思いのほか閑散とした室内に城主の姿はなく、なまえは胸の前に構えていた得物をそっと下ろした。板張りの最上階は冷えた空気が清々しい。表や階下で鼻をついていたきなくささが、ここではまるで感じられない。
 ひたひたと窓際に歩みよればおもちゃのような家並が見えた。所々で人が動いている。城下から曲がり離れて行く道は焼かれた村へ続くものだ。ここから見下ろすなにもかもが小さくて、まるで現実感がない。溜息をついて振り返る。
「っ」
 息を呑んだなまえだったが、背後に立っていた黒い影の正体を認めると、陰欝な声で呟いた。
「ごめんなさい。私のせいね」
「おめーが謝ッことじゃねーよ。オレの撒ぇたタネだ」
 対照的な快活さで答え、影…与四郎はなまえの隣に立って城下を見下ろした。
「…謝んのはこっちさ」
「あの焼き打ちは風魔の差し金なの」
「唆したなァ二番目の兄貴だ。筋書ァ一番上の兄貴。火ィ動かしたンが三番目の兄貴。…これで錫高野(うち)ァ風魔の主権に随分重んじられたみてーだな」
「それであなたの役割は?」
「おめーを連れて帰ェる事だってよ」
「そう」
 まったく驚かないなまえの前で、与四郎は肩を揺らして笑う。
「笑っちまうべ?兄貴達がここまですっとは…いや、できるなんて思っちゃいなかったんだ。それがほんとーにやらかした上、オレに踏み絵を踏ませるつもりだよ」
「踏み絵ってこういう事かしら」
 なまえの言葉が終わるより早く、与四郎が飛びのいて壁沿いを走った。足跡にぴたりと張り付くように、無数の棒手裏剣が床に突き刺さる。
「なかなか元気で結構だね。うちの娘にあまり近づかないでくれるかい」
「組頭、ここにはいないようです」
「まぁ予想の範囲だな。さっき陣左を戻らせたから、外はまかせるとしよう。君、あのひとは生かしてあるのかい?」
 さも当然のように話を振りながら、同時に縄と刃が軌跡を描く。こんな室内では不利だというのに雑渡昆奈門はにこやかに縄鎌を操る。
 遊ばれているな、と思いながら逃げ惑う与四郎は一つの疑念を持つ。なまえが最初の位置から動かないのは何故だ。
「どうなの、錫高野君」
「名前まで、よく、ご存知でっ」
「三年前の借りがあるからね」
 どちらが借りで貸しだかわからないが、そんな理由で殺さずなぶると言うなら随分いい趣味をしている。違和感について考えたいが残念なことに逃げるので精一杯だ。
「借り?」
「私と錫高野君の秘密さ」
 訝しむなまえといかにも楽しそうな雑渡の声。耳の中でうねうねと反響する。視界が揺れる。
(なんだこれっ)
「やっと効いた」
 なまえの声だが抑揚が変だ。いや、聞き取るこちらの問題か。足がもつれて膝をつく。はめられたのかと認識した瞬間に、頭部を横殴りにする衝撃。波打つ床板が縦向きになっている。自分は倒れているのか。
「組頭はもう少しそのままで。窓に寄ってください」
「はいはい。団扇持ってくるんだったな」
 そうかあれは薬を散らしていたのかと納得したが、今ごろ理解しても遅い。
「御負担は」
「無いとは言わないが、こんなものかねえ。私も歳だから」
 緊張感なく言って雑渡が窓際に立った。入れ代わりにやってきたなまえが膝をつく。体の下に何か差し込まれ、動かされる感覚。仰向けになった。視界に天井となまえの顔が映りこむ。
「もう一度聞くわね。黄昏甚兵衛殿はまだ存命なの?」
「いま、さら。知って、どーすんだ」
 ぼやぼやとした感覚で顔を歪める。笑ったつもりだがどうだろう。なまえが溜息をついた。
「確かにその通りだわ。…でも与四郎、あなただってこのままじゃ風魔に飼い殺されるか、追い回されるかの二択よ。逃げるなら私は貴方を助けたいの」
「なんで」
 思いがけなかったのか目を見開いて、なまえが一瞬黙り込む。
「…原因を作った、責任があるから」
