それぞれに腕に覚えのある青年だったのだろう。
 急所を突いた瞬間、彼らは年相応の幼さで目を見開いた。何が起こったのか理解せず崩れ落ちる二名を背に雑渡昆奈門は囚われていた部屋を後にする。両手には抜き取った得物をもてあそび、すれ違い様に駆けつけた牢番達を薙いでいく。
(食満くんは…まあいいか)
 あの二人よりもタソガレドキ組頭を警戒していた留三郎は、事が起きる前に一人撤退することを選択した。賢明で冷静な判断だ。感情的になってはならない。忍の鉄則であるが実践するのは難しい。つくづく、良い人材だったと雑渡は思う。
 彼らがはたして風魔を招き事態を引き起こした張本人であるのかどうか、真偽はもうどうでもよい。良い人材『だった』。それだけだ。
 出会い頭にまた一人、鳩尾をつく。思いのほか人が少ない。皆、屋外の陣に向かったと言うのだろうか?足音を殺すこともせずに走っていると、不意に横合いから呼びとめられた。
「組頭ッ」
「陣内か」
 ほっとした表情の山本が頷く。
「先ほど高坂と諸泉が助けてくれました。組頭、御無事でなによりです」
「お前は」
「少々痛めつけられた程度です。このようななりでお恥ずかしい」
「小頭、」
 山本に肩を貸していた諸泉が咎めるような声をあげた。山本の顔色は蒼白を通り越して黒みがかっている。自力で歩くことはできないだろう。意識を保って会話するだけでも相当な気力を要するはずだ。
「陣左はどうした」
「天守に行きました。外には殿の姿が見えません。中に居ればよし、居なくても何かの証拠を探したいと」
「…尊くん、陣内をつれてできるだけ城から離れなさい。これほど人がいないのは妙だ。他の者にも同じことを。陣左には私から伝える」
「心得ました」
 頷くも、二人の部下は動かない。
 視線を受けて雑渡は笑う。
「私もすぐ行くよ」
 その言葉にどの程度の真実が含まれているのか知りながら山本と諸泉は頭を垂れた。
 枷を嵌めることなど、もうできない。








 留三郎となまえが睨みあう。

 互いの呼吸音すら無意識に数えるような緊張の中で、二人とも同じことを胸中に呟く。…誰かを屈服させることがこれほど困難だとは予想だにしなかった。
 いいかげんにしてと叫びたい気持ちを抑えてなまえは跳躍し、もうやめればいいのにと溜息をつきながら留三郎は着地点に向けて鎖を放つ。避けようとしたなまえの動きが止まる。先端についた鎌が脾腹を薙いでいる。一拍を置いてあふれた、おびただしい出血に留三郎が息を詰める。
 瞬間、なまえの唇が凄惨な笑みを浮かべた。
 距離を取ろうとした足が逆方向に床を蹴り、留三郎と瞬時に間合いを詰めた。噴き出す血にも気付かぬかのような勢いで俊敏に武器を操る。動揺を突かれた留三郎が出遅れた。防御にかざした左腕になまえは容赦ない刃を叩きつける。
 まるで二頭の獣を見ているようだ。
 入り込む隙が見いだせず、どうしたものかと観察していた伊作は、現実味を増してきた不安に知らず腕をさすった。
(まずいんじゃないか、これ)
 留三郎となまえが戦ったらどうなるか、元々ある程度の予想はあった。そしてその予想以上になまえは強かったわけだが…留三郎は間違いなく精鋭だ。どちらに軍配が上がるかといえば伊作の中では留三郎しかありえなかった。
 が、実際こうして見ているとなまえの攻撃は一向に衰えない。むしろ急所を完全につけ
 ない留三郎の方が、少しづつ疲労を蓄積している。
(…いや、でも、負傷率で行けばあきらかになまえのほうが上だろ)
 この不安の源はそこだ。
 手傷を負わせた数で行けば、どう考えても留三郎の方が多い。つい今しがたの一撃だってなまえが膝をつかないのはおかしい。無理を通した反撃は失血の原因だ。それなのになぜなまえはまだあんなに動けるのだ。
 脳裏をよぎったみょうじという言葉を伊作の理性は噛みつぶそうとしたが、目の前の光景がそれを押しとどめた。
 不死という伝説。
 あるはずもないのだけれど、そうでなければなまえはどうして。
(毒に強いって だけじゃないのか?)
