潮江文次郎が仕官したのは、小さな城だった。小さいながらに諸国と同盟や血縁関係を結び、その交友関係は幅広い国だった。
 いずれ学園長の座を狙わんとしていた文次郎はその人脈を利用したいと思っていた。
 城主はそんな考えさえ見抜き、笑った。
 そうして文次郎を忍ではなく武官として雇い入れたのだ。
 仕えてみれば周りは似たような理由で集まってきた男ばかりだった。中には同盟国からの斥候だという者までいた。さらに驚くことに彼はもうとっくに任期を過ぎているのだという。
「居心地がいいんだよなあ」
 色々な人間が、色々な様子でそう言った。
「ここの殿様はけして人を使い捨てない。信頼してくれる。企みを見抜かないわけじゃなく、企みをする必要を無くしてしまうんだ」
 人たらし、というのが皆の意見で、そんな言葉さえも城主は苦笑交じりに聞いていた。
 城主の家族も、家臣も、そのまた部下や領民でさえ、皆心根の清いものばかりだと、一年の後に文次郎は思った。
 本当の意味で人の上に立つにはこんな人間がふさわしいのではないか。
 戦国の世にこの桃源郷を作り出す我が殿こそが…。


 そんな日々は唐突に終わりを告げた。


 ある時突然、大軍が攻めてきた。もちろん諸国へと使いを出し、すぐに援軍がやってきた。しかし敵の多さに、戦は数日に及んだ。
 その隙を突いて黒装束が城内に侵入したのだ。
 もちろん文次郎や他の忍たちも応戦した。
 敵は、おそろしく腕のたつ手錬だった。
 あるいは平時であれば、せめてこれほど全軍が疲弊した状態でなければ、いくら腕が立つとはいえ1人の敵など、間違いなく討てていたはずだった。あるいは、…敵の狙いにもっと早く気付いていたならば。
 戦場の兵士たちと違い、黒装束が引くまではほんのわずかな時間だった。
 いくらなんでも単身では無理だと悟ったのだろう、と皆が思った。
 念のためにと文次郎と数名の仲間が追うことになった。

 そうして、翌日。

 城主も、その家族も、家臣も。
 城にいたものたちは皆冷たくなっていた。眠りに就くのとなにも変わらぬ様子で、朝を迎えても誰も起き上がることはなかった。後の調べで城内の数ヵ所に毒が仕組まれていたことがわかった。苦痛はなかったのだろう。穏やかな死に顔だった。静かで無差別な殺戮だった。
 忍の自分たちが残っていれば、途中で異変に気づくことができたかもしれない。しかしすべては終わっていた。取り戻せなかった。
 文次郎が戻ってきたとき、もはやそこに桃源郷はなかった。首魁を落とされ混乱に陥った国を、ひといきに飲み込んだ大蛇の名を、タソガレドキという。
 その名、その牙、優しく冷たい毒を、文次郎は生涯忘れない。