 そんなんじゃーオレは頷かねーよと言いたくて、かわりに与四郎は笑った顔を維持することに努める。
 そんな言葉が欲しいわけじゃなかった。
(責任だけか)
 まあ無理だろうと思っていたのも事実で、だから自力でここまできたけれど、改めて言われると酷くがっかりしてしまう。心のどこかで期待していたのだろう。
 一緒に逃げる、という選択肢の甘美さは。少なくともなまえにはなかったわけだ。
「心配ぇすんな」
 訝しげに眉を寄せた表情も愛しいと思う。一目惚れがここまで到ればたいしたものだと自嘲する。
「おめーは、オレが、」
「なまえ」
 言葉を遮って雑渡が呼ぶ。立ち上がったなまえが離れる。ぼそぼそいう話声の後に雑渡が隣にやってきた。腰をおろす。
「小さいネズミがいるようでね。なまえに見てきてもらうよ。殿の所在が割れるまで、少しお喋りにつきあってくれ」
 尋問開始かと思ったが、意外にも雑渡はそのまま悠々と煙管をくゆらせはじめた。
「君が言いそうな事はわかってるんだよ」
 出し抜けに言われて眼球を動かす。
「私も似たようなことを考えたからね。たぶん君の気持ちと計画を一番理解するのは私だろう」
「…なに、を…」
「どうせ君は知りすぎた。今さら隠す事も無い。私はね、なまえの母親に血を分けられたんだ。当時の私は大した地位も無い一介の忍で、追われる彼女をとうとう守れなかった。…非力で、若かったよ」
 後悔も諦念も感じさせずに言って、雑渡はふうと煙を吐いた。
「そんなだから最後に交わした約束くらいは守ろうと思ってね。当時の組頭の協力の元、なまえをどうにか連れだして、祖父様に預けた。祖父様はあの子を学園に隠して死んだ。その間に私はタソガレドキの主権を握り忍の国にしようとしたんだ。どうだい、君が描いたのと似てるだろう」
 答えられずに与四郎はぼんやりと天井を眺める。そうやってまとめてしまえば単純な話だった。そうか、それでこの人は強くなったのか。疑う気力もなく頷いた。
「君との違いは誰にも血をわけずにきたって事ぐらいさ。風魔は大層増強に勤しんだようだが、そのうち君の思い通りになりそうなのは何割くらいだい?」
「…オレは、わけるつもりは」
「そうだろうね。まさかそんな事ができるとはみょうじも私も知らなかったよ。…過去に失敗の事例もあるし」
 だいぶ鮮明さを取り戻した視界で雑渡は物憂げに与四郎を見下ろした。
「君がもう少し要領よく立ち回るなら、なまえを預けようかとも思ったんだが。まったく同じ轍を踏んでしまうようでは残念だよ。だがまあ良いめくらましにはなるかもしれない」
 独りごちて、とんと煙管を叩くと、真っ赤な火種がこぼれた。視界のすぐそばを転がる熱源に与四郎はぎょっとしたが、雑渡は気にせず立ち上がる。
「知りすぎたと言ったろう?生憎私はあの子ほど優しくない」
 煙草の匂いが鼻をつく。
 両手足はまだ動かない。
「君の回復力程度なら手助けしなくてもすぐ終わる。風魔の枝葉は君に変わって剪定するよ。あの時の礼だ」
「なまえは」
「もちろん逃がすとも。代替は用意して細工もした。あとは炎で最後の仕上げだ。君が仕組んだ事なら風魔も納得するだろう。心中なんて、君達くらい若い時でもなければね」
 饒舌に語って雑渡が離れる。
「ではさようなら、錫高野君」
 煙草の匂いと入り混じる異臭。火薬だ。動けない。
 最上階には与四郎一人が残されている。




「先輩急いでくださいよぅ」
「あぁ」
 焦った様子の喜三太に鷹揚な返事を返しつつ、留三郎は屈み込んだ柱の元から立ち上がった。
(妙だな)
 火薬や爆薬を撒いたのは雑渡か忍組の誰かだろう。しかしこの量では城が倒壊することはあるまい。延焼としても中途半端だ。燃え残る退路が多すぎる。
(いぶり出しでもするつもりか?しかしその割に外が手薄だろ)
 中に風魔や忍組の某が潜んでいる事を考え、警戒しながら進んでいるが、今のところ誰にも会わない。
