見開かれた青年の瞳が大きくなる。
「避けろ文次っ!」
 真横からの派手な破砕音と切羽詰まった叫びを聞いた瞬間、今まさに文次郎の両眼に突き立てんとしていた雑渡の指が止まった。足元に縄が落ちる。
「抜けたんじゃなかったの、食満くん」
 配下であった青年は檻を破った土煙の中で顔をゆがめた。いずれ離反するとは思っていたが。
「友達まで連れて戻ってくるなんて」
 小刀を手にした青年が唇を噛む。切っ先は首を狙っていたのだろうが、ごくわずか届かないまま地に落ちた。雑渡の左手が投げた棒手裏剣が、彼の腕を血に濡らしている。
「…立花仙蔵と申します。そちらは潮江文次郎」
「自ら名乗るなんて気前のいいことだ。私も自己紹介をするべきかな」
「お名前は既に存じておりますとも。…生きて戻らねば、惜しむ価値もありますまい?」
 皮肉に唇を歪めて仙蔵が笑う。
 違いないねと応じて雑渡は留三郎に問うた。
「なまえはどうした」
「残りました。生存者がいるのに逃げるわけにはいかないと」
 苦い顔で答えた食満に雑渡は溜息一つでうなずく。今さら彼が組を抜けようと、自分の命を狙おうと、どうでもいい。娘と共にあるのでなければ、雑渡にとっては無価値な雑兵だ。
 問題はなまえである。
(せめて避難場所にいればいいんだが…)
 おそらくは忍組の残党と共に城に来るだろう。自分と、交渉材料を探しに。なまえは薬師の知識ばかり注目されるだが、戦忍としても有能だ。しかし表に出せぬ訳がある。
 いま、難を逃れた者たちが、誰一人知らないなまえの秘密。みょうじにまつわる言い伝え。
 この雑渡昆奈門の報復を恐れ、今もっともみょうじの血肉を欲するのは黄昏甚兵衛だ。なまえが「そう」であると風魔が嗅ぎつけ囁いていたのなら、間違いなく狩り出そうとする。文次郎の様子からまだ山狩りが行われていないのは幸いだったのだが…。
 いざと言うときのため、持てる技量を伝えてきたが、こんなことになるなら責任など考えず逃げることもよくよく言い含めるのだったと、後悔が胸をよぎる。
「この期に及んで義娘の心配ですか」
「そうだよ」
 嘲笑も露わな仙蔵の言葉にも雑渡は至極当然と頷けた。そう、まっさらな本心では、忍組の彼是よりもなまえの安否の方が重い。
「優秀な駒をお持ちでなによりですね。…せっかくそうして築いた地位も崩れ落ちたわけですが?」
 立花仙蔵という青年は、なかなか辛辣な口を持ち合わせているようだ。伊作にしろ留三郎にしろおおむね素直な性格だったから、こういう類の人間はなかなか新鮮である。
 面白がっているうちに、上階から人が降りてきた。さすがに騒ぎをききつけたらしい。
「…残念だがそろそろ行かなければ。誰か私の代わりに残ってくれないか?」
 見渡すと青年たちは一様に無言で構えをとった。まあそうだろう、苦笑する。
「最後にひとつお聞きしたい」
 沈黙を破ったのは文次郎で、雑渡は頷いて先を促す。
「あなたの目的はなんだったのですか」
「さっき立花君が言ったじゃないか。地位、って」
「失くして焦っているようには見受けられません。こちらも真剣に尋ねているんですよ…俺たちはいったいあんたの何と引き換えに大事なものをぶち壊されたんだ?」
 抑えきれない憤怒の滲む声に、雑渡は目を細めた。
 大事なもの。
 奪われてこんなにも激昂できるもの。
 かつての自分に確かにそれはあって、長い時間を経た今でも、絶望はまだ体の奥底に潜んでいる。
 この青年たちの行動原理がその絶望であるならば、自分はできるだけ誠実に答えるのが義務だろう。奪った者としてではなく、…かつて奪われた先に救済を見つけた者として。
「根無し草がね。根付ける場所が欲しかったのさ」
 安住の地が欲しかった。
 嘘ではない。
「君達の来歴は知らないが、忍組がこれほど大きな地位を築いた国はそうなかっただろう?草は草、花は徒花、私はそれを人に変えたい」
「俺たちを使い捨てない国ならあったんだ!」
 語尾を打ち消す速さで文次郎が絶叫する。
「あんたが壊しさえしなきゃ!理想はちゃんと叶ったのに!」
「そうかい」
