雑渡昆奈門は不機嫌そうに見えた。
 包帯の下の唇は弧を描いているかもしれないが、たぶんそれは笑いではなく苛立ちの故だ。冷や汗が背中を伝う。退かないだけで精一杯なのは数年前と変わらない。だけど今は抱えたものを渡したりはしない。留三郎もなまえも、奪われるわけにはいかない。
「君が食満くんを庇うとは…」
 思っていたより平坦な声で雑渡は首を振った。
「利があるとも思えないが。手負いの数を増やしても、白兵戦では戦力増給より足手まといになる率の方が高いと習わなかったかい」
「率がどーあれ、戦況に絶対はねェって習ったよ」
「なるほど、違いない」
 頷いて雑渡が一歩を踏み出す。熱を帯びた空気が揺れる。
「君がそうして生きているのも、正直意外でね。私達は火に弱い…その顔を見ると君だけが特異という訳でもないだろう」
「メンメンクジ飼ってるやつがいてよー。アレのネバネバつけるってーのが、里(うち)の火傷の治療法なんだ。ハナっからぬったくってきて大当たりだ」
「まったく大した予防だな」
 与四郎が一歩踏み出すと雑渡はふっと息を吐いた。
「だがその様子じゃ二度目はないね」
「あんたもな」
「まあね。だが私はそれで構わない。君はどうだ?」
 どうだろう。
 生きたいのは間違いないが、同時にここで終わってしまっても仕方ないかと思っているのも事実だ。だから逃げずに留まっていられる。
 答えない与四郎に雑渡はゆったりとした構えをとった。怖いだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。
 焼けた頬に炎の熱を感じる。痛む。それは目の前の男にしても同じだろう。死ななくても、けして無傷ではないのだ。頭の芯がすっと定まる感覚がした。炎が視界から消える。
 雑渡が動く。
 合わせて与四郎も手足を動かす。
 ギインと音を立てて金属がぶつかり合った。
 一合、二合と打ち合ってからようやく自分が目の前の男の刃を受け止めたのだと気がついた。それ以上考える間もなく反射が体を突き動かす。だが流れが読めない。四合、どうやって受け止めたのかもわからず五合。せりあった腕が震える。防戦。刃をどうにか追うので精いっぱいだ。間をおいて六合、七合。
「よく頑張ったね」
 不意に耳元で声が聞こえた。
(!?)
 我に返った瞬間、雑渡の姿が見当たらない。
 剣先に気を取られすぎたのだ。
 とっさに振り返れば、すり抜けた男は今まさに、かがみこむ娘と青年の元に肉薄するところだった。
 なまえは絶対に無事だ。
 雑渡が彼女を傷つけるわけがない。 
「留三郎!」
 叫んだ先でなまえの体が跳ね上がるように動く。居合抜きのような動作で、回転する流れのままに振り返る。雑渡は止まらない。垣間見たなまえの氷のように平坦なまなざし。
 耳触りてま鈍い音を与四郎の耳は捉えた。
 一拍置いて炎とは違う種類の赤が、父娘の間で吹きあがるのを見る。
「なまえ」
 刃を握った男の声がかすれて聞こえた。
 袈裟懸けの太刀筋を受けて、真っ赤に染まった娘が口を開いた。夜明けの花が開くような緩慢さで微笑む。静かだった。
「…父上」
 青を通り越した白さの顔色で、細い手が雑渡の手首を掴んだ。
 何も考えずに与四郎は動いた。目の前で血飛沫を浴びた男の、背中めがけて腕を振り上げる。男がなまえの手を振り払う。背後の刃を受け止めようと動く。
 …誤算だ。
 与四郎は内心に呟く。
 刺客はオレじゃない。
「ごめんなさい」
 かぼそく呟いて、なまえが崩れた。
 雑渡が摺り足に後退する。間合いをはかる床に、ぼたぼたと、新たな血液が流れた。最強をうたわれる男が、負傷していた。
「…随分早い回復だ」
「なまえの、おかげで」
 倒れたなまえの背後から投げつけた暗器は確実に雑渡を傷つけた。しかし当の留三郎は、かろうじて動いたもののいまだ回復には至らないらしい。息が上がっている。
