報せを聞いた途端に、臥せっていた山本が起き上がりなまえの両肩をつかんだ。
「何故」
 たった二文字に込められた、いくつもの、怒りと絶望と悲しみの、感情の深さになまえは呼吸を忘れた。わたしが最初からいなければ、わたしが代わりにあそこに残れば、わたしが、わたしが。
「お戻りください小頭。話は後でもできる」
 高坂がとどめなければ肩が砕けたかもしれない。痛みよりも勝るものにただ俯くしかできなかった。
「早くいかないと」
 留三郎が呟く。走りながらなまえは苦くつかえる感情を噛み締める。





 外から見る崩落の派手さと裏腹に、思ったほどの延焼はなかった。それでも数箇所は未だに煙を上らせていて、城の家来たちが消火活動にあたっている。もどかしく堀の水を汲み上げる。
「こちらです!」
 水をかぶった高坂の先に立って走る。一瞬留三郎の渋面が視界に入ったが構わず進んだ。
「このあたり…」
 手桶の水を振り撒くと蒸気があがった。熱い。
(はやくはやくはやくはやく)
「皆様こちらに人が!」
 大声で叫ぶと数名が走ってきた。忍服に目をとめて困ったように立ち止まるのを、早く早くとせきたてる。自身も堀端からの列を作りながら手近な一人に言う。
「殿のお声に似ておられました」
「勘違いだろう。外におられたぞ」
「では偽物でしょうか」
 受け取った手桶を隣へ回す。早く水を、早く、見つけて、早く。
 いたぞ、と高坂の声がした。 
「声が似ているばかりで…」
「いえ、外におられる御方が」
 行きつ戻りつする人々の声が一瞬途絶えた。
「まさかそのような…」
 一笑に伏した男だが直後に顔色が変わる。
 運び出された人物は、焼け焦げてはいるものの、確かに城主と思われる衣服をまとっていた。
(はやく)
 息がある、と誰かが言う。
 しかし長くないことも明らかだった。
 留三郎が懐からなにかとりだして熾火に投げ込んだ。途端に赤い煙が立ち上る。非常事態をつげる狼煙だ。騎馬隊がかけつけるまであまりかからないだろう。
(はやく)






 驚いたことに北の方自らが手綱をとって現れて、あたりは更に騒然となった。だがなまえの驚きはそれどころではない。公表こそしていないが懐妊の可能性が高いのに。
「芳姫様!」
 なまえが声を張り上げると彼女は騎乗から一瞥し、馬を止める。どこじゃ、と問う声がわずかに震えた。
「こちらにございます。…お気を強く持たれますよう」
 降りる体を支えながら、このひとは向こうにいるのが誰だかわかっているのだろうか、と思った。自分の夫の変事を知っているのだろうか。
 これから引き合わせるのすら、本物ではないのに。酷い嘘をついている。
「姫様…」
「なまえ、殿はどこじゃ」
「あちらに。…何があったのです」
 震える足で歩く人に、火急の気持ちを抑え、なまえは小声でたずねた。確認する前から「外」にいるのが紛い物だと知っているような口調が気になった。
「馬に乗る私を止めなんだ。他の姫の折はあれこれと気遣ってくださったのに」
「お話されていたのですか…」
 万が一の事も考えて、懐妊の話は周囲に一切伝えていない。甚兵衛とて妻から聞いてもまだ語れぬ話だった。知るものは夫婦と、なまえ、芳姫の乳母の四人きり。なまえもまだ誰にも話していないし、乳母の口は固い。
(これは好機なの?)
 芳姫とはまた違った思いでなまえは身を震わせた。雑渡もまだ知らない。報せていない。
(確かめられてしまえば…) 
「殿!?…あああぁっ」
 駆け寄った芳姫の悲鳴をききながら、ただ凝視する。それしかできない。指先が冷えているのを感じる。どうか口を聞かないでくれと願う。喋れなくても、「黄昏甚兵衛を忍組が見つけた」ことと、「忍組でない何者かが騙った」事実があれば、忍組の取潰しは免れるだろう。確実ではないが可能性は高い。
(だからもうどうか…)
 もう元の顔などわからぬほど爛れた人のそばに膝をつき、なまえは溢れそうになるものをこらえた。常人ならばとっくに狂い死んでいるのに、心身の強靭さがまだ長らえさせている。
 みょうじを欲するすべての人が知ればいいと心から思った。不死は呪いだ。こんな、父と呼ぶ人の死を願うことなんて、誰が望んだだろう。
「よ、し、」
 背中が総毛だった。
 目は閉じられている。腫れて開かないのだ。
「殿ッ」
「ぶじ、か」
 故人が冥府からよみがえったか、あるいはこれが雑渡昆奈門であったのが錯覚だったのだろうか?声は間違いなく黄昏甚兵衛のそれだった。なまえの背後にいた食満と高坂さえ、疑念に顔を見合わせた。
「…無事です」
 胸を押さえながら芳姫が呟く。言葉を探しているのか、あとが続かない。静まりかえる中で横たわる男の呼吸が響く。
「は、ら、」
「え?」
「やや、こ、は」
 瞬間、芳姫が泣き崩れた。
「はい。…はい。健やかに生まれて参りまする。…皆の者、こちらの方こそ真の御屋形様ぞ!」
(何故!?)
「ああ、ああ…おいたわしい…」
 なまえの動揺をよそに芳姫が爛れた手をとった。ぽたぽたといくつもの滴が落ちる。
「ざ、と、に、あず…、た。ば…じ、そのよ、…に」
 不明瞭な声を聴き漏らすまいと耳をそばだてた全員が困惑していた。雑渡昆奈門はいない。屋敷もすべて燃え尽きた。
 沈黙の中に呻き声が響く。
 なまえの、限界だった。
「…どうか、もう、楽にさせてくださいませ。これ以上は見るに忍びません…!」
「なまえ」
 呆然と芳姫が呟いた。
「この方に、死ねと、申すか」
「御方様」
 おそれながら、と誰かがいった。
「これ以上は苦しみが長引くのみです」
 いくつかの言葉が身の回りを飛び交うのを、なまえは、遠い世界の出来事のように聞いていた。帯に触れる。そのなかに挟み込んだ薬がある。伊作は、はったりだと思っただろうか。
 かつて二人で目指したものは、幾百の屍を積み上げて、ようやくわずかばかりが手元に残った。
(父上)
 取り出す手が震えた。
 このかたに死ねと。
 大きな、大きすぎるほどの恩に、こんな形で報いるのか。他にやり方がわからない。もう、あるはずだった「これから」が見えない。
(…父上)
 透明な滴で指先を濡らし、ただ空洞がわずかに見えるばかりの口にもっていく。許してもらえるなんて思わなかったし、ただの自己満足だとわかっていた。それでも苦しみをみていられなかった。二人の人間を血で異形に落とし。一人の父親を毒で葬ろうとする。
 滴が落ちた。
「い…」
 幾つかの呼吸の後に呻きがとまった。変わりに漏れた声に耳を澄ます。
「いい、こ、だ」


(いいこだ、なまえ)

(いきなさい、できるだけ、しあわせに)



 人目が無ければ泣いていた。

 雑渡昆奈門は、黄昏甚兵衛として、絶えた。