頭の中が真っ白になって、何かをずっと叫んでいた気がする。がたがた震える手が見える。無音の世界がゆっくり色彩を取り戻す。動き出す。
 そうしてなまえはようやく気がついた。震えているのが自分の手で、それを濡らすのが留三郎の血液だと言うこと。
「留三郎、留三郎、」
 こんなの何回も見てきたし知っている種類の負傷だし、さっきの自分だってまあ似たようなものだった。
「とめ、」
 自分がやろうとしていた事の中にはこんな事態も含まれている。承知した上で刃を向けたりしてきた。
 でも、だってこんなの。
 庇われたとわからない訳が無い。崩落した天井の残骸が背中を切り裂いている。当たり前だが痛いだろう。苦しいだろう。
 自分に傷はない。些細な物はあったかもしれないがどうせ無くなっている。なのにどうしてこんなに苦しくなって動揺しているんだ。痛いのは留三郎だ。
「血。血がいっぱい…」
 そうだ止血だと起き上がり、手を動かすが止まらない。範囲が大きすぎて抑えきれないのだ。
(縫合は…針がない…)
 その間にも横たえた留三郎の体の回りには、鉄錆の匂いがじわじわと流れていく。
「…なまえ…」
「留三郎っ」
 蚊のなくほどの声に呼ばれてなまえは慌てて顔を覗き込む。うつぶせに横をむいた留三郎は、ほっとしたように笑った。
「無事か」
「そ、んなの」
 そんなの。
 あたりまえだ。
 私はこんな怪我で死んだりしないのに、留三郎が。庇ってくれて。
「よかった」
 笑われてもうれしくはない。苦しい。悲しい。腹立たしい。どろどろした感情が口をつく。
「なんで」
 言うのと同時に指で留三郎の口を塞いだのはなけなしの理性だ。
「ごめん、喋らなくていい。…いいから」
 後悔で胸が潰れそうだ。
 こんな事は前にもあって、その時私はもうすこし冷静な頭でいた気がする。救えたのか叩き落としたのか今でもわからない。命は強引に繋いだけれど。
 追われて狩られて逃げ続ける人生を、死んで誰かに利用されぬためだけに生きるのを、誰が望むだろう?巻き込まれる事を誰が。
(…留三郎)
 私、どうしたらいい?
 壁を舐めはじめた火にかこまれ、ただ溢れる血を抑える他の処置を思いつかず、なまえは呆然と、血の温度に手を染める。
 その時、きな臭い静寂を破ってがらがらと音がした。なまえが振り返った先で瓦礫の中から人の上体が起き上がる。炎がちらちらと影を揺らす。
「なまえ、いたのか」
「く、組頭」
「おや、それは」
 反射的に留三郎を隠そうと覆いかぶさったのは何故だろう。理由は何もなかった、強いて言うなら本能だ。
 近寄った雑渡はうすく笑って手を伸べた。
「来なさい。もうすぐ崩れる」
「嫌です!」
 何も考えずに叫んでなまえはかぶりを振った。
「留三郎が」
「置いていきなさい。長くない。…それとも血を分けるのか、彼のように」
 いきなり突かれた核心に肩が跳ねる。
「知って…」
「ああ、知っているよ。お前よりいくらか多くを知っているとも。だから言うがね、なまえ、彼ではだめだ。食満くんもね」
 私と来なさい。
 差し延べられた手を払いのけた所で我にかえってなまえは息をのんだ。
 初めてだった。こんな風に父を拒むことなど。自分を庇護してくれる人に、こんなにも、激しい感情を覚えるなど。
 …目の前が真っ白になりそうだ。
 だけどそれはさっきの衝撃とは違う。怒りだ。そう、私は怒っている。とても。
「…与四郎をどうしたのですか」
「聞くまでもないだろう」
「捕らえるだけのはずです!何故!」
「お前は今誰の為に怒っているんだい、なまえ」
 相変わらず人をくったような、しかし笑いはかけらもない声が言った。
「食満くんかい?錫高野くんかい?」
「何をおっしゃって…」
 ごとりと音がして再び瓦礫の山が動いた。今度ははっきりと怪訝そうに雑渡が振り向く。
「…過保護っていわンねーかなァ、組頭殿。はっきり言って、よけーな世話だヨ」
「生きてたの、君」
 独特の言葉で言う与四郎を見て、なまえはぺたんと尻をついた。熱傷か半治癒のせいか顔の半面が真っ赤だ。異相ではあるが、間違いなく生きている。
 雑渡がゆらりと背を向けた。与四郎に向かって歩いていく。
「なまえ、オレァ後悔なんてしねーぞ。留三郎に聞け。羨ましがってっから」
「そんな」
「死ぬより良いのは間違いねぇ。もっかいゆーぞ。オレは、これが、よかったんだ」
「なまえ」
 はっと見下ろせば留三郎がこちらを見ていた。
「よしろ…に…何…」
「留、」
「俺…に、も。し…くれ」
 耳をふさぎたい。そうしたら聞こえないだろう、こんな声など、末期の吐息など。留三郎の声だから塞げない。
 望まないで。
(わたしまた間違えてしまう)
 風魔の思惑など知らないけれど急な動きの影に与四郎の件があるのは確かだろう。そしてこの天守に一人で現れた時、この今の瞬間にも風魔の援軍が現れないという事態に、与四郎に対する風魔の扱いが透けて見えた。みょうじというものをただの薬としか見ない、有象無象の視線と重なった。
(わたし、)
 生きなければならない。
 生かしてくれたすべての人のために、この血肉を誰にもわたさないために。
 その為の障害はないほうがいいし、足のつく手がかりを残せるほど余裕はない。
(わたしは、)
 手をはなしたって構わなかった。
 二度と会えなくてもいいと思った。本当にそう思ったのだ、見知らぬ誰かとの幸せを祈る事だってできる。
(だけど、…だけど!)


 この世にあなたがいなくなる事は、わたしがいなくなるよりずっとずっと恐ろしい。


「…留三郎、生きてくれる?」
 視線を合わせられない。
 前とは違う。為そうとする事の重みに震える。自分を生かしてくれた人達は私の選択をどう思うだろう。巻き込まれる留三郎は、留三郎の家族は。他に手段は。


 握りしめた手に、血の気の失せた掌が、僅かに触れた。