背を丸めて壺を覗き込む喜三太は随分悲しそうだった。
 すぐに水で洗って処置をした彼の「友達」だが、一度こう
 なってしまうと、外観は元通りになっても損傷が大きくて容易に回復しないのだという。聞けば気落ちするのも納得する話だったが、同調して悲しめないのは相手が蛞蝓だからかなと伊作は思った。
 今も視界の端を一匹がゆっくりと移動する。
「…じゃあお前も中途退学したのか」
「というより転校ですね。風魔流忍術学校にはきちんと通いましたし」
 風魔という単語に留三郎の眉間に皺が寄る。
 視線は壺に落としたままだったが、気配で察したのか喜三太が少し笑った。
「実家の事ですから。…ボクも逃げるわけにはいかないんです。まさかここで食満先輩や善法寺先輩とお会いするなんて思いませんでしたけど」
 寂しげな口調に留三郎は吐き出しかけた言葉を呑みこんだ。
 演技なのか真意なのかわからないけれど、「可愛い後輩」を責めることは難しい。どうにか厳しい表情を保ったままで次の質問を口にする。
「俺や伊作はともかく、なまえがいたのは偶然じゃない。だろう?」
「どうしてそう思うんですか?」
 悠然と問い返して喜三太はようやく顔を上げた。柔和に垂れた目元に緊張がある。
「…。…いえ、探り合いはやめましょう。時間もないし」
 しばらく留三郎の顔を凝視していた喜三太はふっと息を吐く。
 時間がない。
 どういう意味だと問う前に彼は答えを口にした。
「なまえ先輩は天守に向かったんですよね。…ボクがここに来たのは話の途中ですが、その前に組頭さんにお会いしました。そうなると与四郎先輩が危ない」
「与四郎?あいつがいるのか」
「ええ」
 頷いて喜三太は苦しげな顔をした。
「細かい事情は割愛しますが今ボクにとっては与四郎先輩が生命線です。風魔は今、色々面倒なことになっていて。はっきり言うと他に味方がいないんですよ。だから今日ここから生きて帰ってようやく、ボクと与四郎先輩の居場所がもぎとれるんです」
「味方がいないって言ったな」
「はい。そのままの意味です」
 横で聞いていた伊作は、まさか、と内心首を振った。
 ここに来る直前、外に甚兵衛の姿はなかった。となれば必然的に君主の居場所として候補に挙がるのは城内である。外陣にタソガレドキの戦力が結集するなら風魔が城内を守らねばなるまい。
 労してタソガレドキでの地位を手に入れても、君主が滅んでしまえばそれまでだ。
(…って、ちょっとまてよ)
 これではまるで風魔は端から「タソガレドキの分裂」のみを狙っていたようではないか。
 伊作は留三郎の表情を盗み見る。喜三太と話す面持ちは冷静で感情を伺わせない。
(誰か相手の時とは大違い…いやいやそんな場合じゃないか)
 考えてみれば気がつかないほうが妙な話だ。どうして誰も彼もがそこに口をつぐんだのか。
 雑渡の思考を理解しきれるとは思わないが、捕縛前まで忍組の総意はある程度彼が操作してきたはずだ。風魔と対立しつつタソガレドキにも表向きは反抗しない。最終的に離反やむなしとなれば、なまえの言った『手切れ金』を望むのは道理である。
「ところでずっと疑問だったんだが」
 いくらか目を細めて留三郎が問う。
「ここの忍組とやりあって風魔に勝算はあるのか?」
「この状況でそれを言いますか」
 もっともな喜三太の言葉に留三郎は苦笑する。
「言い方を変える。…雑渡昆奈門と戦うことになった場合、勝算のある奴は風魔にいるのか」
 唇をかんだ喜三太の様子が、肯定できない意を語っていた。
 けれども彼はとうとう首を振らずに留三郎を見返した。
「勝てるかわかりませんが、負けることはないと思います。与四郎先輩が切り札なんです」
(勝てないけれど敗れない?)