「文次郎」
 呼ぶ声にはっと瞼をひらけば、役者のような細面が不機嫌にこちらを見下ろしていた。
「横になれ。座りながら寝るな」
「お前だってここしばらく働きづめだろう。少しは休め」
「居眠りしている奴に言われたくないな」
 鼻で笑われるも、事実その通りなので反論の余地はなかった。舌打ちして首をひねる。ばきぼき酷い音がして顔をしかめる。改めて仙蔵の様子を見れば、自分が転寝をしている間にも外を歩いてきたのだろう。足が埃で汚れていた。
「留三郎はまだ来ないのか」
「来るものか」
 吐き捨てる調子に文次郎は眉間のしわを深くした。
「どういうことだ。むこうに残るのは伊作一人のはずだろう」
「女ができたそうだ。所帯を持ちたいと言ってきた」
 忍の三禁という言葉が瞬時に浮かんで、文次郎はここにいない留三郎を怒鳴りつけたい衝動に駆られた。任務中色欲に負けるなど馬鹿の極みだ。まして所帯を持つなど、そういうことは長年思い続けた相手とするべきで…。
 そこまで考えて文次郎ははたと仙蔵の顔を覗き込む。
「ちょっと待て。所帯を持ちたい?留三郎が?そんなもん相手は」
 なまえに決まっている。
 間違いなくそういう事に疎い自分でさえなんとなくわかるほど、あからさまに嫉妬や好意を見せていた学生時代。突然なまえが姿をくらましてしてから茫然自失の体だった男が、久しぶりに再会してみればあちらこちらに仮寝の宿があるような有様で、反動のようなその放埓を見ればなおさら、身を固めるとしたらなまえ意外にないのだろうと思えた。
「タソガレドキにいたのか」
「感想はそれだけか?」
 土の上に腰をおろし、無理に唇を釣りあげて仙蔵が問う。相当怒っている様子だが、何のことだかわからない。
「何だ」
「あの女なら薬の知識は伊作以上にあるだろう。最初に一夜攻めが行われた時期は?この計画の発端に、伊作は私たちに何と言った」
 ひとつひとつの言葉を咀嚼する。
 すべて飲み込んだところで文次郎は血の気が引くのを感じた。
「なまえが、あの毒を作ったっていうのか」
「あるいは実行役かもしれんぞ?…そうでなければ何故伊作が潜入役を自分と留三郎に強く推したのか、標的は国主に絞れと念を押してきたのか、他に上手い理由があるか」
 …僕は誰も恨んじゃいない。
 伊作はそう言い、留三郎は半ば同情心からこの計画に加担したのだろうが、自分たちは違う。
 暗い熾火のような仙蔵の目に、ぐしゃりと歪んだ自分の顔が映っている。
「…私は、少なくとも、なまえが『そう』であるなら許せない」
「仙蔵」
「大切なものを根こそぎ奪った相手を、どうして許せるんだ。…復讐が何も生まないなんてことは百も承知している。だが、皆、失った者は、あいつらを殺そうが、どうしたって戻っては来ない!」
 がつ、と鈍い音がして、文次郎は再度、夢から覚めたような心地を覚える。
 地に打ちつけた拳を戻すことなく仙蔵がうずくまっている。
 震えているのは俺だろうか。こいつだろうか。
 戻ってこないもの。
 かけがえのなかった時間。
 過去が戻らないのは皆同じでも、失くした者には二度と会えない。あるはずだった未来もない。どこまでもどこまでも埋めることのかなわない茫漠が広がる。
 復讐が何も生まなくても、あるいはこの虚を埋めることができるのではないか、と思った。
(俺は、許せるか)
 自問しても答えは変わらない。赤の他人がやったのだと思えれば、まだ楽なのに。
「…なまえ」
 呼ぶ声にはかすかな憎悪が漂い始めている。






「どこから…」
 口からこぼれた台詞に伊作は頭を抱えたくなる。一目瞭然じゃないか。
「…あなたも知ってたの、留三郎」
 笑いを含みながら少し震えた声でなまえは呟いた。
「何の打算もないなんて思わなかったけど、なんだ、やっぱり二人ともちゃんと目的があったんじゃない」
「違う、違うんだなまえ」
「最初から知ってて、この国を潰しにきたのね」
「そうじゃなくて、」
「王将を取ったら戦はおしまい。風魔だろうがあなたたちだろうが…結果は一緒じゃない」
 もう否定も反論も口にできなかった。
 薄く笑ったなまえの目が薄暮の中でひかる。
「さっき言ったわね、伊作。敵対するなら私がやるって。素手じゃ勝てないかもしれないけど、ご存知の通り私には毒がある」
「…そんな危険物を携行してるとは思えないけど」
「確証があるの?人目を盗んで侵入するのに大掛かりな物なんて持ち歩けないわ。万が一のために少量だけなら、この通り」
 帯に手をおいてなまえが唇を吊り上げる。はったりだと思う一方で、そうでなかった場合は確実にやられる。二対一とはいえ戸口を塞がれた状況で利は薄い。賭けるにはあまりにも分が悪い。
「頭の後ろで両手を組んで、座りなさい」
 冷たい声が鞭打つ響きで命じる。
 ちらりと視線を見交わして、留三郎と伊作はなまえの指示に従った。
「どうするんだ、俺達を」
 ようやく口を開いた留三郎が動揺のない様子で尋ねる。
「殺す気なら最初からそれを使っただろ」
「私の一存じゃどうにもできないわね」
 懐から取り出した小笛を口に当てなまえは息を吸い込んだ。