 微笑んで雑渡は頷く。
「けれどね君達、人の理想は同じに見えてそれぞれ違うものさ。皆の願いが一辺に叶うことなどないよ。あるとしたら錯覚だ。…残念だけどね」
 嘘をつかぬ事が今の雑渡に唯一あらわせる誠実である。消えた願いは数あれど、手中に残るものがまだある。そう、まだ、終わってはいない。諦めはしない。
 一歩、踏み出す。
 拭いきれない怯えを抱えながら退かぬ青年たちを好もしく思う。それでもためらいは一片たりともなかった。

 雑渡昆奈門が、動いた。








 喧騒に包まれる城の中でその一室だけは息の詰まるような沈黙に満ちていた。廊下をたくさんの足音が行き来するのに、誰もそこに部屋があるとは、まして人がいるとは思わぬようだった。
 相対するなまえと伊作は互いに動かない。睨み合うというにはいささか険に欠ける、観察し合う目線が交錯する。
 先に口を開いたのはなまえだった。
「…医療のためじゃなかったの」
「これもある意味医療かもね。医者は医者でも、診るのが人の体ではなかっただけさ…病巣は取り除かなくちゃいけない」
「詭弁よ」
「そうかな。今回の騒動は乱心した殿の引き起こしたことで、心を病んでいた殿は不意の事故で死亡。後継には忍組存続派のしかるべき人物が据えられて、あくまで殿個人との密約であった風魔との繋がりは無かったものに…なんてあたりがおさまりがいいんじゃないかと思うんだけど、どう思う?」
「どうもこうも、後付けの理由にしか聞こえないわ」
 睨みつけるなまえに伊作はやわらかい表情を浮かべた。
「今からでも戻る気はない?」
「…どこに?」
「6年前、かな。君が学園を飛び出す前。僕たち同級生がそれぞれ仕官する前に」
 なまえが息をのむ。
 震えた唇が言葉を作るより早く伊作は力強く言い募る。
「やりなおそう。誰かの首一つで憎しみに歯止めがかかるなら、そうするべきなんだ。病巣は取り除かなくちゃいけない。…だから、そこを通してくれないか。僕は残せる命を残したい」
 熱を帯びた口調に、入口を塞いだなまえはしばらく目を閉じていた。
 伊作は彼女を待っていた。
 やがてなまえがゆっくりと首を振る。
「…今更戻れるわけないじゃない」
 再び開かれたまなざしは、深い翳りで濡れていた。
「他にも誰か仲間がいるとは思っていたけれど…。そう、留三郎だけじゃないのね?」
 なまえは姿勢を低く構え直す。攻撃に出るためのものだ。
「ねえ伊作。たぶん私、皆がいるとわかっていても、組頭の命に従っていたの。攻撃と破壊で自分を守ろうとするこの国のあり方を病と呼ぶなら、私はあなたが切るべき腫瘍にほかならない」
「なぜ?なんで君は…」
 初めて苛立ちを見せた伊作に、今度はなまえが微笑する。
「自分が生きていたかったから」
 あまりに単純な理由に伊作が絶句する。何かいうより先になまえが首を振る。
「だから、わたしは他の人たちを殺したの。たくさん、とてもたくさん。…わたしの本当の名前を、伊作は気づいているんでしょう?学園に来た日からずっと怖かった。ひとりで生き延びるのが不安で仕方なかった。だけど組頭は、やっかいで個人的な事情を知ってなお私を庇護してくださった。誰が何と言おうと、私にはそれで充分すぎる理由なのよ。…例えばこれが学園長先生の命であっても従ったと思う。ただあの方は『しなかった』、組頭は『した』というだけの違い」
 かつての友を傷つけることさえも厭わない。
 伊作にはその言葉を責めることができなかった。
 彼女があの胡散臭い言い伝えに振り回された一族で、生まれた時から身内以外誰も信用できない生活をしてきたのだろう。よすがであった家族を皆殺しにされれば、次に誰かを信じることは極端に難しい。
 彼女を庇護しきる力をもつものは少ない。大川学園長でさえ六年が精一杯だった。一人の人間のために、中立の立場を揺るがしてはならない。
 庇護する力を持ち、渇れた器にもう一度愛情を注いでくれる雑渡に、手をとられた奇跡はどれだけの確率だったか。
(家族とひきはなす訳にいかないだろう)
 留三郎の言葉がよみがえる。