 伊作と留三郎は顔を見合わせた。
 つい先ほどまでここにいた人物の顔が脳裏をよぎる。
 彼女に付きまとう不死という言葉はまた、雑渡昆奈門にも冠された形容であり、それに対抗するというのなら与四郎にも同等の何かがなければいけないはずだった。
(なまえが、与四郎に何かしたのか)
 予感は共通のものだったらしく留三郎の表情がいくぶん険しくなった。その様子をどう解釈してか、喜三太が後ずさり姿勢を正した。両手をついて頭を垂れる。
「身勝手は承知でお願いします。食満先輩、善法寺先輩。どうかボクと与四郎先輩に助力をいただけませんか」
「助りょ、っうう…」
 中腰になりかけて伊作は足の痛みに呻いた。慌てて手を貸そうとする喜三太を制して伊作は深呼吸をする。
「ちょっと待って。…ええと、あれだ。なんで?」
「他に頼める方がいないからです」
 当然といえば当然すぎる質問は妙に間が抜けていたが、喜三太は笑いもせずに答える。もうちょっと言い方ってものはないのかと伊作は思うのだが、同じく物言いた気な留三郎が言及しないので沈黙することにする。
「風魔の仲間がいるだろう」
「いいえ。先程のとおり、ボクには味方がいない…むしろ隙あらば積極的に潰しにかかるでしょう。だからこの配置、ボクと与四郎先輩の二人だけで囮役になったんです」
「囮」
 繰り返して伊作は顔を歪める。
「やっぱりいないのかい、殿は」
「はい」
「で、上には組頭となまえと与四郎の三つ巴ってわけか」
 冷ややかともとれる穏やかな表情で、留三郎は喜三太を見つめた。
「そこで勝ち目のない方に割って入って一体何の利があるんだ。頼ってくれたお前には悪いが、俺たちも無関係の集団抗争に命を張れるほどお人よしじゃない。せめて風魔の中で…」
「なまえ先輩がいるじゃないですか」
 ぴしりと鞭打つような声で、喜三太が遮った。
「タソガレドキと風魔の面倒事には興味がなくても、みょうじなまえ先輩の捕獲と利権をめぐる争いなら、どうです?少なくとも今の風魔の主流派は、先輩をみょうじという有用な『素材』と考えて利用したがっています。ボクたちが主導権を掴めなきゃ、誰もそれを止める人はいなくなるんですよ」
「風魔の切り札は与四郎だと言ったろう。それで組頭を止められないなら…」
「いいえ、戦力としては与四郎先輩の兄上方のほうがよっぽど有用です。なまえ先輩の特性をボクは直接知りませんが、それだって先輩一人の戦力価値はさほど重要じゃない」
「わかったよ」
留三郎の反応を待たずに伊作が答えた。
「確かになまえ個人の能力より、それが与四郎に『感染した』事のほうが問題だ。だけどそれを指して『切り札』というなら、なまえは風魔に必要ないだろう?与四郎や次の感染者が媒介になって広めればいいんだから。…与四郎は特性を受け継いだけど、媒介はできなかった。違うかい」
「半分は合っています」
喜三太が拳を握る。
「正しくは足りなかったんです。まったく同じ能力を複製することはできませんでした。それでも十分すぎる回復力を手に入れたとボクは思いますし、だからこその切り札なんですが…、それでは満足しないのが今の次期統領候補なんです」
「欲深だなあ」
 呆れた伊作の声に喜三太は少し笑って頷いた。
「しかしそれならなんでその切り札を囮になんかするんだい」
「効用ある血肉があればいいから、でしょうね」
少年がさらりと告げた言葉を、伊作が受け入れるまで少しの時間を要した。
 生きていたかったからと言った時の、なまえの顔を思い出した。
「…そうか」
「囮はボクたち二人ですが、万一のことがあれば監視している誰かが必要な『もの』を回収するはずです」
 辛いことを言わせている自覚はあったが、あえて気遣いは口にしなかった。身内以外の全てが敵になったなまえと、同族に生死を問わず監視される喜三太たちと、どちらが辛いのか伊作には比べる術もない。
 はっきりしたのは、現状の風魔一族に捕われればなまえの扱いが人道的とは言い難いものになることだ。前提、あるいは付随する可能性として、喜三太と与四郎が使い捨てられることも。
「ここを生きて戻れば、ボクは後継者の地位を固められます。風魔一族の手綱を握れるかもしれない。…先輩、」
 もう隠すことなく縋る目の後輩を、捨て置く理由はなかった。あったとしてもそれは、この怒りを凌ぐことができない。人の生命は等しく尊重されるべきだ。それが伊作の信条である。
「わかった」
 頷いて伊作は喜三太の背を叩く。
「僕は協力する。留は?」
「俺は…」
 眉間に寄せた皺を押さえながら、留三郎は長いため息をついた。
「…お前達を死なせないことに協力はする。だが風魔に組するつもりはない。場合によっては逃げさせてもらうし、そこで対立するなら同盟は破棄だ」
「充分です」
 みょうじから受け継いだ力に満足しない風魔の主流派とやらに比べたら、いかにも清貧な喜三太の受け答えだった。
 もっともたかが数名で雑渡昆奈門を相手にするのは思い切った賭けだったし、なまえの出方によっては、喜三太と与四郎を生かそうとするのはもはや狂気じみた行いだった。
 それでも、強大な男がたった一人で異能の忍軍を相手にできるとは思えない。可能性で言うならば、その男から四人がかりで逃れるほうがまだ望みがあるはずだ。
「行こう」