「食満ッなまえッ」


 甲高い音が鳴り響くより先に割って入った声になまえも思わず小笛を取り落として体を避ける。
「諸泉さん!?」
 血相を変えて飛び込んできた青年は荒い息を整えもせずに告げた。
「村が焼かれている!」
「「「え?」」」
 三つの声が綺麗に重なって、留三郎も伊作も跳ねるように立ち上がる。
「どういうことですか。焼き打ちなんかする人数で領内に侵入できるような輩は」
「侍組が侵軍してきたんだ。組頭を筆頭に反乱分子を捕縛するって」
「嘘!」
 悲鳴に似た声でなまえが叫ぶ。
「そんな…私たち、今まで散々貢献してきたのに」
 先ほどまでの冷ややかな空気など微塵もない、今にも泣き出しそうななまえをひきずるように、留三郎が表に連れ出す。抗わず従ったなまえはあがる火の手を見て短く呻いた。
「村が…」
 最強をうたわれる忍の本拠地に起こるなどおよそ想定しえない災禍だった。
 天を焦がす炎。
 黒煙。
 幻などではない証拠に、鼻を衝く異臭と切れ切れの悲鳴や怒号が聞こえてくる。
 けれどもそうして息を呑んだのはごくわずかで、なまえは伊作と目を見かわして頷く。治療道具をかき集めに戻ろうとした腕を諸泉が掴んだ。
「組頭が逃げろと仰った」
「なにを」
 信じられないものを見る目で、なまえは諸泉に向き直った。
「何を言ってるんですか、諸泉さん!?あそこに、あそこで今皆が」 
「君は駄目なんだ!」
「どうして!?生きている人がいるなら医者も援護も必要でしょう、誰かが助けなくちゃ死んでしまう!」
「それでも駄目だ、どうしてわからない!?」
 両の肩を掴んで諸泉はがくがくとなまえを揺さぶる。
「だから戻っちゃいけないんだ!組頭の家族で、忍組の切り札である君が!絶対に、つかまるわけには、いかない!」
 激昂に青みを帯びた瞳で、なまえは諸泉を睨みつけた。ついで、忍村を振り返る。黒煙の中にきっと誰かが今、この瞬間に負傷している。死んでいく。
「諸泉さんはどうするんですか」
「…戻って戦うよ。どうにかして組頭や小頭を取り返す。隠し通路は僕の知る限りすべてを開放してきた。逃げる力のあるものはそこから抜けたはずだ」
 逃げる力の無い者はどうしたのか、とは誰も問えなかった。
 諸泉の父親である先代組頭は、自力での歩行が難しい。人一人通るのがやっとの狭い通路をくぐりぬけることはできないだろう。
 拳を握りしめてうつむいたなまえの肩に、諸泉とは別の掌がおかれた。 
「非常時になんですが、俺は抜けますよ」
「うん。それも組頭が仰っていたよ」
 目を細めて諸泉が淡々と返答する。
「僕個人としてはとても許しがたいんだが。なまえを頼むと、伝言を預かっている」
「心得ました。今までお世話になりました」
 促すように背中にまわされた手を、一瞬の沈黙の後なまえは…思い切り振り払った。 
「ふざけんじゃないわよ、どいつもこいつも」
 ぽかんと口をあけた男達に、口をきくのも面倒になってなまえはそのまま走り出す。後ろから慌てた声が聞こえたが知ったことではなかった。