「…最後にもう一度聞かせてくれないか」
 たぶん無理だろうなという諦めはあったが、伊作は辛抱強く尋ねた。
「タソガレドキの要を壊したって、雑渡さんも忍組の人たちもなくなるわけじゃないだろう。僕を、黄昏甚兵衛のところに行かせてくれ」
「駄目」
 わかりきった答えを、なまえは幼い子供に説いて聞かせるように、穏やかな声で繰り返した。
「伊作の言うように一つの首で百人が救えるならいいんだけど、その百人に忍村の人たちが含まれないんじゃ話は呑めない。…今死なれちゃ困るのよ。」
「どうするつもりだ」
「筋書きは難しくない。誰かが殿を利用しようと企んでいた、私たちが助ける、それで殿は腹心の忠誠を思い知る。いい話でしょう?手切れ金に所領地と不可侵条約を貰っておかなくちゃ。後ろの誰かも引っ張りださないと禍根になる。わかる?騒動の渦中で『いつのまにか誰かに』殺されていてはいけないの」
 こんな状況でもなまえの顔に悲壮感はない。
 彼女はまだ事態改善の希望を握り締めている。
「国と土地を無くして他国からも狙われる集団がいずれどうなるか、私は知っている。あの方がこの国を支え続けたのは忍組を守るためだったのに、わたしの行いで潰すわけにはいかないの」
 なまえの手が帯にかかる。
 例の薬かと身構えた伊作に苦笑してなまえが取り出したのは見なれた暗器だった。握って構えてなまえの表情が鋭利になる。
 伊作も戦闘が特に不得手なわけではなかったし、過去には彼女を相手に演習をしたこともあった。なまえは男女差を感じさせないほどの力量の持ち主ではあったが、それでもこんな向かい合っただけで不安になるような、圧迫感は初めてだ。
 他の誰と向き合っても、こんなふうに気圧されることはないだろう。雑渡昆奈門をのぞいては。ああ確かに親子なんだなと納得する。日々、技を伝えられてきたのだろう。親鳥が雛に餌を運ぶように。
 じり、となまえのつま先が動く。
 じっとりと汗をかいた掌で、伊作もまた得物を握り締める。
 殺さずに、なんてぬるい事を考える余裕はとてもなかった。間合いがまたじわりと詰まる。
(…まずい)
 本能が警鐘を鳴らした。なまえが動く。一直線に喉元を刃が狙う。かわそうと身をそらした伊作の膝になまえの足が恐ろしい勢いで叩きこまれる。形容しがたい音とともに脳天まで突き抜けた痛みに伊作が呻いた。なまえが両足で着地すると、軸を安定させて再度体を捻る。反動で勢いをつけた刃が再び向かってくる。
(やられる!)
 切っ先から目を逸らさず伊作が息を詰めた時、突如なまえの体勢ががくんと崩れた。

 前のめりに倒れるところを、すんでで横に体を倒して受け身をとる。持ち主の手から離れた刃物が伊作の肩を掠めて背後の壁につきささった。
 すぐさま体をおこしたなまえだが立ち上がることのないまま片足に絡んだ鎖を見下ろし、溜息をつく。
「…今更戻ってくるなんて」
 鎖の片端を握った留三郎はぎらぎらと底光りする瞳で彼女を見下ろす。
「どういうつもりだ」
 臓腑からしぼりだす低い声が詰問する。
「伊作を、殺す気なのか」
「そうよ」きわめて平坦な声でなまえは答える。
「それであなたは何を責めるの。このタソガレドキを滅ぼしに来たあなた達が?」
「俺の狙いは黄昏甚兵衛だ。おまえが雑渡組頭を慕うなら、敵は忍組と組頭を潰しにかかってる張本人だろう。敵対なんかしてないのに、仲間を殺す馬鹿がいるか!」
「仲間?」
 面白い冗談でも聞いたようになまえが目を細めた。
「裏切り者がどの口で言うのかしら」
「裏切ったわけじゃ」
「だってあなたたちが発端でないなんていいきれないじゃない」
 否定しかけて留三郎は口をつぐんだ。信用されていない、つまりは何を言っても無駄だということで。
 じゃらじゃらと音をたとなまえは鎖を解く。
「さっき伊作とも話したの。同じ方を向いていたって私とあなたじゃ狙ってるものが全然違う」
「留」
 諦めを含んだ声で伊作が呼ぶ。目の前のなまえはおだやかな笑顔だ。遠い。
「ねえ、そこを通してくれる?」
 先程の伊作と同じ言葉を呟いてなまえが首を傾けた。