(仙蔵達は…いや、そっちは伊作がやってくれる)
 負傷した伊作に仲間の安否確認を依頼したものの、もし仙蔵と文次郎を担ぐ必要があれば、逃げる時間が確保できるかは正直怪しいところだ。正面から雑渡に挑んで無事だったとも思えないが、今ここで悩んでも仕方あるまい。
 自分にできるのは一時的な足止めが限度だ。まして風魔一族にまで睨まれては…。
「喜三太」
「なんですか、早く…」
「今の与四郎は重度の火傷でも生き延びられると思うか。十年以上」
 遠回しに誰の事を言っているのか喜三太も気づいたのだろう。少しの間があって、ためらいがちな声が答える。
「風魔ではまだ実例があるわけじゃないので…ただ与四郎先輩は火傷は治りにくいと言っていました。食満先輩が仰る重症には、及ばない程度での話ですが」
「そうか」
「なまえ先輩はどうなんでしょう」
「さあな。試すような事させてたまるか」
「そうですね。…絶対に、させない」
 少しの間を挟んだ言葉に、喜三太の意志が未来にあるのを感じて、留三郎はひっそりと笑った。
 しかしそうなると問題は、雑渡が果して「どちら」であるかの可能性だ。
(複製か真打か…)
 どちらであっても熱傷に弱いと言うのは間違いなさそうだ。そしてそれは雑渡だけでなくなまえにも言える事だろう。
「ところで、蛞蝓は持ってきたのか」
「へ?あ、はい…」
「なら逃がしてこい。蒸し焼きになるぞ」
「え、ちょっ、何をおっしゃるんですか!今更!」
 驚きと呆れが入り混じった喜三太の声に苦笑して留三郎は振り返る。
「与四郎の事も風魔の事もしばらく忘れろ。…自分が生きる事だけ考えるんだ」
「先輩」
「俺達の中で今後風魔をなんとかできるとしたら、お前だけだ。生きててもらわなきゃ困る」
 垂れた目尻をいっそう下げて見つめる後輩に留三郎は淡々と告げた。
「余計な事は考えるなよ。これから先は俺も、そうする。多分自分を守るので精一杯だ。こうあちこち火薬が仕掛けてあるんじゃ、万が一の時にお前まで連れて逃げられる保証はない」
「でも先輩」
「いいから早く行きなさい」
 予想外の声に、喜三太も留三郎も慌てて振り向く。
「なまえ先輩…」
 天守へむかった階段を、音も立てずにゆっくりとなまえが下りてくる。
「喜三太。自分の状態や力量は正確に計りなさい。…生きていたいなら、下に行って」
 優しくさえ聞こえる言葉に、喜三太が駆け出した。なまえは穏やかな様子で見送る。
「…いいのか」
「障害を排除するだけだもの。問題ないでしょう、喜三太は」
 真顔で歩みより留三郎の前に立つ。
「おまえ、傷は」
「何もないわ。私は」
 含みのある言葉に留三郎は目を細めた。
「与四郎は上か」
「組頭が、ネズミがいるとおっしゃったの。追い払ったら早く戻らないと」
 冷ややかな口調の中に僅かな焦りを嗅ぎ取って留三郎は拳を握る。
「なんでそんなに与四郎にこだわるんだ。喜三太に聞いた。あいつも、傷が残らないんだろう?」
「だからって苦痛が無いわけじゃないわ…。尋問が必要な事はわかるけど、組頭より私の方が聞くのに向いてると思うし」
 俯いてなまえが、小声で囁いた。
「…聞いてるなら話すけど、与四郎を『こちら側』に引き入れたのは私よ。そのせいで疎外や迫害をされるなら、私は与四郎を守る責任がある」
「あいつがそう望んだのか」
「いいえ。…でも留三郎、それなら教えてよ。風魔で与四郎は『素材』にされていないの?これから先の人生で道具にされる可能性はどのくらい高いの?」
「それはお前が自分と重ねてるだけだろう。与四郎は多分、」
 息継ぎの間に留三郎が動いた。なまえに覆いかぶさるように引き倒す。まったく同時に腹に響く音が場内を揺るがし、天井の一角が崩れ落ちた。
「留三郎!?」
 残響を切り裂くようになまえが叫ぶ。
「留三郎!