 顔を歪めた留三郎が鎖鎌の片端ごと右腕を振り払う。
 受ける余裕のないなまえの体は軽々と吹き飛ばされ、派手な音とともに木壁に叩きつけられる。呻くなまえが立ち上がろうとしてふらつく。その脇腹の傷が、もう血を滴らせていないことに伊作は気づいた。息を切らせた留三郎が叫ぶ。
「もうやめろ!」
「…いやよ」
 手負いの獣そのものの様子でどうにか立ち上がり、なまえは落ちかかる髪をかきあげた。青白い顔だが表情にはまだありありと抗戦の意思が浮かんでいる。
「いいかげんにしろ、これ以上やったらお前ッ」
「死なないわ」
 真顔で首を振ってなまえは両手を広げた。
「あなたが死んでも、私は、死なない」
「なまえ」
 立ち尽くす留三郎になまえはほんの少しだけ泣きそうな顔をした。
 伊作を振り返って、うごかないでね、と囁いて背を向ける。
「留三郎、見て」
 なまえの指が胸の真下を指し示す。たった今付けられたばかりの生々しい傷口からじわじわと液体が着物を濡らす。
「ちゃんとみててね」
 なまえの両手が着物の襟にかかり、ためらうことなく割開いた。真白い胸の曲線があらわになって留三郎は反射的にそれを止めようと走りよる。
「いいから」
「いいからってお前、」
 襟元をかきあわせようとする手をおしとどめてなまえは困ったように留三郎を見上げた。こんな修羅場で、見るまいとしても視線がいってしまうのは男の性だ。露出していればどうしてもそのやわらかな場所を意識してしまう。
「そこじゃなくて、こっち」
 なまえの片手が再度、乳房の下の傷を示す。
 自分がつけた、酷すぎる傷を、直視して留三郎は息を呑んだ。
「…どういう…」
 肌を染めた血はまだ乾かない。
 乾かないのに傷が閉じかけている。
 周囲の肉が盛り上がりひきつれたような痕を形成しながら傷口をふさいでいく。そこだけ別の生き物の動きを見ているかのように、傷のあった部位が変異していく。
 凝視しているうちにも瘢痕は端からどんどん薄れ、なまえの掌が血痕を拭うころには肥厚していた形跡もないなめらかなな肌があるばかりである。
「はい、もと通り」
 たとえるなら辻に立つ傀儡師の技を見た後の、喜哀の別のない茫洋とした驚きが、留三郎の抱いた感情のすべてだった。
 言葉を発することも忘れてただただ凝視する様子になまえはさびしそうな笑顔を浮かべた。はだけた着物を整え、襟を直す。
「私とあなたは最初から、生物としてまったく違うの。だからもうやめて。留三郎」
「…これがおまえの秘密か」
「ええ」
「俺にばらしていいのか」
 低い留三郎の問いに、なまえは小さく首をかしげた。
「もしあなたが情報を売るなら、私も貴方の周りの人達に対してやることがあるけれど…しないでしょう?そんな良心の咎めること」
 良心はなまえ自身に向いたものなのか、犠牲になりかねない無故の民に向くのか曖昧なまま、留三郎は反論できずに黙り込む。
「伊作は」
「何も見えなかったからね。見てないものは信じない」
「ありがとう」
 当然とばかりに答えた伊作になまえは微笑み、すぐに真顔に戻る。
「改めて言うけど留三郎。私があなたに負けることはないの。…退いてください」
「わかった」
 予想外に早い返答に伊作が何かいいかけた。片手で制して留三郎は言い募る。
「伊作一人じゃ動けないだろう。外に出よう。…なまえ」
「何?」
「城攻めをしてきたのはお前なんだよな」
「ええ」
「今、仕掛けのタネはあるのか」
「少しなら」
 隠すことなく、まっすぐに視線を返してなまえは答えた。留三郎ももう動揺はしない。頷く。
「なら、今回何があってもお前は死なないって約束してくれ。それで俺は退く。邪魔はしない」
「…そんなこと?」
 やや呆れたようになまえはつぶやいた。留三郎が苦笑する。
「もちろん、これだけを条件にするつもりはないからな。生きて戻るのは前提だ。踏み倒すなよ」
 拍子抜けした様子でなまえは頷き、違和感を感じたまま伊作は留三郎に従う。部屋を出る間際になまえが立ち止まる。
「…早く行ってね。くれぐれも、誰にも会わないように」
 彼女が姿を消したのを見計らって伊作は留三郎を見上げた。
「随分物分かりがいいじゃないか」
「まあな。…さて、動けるか?」
「立つ時さえ手を貸してもらえれば。…あいたたた」
 立ち上がった伊作ににやりと笑うと、留三郎はやにわに懐から何か取り出して四方に振り撒いた。途端天井裏から悲鳴があがる。
「ああああ止めてくださいぃぃ!!」
 転がるように落ちてきた固まりに伊作が目をむいた。
「き…っ」
 記憶にあるよりだいぶ背が伸びて声も低くなったようだけれど面影はある。何より彼が慌てて拾い集めている、蛞蝓。
「喜三太!?」
 泣きそうにうるんだ目で振り返った少年は、留三郎を睨んで叫んだ。
「酷いですよ食満先輩!ナメさんたちに塩をまくなんて」
「あいかわらずだなあ。ここに水があるぞ」
 竹筒を取り出した留三郎はちゃぷちゃぷと音を立てて振って見せる。わざとらしい笑顔。
「さて、なんでお前がここにいるんだか、きっちり教えてもらおうか」