く」
「…昆」
 母親の名前が見上げた。さえざえとした目だった。
 拒絶されるのを視界に写した。口の動きにあわせた四音を耳が聞いたはずだが、認識できない。おかしいな、と思うと同時に全身が何かを訴える。痛みだと理解した時には熱波の直中にいた。
 至近距離での爆発は聴力と平衡感覚をも奪った。立っているのか倒れているのかわからない世界で母親の名前の名前を叫んでいた。音のすべてがひどく遠くて、いったいどれほどの声量で呼んでいたのだろう。それとも一瞬の夢だったのか。気がつくと自分の頭を母親の名前が撫でていた。
「母親の名前」
 いままで見た中で一番やさしい顔をして母親の名前は呟いた。
「あなたを利用する、私を恨んで。どうかなまえを守ってください」
「母親の名前」
 答えはなく、どさりと、質量をともなう音がした。人間一人分の音だった。
「母親の名前」
 枯れた喉で、一つ覚えのように繰り返して、雑渡はたったいま事切れたとは思えないほど冷えきった手をとった。数年前にほどかれた手を、ようやく掴んだ。



 先代も爆発に巻き込まれていたが、抱え込まれたお前は無事だった。外に出ると、お前の祖父が待っていた。



 老夫は娘の安否を聞かなかった。
 人二人を抱え、焼けただれた体で動く雑渡に、申し訳ない、とだけ言った。
 丸まって眠るなまえを渡しながら、ふと罪悪感を覚えて呟く。
「遺髪だけでもあれば」
「いいや、これでよかった…灰になれば何も奪われはしない。何も残してはならん」
 孫の顔を覗く老夫はひどく憔悴していた。
「お前さんには本当に申し訳ないことをした」
「そう思われるならなまえを私にください」
 頭で考えるより早く言葉が出る。今日は本当にどうかしている。何もかも現実味がない。
「その子は私の娘だ」
「いいや」
 首を振って老夫は一歩退いた。なまえを抱える腕に力が入る。
「幼くともみょうじじゃ。無力なままタソガレドキにやるのは危険すぎる」
「守れます。あのときとは違う!」 
「…いずれこの子も大人になり自分の行く道を探す時が来る。それまでは待ってくれんか」
「待てぬと言えば」
「可愛い孫にいらぬ苦しみは与えたくない。今ここで共に火に飛び込むまで」
 落ち着いた口調だったが比喩や誇張でないことは明らかだった。強引に奪うことを考えて、忍としての雑渡が答えをだした。異相のこの体では隠れ逃れるには圧倒的不利だ。



 先の顛末はお前自身が知っているだろう。大川殿には感謝してもしきれない。私個人からの礼として、あの学園に攻め込む者の一部は討ち取らせてもらうことにした。



 最後の一通となった一際分厚い紙を持ってなまえは長く息を吐き出した。受け止めきれない気持ちと共に、心の奥底がようやく安堵したのを感じる。
 衆目があってよかった。
 取り乱さずにいられる。
 遺してくれた人に対して自分がしたことを考えると、恐ろしくて仕方なかった。