 足元に倒れたなまえが身じろいだ。留三郎が何事か囁く。与四郎には聞こえなかったが、なまえが力を抜いたのが見えた。
 視線を雑渡に据えたまま、留三郎が手にした獲物を軽く掲げてみせる。
「伊作の自信作です。治らないでしょう?」
「伊作君、の?…それは、」
 肩を上下させつつ雑渡が笑った。口布が落ちて、与四郎のそれとは比較にならない焼けた異相があらわになる。
「どうりで、痛む」
「退かれませんか」
「部外者は君だ。私は彼に用事があるし、彼もここに残りたいらしい。なまえを連れていってくれないか。邪魔なんだ」
「与四郎!」
 煙の充満してきた部屋で留三郎が声を張った。
「行け!喜三太どうする気だお前はっ!」
 視界の端で、雑渡ともみ合う留三郎が見えた。一瞬、ふみとどまろうとする意思をねじふせる。喜三太。風魔。なまえを連れ出すために、利用しようとしたものたち。
(まだだ)
 兄達を止められず、他人に血肉を啜られ、心のどこかでここで終わってもいいと思っていた。なまえにもう一度会って触れて死ぬのならそれも本望だと。
 だが実際この状況において、自分一人の命と引き換えるものは少ない。いまなまえを逃がしたところで、外敵から逃れ得る保証はない。風魔の手綱を誰がとるのだ。信頼してくれる喜三太は。
(ここで死んだら、燃えちまってそれっきりだ。何も残んねぇ)
 それよりはまだ生きて為せる事の方がいくらか多い。
 瞬時に弾いたそろばんで、与四郎は階下に向かって駆け出した。







「なまえまで焼き殺すつもりですか」
 熱い。
 息が苦しい。目かしみる。
 じりじりと焼けそうな苦痛に留三郎の声も小さくなる。
 雑渡は相変わらず直立したままだったが、最前までの威圧感はいくらか薄らいだように思えた。気の迷いといえばそうかもしれないが。
「だから逃げろと言ったじゃないか。なまえをこちらによこしなさい。君じゃ抱えて逃げられないだろう」
「俺の体調はあなたよりマシなはずです。伊作が作った薬(モノ)ですから」
「信頼してるね」
「ええ。ですから早く、逃げないと」
 火勢が強い。
 もう居続けることは危険だ。
 焦れるような沈黙の後で、雑渡が気負いなく歩み寄る。一瞬身構えて留三郎は道をあける。雑渡がなまえの側に膝をつき、頬を叩いた。
「起きなさい」
 さすがに無理だろうと制止しかけた留三郎だが、なまえの体が動いたのを見て口をつぐむ。体験して言うのも何だがみょうじというのは自分の理解を随分と超えているらしい。ともあれある程度動けるならば重畳だ。
「さて、近道をしようか」
「あるんですか、そんなもん」
 思わず状況を忘れて問えば、雑渡は平然と足元を指差した。
「まあ、こんな時の為にね。少し脆いところに細工をしてある。下階までの最短距離だよ。一応時差で落ちるから、気をつければ怪我は少ないはずだ」
 そう言いながら雑渡は足元を確かめる。なまえを支え起こしながら留三郎は少々ひきつった笑顔を浮かべた。
「…もしかしてあの柱のまわりに仕込んであった…」
「ああ、わかってるなら早い」
 文句のひとつも言いかけた所でなまえがうっすらと目をひらく。
 ああ意識が戻ったと安堵するより早く、胃の浮くような落下の感覚が留三郎を襲った。

「ぐっ…ぅう」
 衝撃の後に足元からつきあげる痛みを覚えて、まだ生きていたかと息をつく。こんな無茶苦茶な仕掛け、活用して無事でいられるのは現状の自分達くらいのものだろう。なまえを抱えていたために受け身をとれなかった留三郎だが、どうにか体は動く。骨のひとつも折れたかと思ったのに。
「ごめんなさい。私がいたから」
 腕の中から心底申し訳なさそうな声がして、留三郎は思わず笑った。
「何?」
「何でもない」
(こんな役得、与四郎(あいつ)にさせられるかよ)
 男と生まれたからには、惚れた女を守るのが本懐だろう。そのための痛みなら誇らしい。死んでたまるかと強く思う。なまえが生きる限り自分も生きて守り抜きたい。だから離したくない。誰にも渡したくない。
「なんだ、無事だったのかい」
 この人にも。
 どこか残念そうに言って雑渡が木片を足蹴にした。先程の負傷が幻のようだ。上階から落ちてきた火の粉をはらい、足元からなにやら引き上げる。大きい。
「それは?」
「君たちが探してたものだよ」
 言われて留三郎は少し考え込んだ。先に感づいたらしいなまえが転がるように降りた。よろめきながら駆け寄る。
「まさか!まさか、もう」
「そうだよ」
 父娘の会話に乗り遅れた留三郎だが、なまえが手をかけた「それ」から僅かに覗いた布切れで、ようやく事態を理解した。
 南蛮渡来のびろうど織。我知らず声が掠れる。
「黄昏甚兵衛…?」
「御自分で招いた結果さ。いままで私がどれほどの刺客を打ち払ってきたのか、考えなかったのかねえ」
 やれやれと首をふりつつ、雑渡は何のためらいもなく包みをつきころがした。中から転がりでた「主であったもの」に手を伸ばす。なまえがぎょとしたように呼び止める。
「何をなさいます」
「入れ替わるのさ」
 こともなげに言って、雑渡は服を剥ぎ取り始めた。硬直している体はめきめきと音をたてたが構う様子もない。あっというまに汚れた衣服を脱がせると、今度は自身の着物に手をかけた。
「女の子にあまり見られると恥ずかしいよ」
 言外に出ていくように命じられても、なまえは応じなかった。包帯を解く手を掴み止める。
「着替えてどうするおつもりですか。火傷の古さは隠せません。一時的になりすましても、この先ずっと入れ替わるわけには…」
「食満くん」
 雑渡に呼ばれ、留三郎はなまえの肩をつかんだ。物言いたげな視線に首をふり、ほどきかけの包帯を手に取る。唇を噛んでなまえが後ろをむいた。
「すまないね」
 包帯を解いた裸身は爛れた範囲があまりに多く、ところどころに残った無傷の部分が飛び石のようだ。白く硬化した皮膚が火傷の深さを知らせる。浸出液はほとんどないが、万一はりついた箇所があったらと思うと、留三郎の手も慎重になる。
「話の続きだが、心配はいらないよ。ずっと成り代わるわけじゃないから、おまえたちは安心して行きなさい」
 ほどききった包帯を今度は足元の遺骸に巻きながら、ふと思い付いた可能性に、留三郎は眉を寄せた。
「まさかとは思いますが、もう一度体を焼いて傷を隠すなんて考えてませんよね?」
「なにいってるの、そんなこと…」
 なまえの声が尻すぼみに消える。雑渡の返答はない。黙々と包帯を解き、南蛮衣装を身に付ける。
「そんなことしたら死んじゃうわ」
 ちいさなちいさな声が言った。
「するわけ、ないじゃない。そうですよね?」
 無言で雑渡が身支度を終える。白い内着に黒いマント。飾り布に金糸銀糸のきらめきがまぶしい。死装束には派手すぎる。
「なぜ答えてくださらないのですか!?」
 ばらばらと火の粉に交じって木片が落ちてくる。ここも持たない。雑渡は手庇に天井を見上げながら言う。
「…なまえ。陣左に、ここに来るよう伝えてくれ。『黄昏甚兵衛をみつけた』と」
「いやです、一緒に来てください!ご自分で名乗ればよろしいでしょう!?」
「なまえ、行くぞ」
「いや!」
 引きずる留三郎の腕をほどこうとなまえがもがく。雑渡が背をむける。
「頼むよ。できるだけ早く」
「父上様っ」
 歩きかけた背が止まる。落ちてくる炎。
「…ああ」
 雑渡が振り返った瞬間、ひときわ大きな瓦礫が落下した。なまえの悲鳴を聞きながら留三郎は走り出す。崩落の音にまぎれて声が聞こえた。


「いいこだ、なまえ。いきなさい。できるだけ、しあわせに…」