21


 信頼とは何だろうと考えて、なまえは冷えた頬に手を当てる。
 夜風が冷たい。夕刻の話を思い出すと、手の感触以上に胸が冷えた。
 …彼らが斥候である可能性をこれまでまったく考えないわけではなかった。
 けれど、どこかで甘えていた。
 組頭が招き入れたのだから大丈夫と、考えることを放棄していた。
 状況を考えれば自分が登城するのを避けるために伊作が呼ばれ、留三郎が付随してきた。だが結局その後自分も城勤めになっている。どこまでが雑渡の手の上で、どこからが予想外だったのだろう。それともあるいはこうして自分が後悔と焦燥を噛みしめる所まで計画の範囲なのだろうか。
 家を出てくるときに父は何も聞かなかった。
(忍組を取り替える?)
 そんなことできるのだろうか、というのが本音だ。
 戦におけるタソガレドキの国力は大半が忍組の働きによると言っても過言ではない。しかもそれは雑渡昆奈門という人間がいたから為しえるものだ。もし、別の忍の一派が現忍組に真正面からぶつかったとして互いに無傷では済まない。最大の戦力かま損耗した状態では手薄になった軍備を他国に突かれるのが落ちだろう。
 あの方は怖いのだよ、と、以前雑渡は言っていた。
 只人では為しえないような攻め方。常識ではありえない生命力。それを恐れて甚兵衛が動いたのなら、騒動の元凶は自分であり、雑渡に血を分けた母だ。みょうじという異端が…。
 そこまで考えてなまえは背中を駆け上がった悪寒に目を見開いた。
(忍組に匹敵する人数と結束力の集団、気体状の毒を操作する、風…)
 恐れているものを叩くなら、後ろ盾が必要だ。
 異端に対抗できる異端。
 同じだけの能力。
(私も、血を分けた)
 心当たりがひとつある。
 行者姿をよく用いていた、かつての少年。
「与四郎…」
 冷たい風がまた、頬をなでる。
 なまえは伊作と留三郎の元へと駆け出していた。




「呪い札?」
「そう。前に部屋で見たの。本に挟まっていたでしょう」
 平静を必死に装うが心臓が飛び出しそうだ。
 伊作の視線が痛い。留三郎は不在だった。どこへ行ったのだろう。
「もう一度よく見せてほしくて」
「ごめん、ちょうどさっき留三郎が持ち出したばっかりなんだ。夜には戻るはずだけど」
 眉尻をおとした伊作が何気ない口調で尋ねる。
「何か心当たりがあったのかい?」
 ほらきた。
 呼吸が乱れないように気をつけながら笑顔を浮かべる。
「たまたま思い出しただけ。見おぼえあったの」
「やっぱり君もあるのか!」
 思いがけず熱心な返答に、内心首をかしげる。やっぱり?
「最近タソガレドキに限らず、いろんなところで見かけるんだ。あの札を配る行者。急に数が増えたから怪しいって話してて」
「…その人たちどこかの訛りはなかった?」
「いや、僕はそこまでは…ちょっと待って、本当に心当たりあるんだね?」
「ううん。そこまで大きな集団なら、単なる寄せ集めじゃないのかもって思っただけ。忍ならどこかに本拠地があるだろうし、このあたりでそういう話はあまり聞かないから」
 今にも飛び出しそうな勢いの伊作だったが、用意していた台詞にがっくりと肩を落とした。 
「あー…そっか、うん、だよねえ…」
「伊作はそれ、どこでもらったの?」
「薬の仕入れ先の人が、最近流行ってるんだって一枚くれたんだよ。今調べてもらって、他に配ってるやつがいないか様子見てるとこ」
「そう…」
 伊作の言動が演技かどうか、見抜く確信はもてなかった。
 ともあれ仮にその集団が風魔だったとして、与四郎以外の人物をなまえは知らない。確かめようがないのでは接触しても意味がない。
 山村喜三太という「心当たり」もあるが、統領の孫であるところの彼がそんな一族の進退にかかわる機密情報を流してくれるわけもない。あるいは委員会からの繋がりで伊作と結び付く可能性も無くはないが、喜三太がまだ在学中であれば大川平次渦正がそのような不穏のはたらきには目を光らせるはずだ。かい潜るのは難しい。
(与四郎…)
 かつての過ちを思う。
 無理矢理異端にさせてしまった彼は、今どうしているのだろう。
 雑渡は母に血を与えられたと言っていた。だからあの火傷でも未だ存命している。その奇跡が英雄を作り上げたのならば、与四郎もまた風魔という集団において同じ可能性をはらんでいる。
 他のどんな集団が相手でも、ここタソガレドキには「あの」雑渡昆奈門がいるからという安心感があった。
 だが錫高野与四郎のいる風魔なら。
(本気で勝つつもりで挑んできているの?)
 どの国に攻め入る時より不安な気持ちが胸を満たす。先手を打つなら本拠地を探し出してまた…毒攻めを行うことになるだろうか。
「どうしたのなまえ、顔色悪いよ」
「え、気のせいだと思うけど。ところでやっぱり伊作もその集団が黒だと思う?だとしたら本当に大事だよね。忍集団同士の戦なんて…伊賀と甲賀じゃあるまいし」
 伊作は一瞬心配そうな表情をみせたがすぐに顔をひきしめた。
「そうだね。どこかの城がついてるにしちゃ妙な話だし、撹乱にしちゃ手が混みすぎてる。タソガレドキも名前が売れすぎてるから忍組の敵も多いだろうけど…」
「怨恨目的ってこと?」
「可能性はある。っていうか、そのくらいじゃなきゃ僕は雑渡さんに喧嘩を売りたくないって話。例外もあるけどね」
 苦笑した伊作になまえは首をかしげた。
「何?」
「凄く手に入れたい物のため、とか。人間って結構頑張れるもんだよ」
 留三郎を示しているのだと気がついてなまえは眉を落とした。
「十日で犯人をあげるってかなり無茶な要求だと思うの。そのくらいで尻尾を掴めるならとっくに組が動いてるわ」
「僕らは疑われてもまぁ、仕方ないさ。いいんじゃないの。ついでに蜘蛛の糸を垂らしてもらったんだから」
「…伊作」
 自分の疑念もきっと見抜かれている。
 そのうえで伊作は、無実を訴えることをしない。白か黒か。黒とみなされても仕方ないという諦めだけを見せる。
「もしあなたたちが敵なら戦いたくない」
 衝動のまま湧きあがった言葉を飲み込むには遅すぎた。
 中途半端な静けさにのまれて、伊作も、なまえも、身動きの取れないまま視線を合わせる。
 戦わないなら逃がせるだろうか。
 伊作だけではなく。与四郎だけではなく。
 たとえば今ここにいない留三郎が、どこかでタソガレドキ忍組を、雑渡昆奈門を潰そうと画策しているのなら。
 答えはとうに出ている。
「…どうしても消さなくちゃいけないなら、私がやるわ…」
 振り絞るように口にして、なまえは言葉の重みに吐き気を覚える。嫌悪感はあったが間違いなく本心で、そのために自分はあの城攻めを行ってきたのだ。今さら取り繕うべきものなど何もなかった。
 伊作は少し目を見開いたが取り立てて驚くこともなく、わかった、とだけ頷いた。






  帰還した留三郎を待っていたのは伊作ではなかった。
「…組頭、何故ここに?」
「おむかえだよ」
 子供にでもするように笑顔で両手を広げてみせるが、留三郎は幼児ではないし歓迎される間柄でもない。
 硬直すると、腕を閉じた雑渡がにやりと唇を歪めた。
「何か獲物をくわえてきたんだろう」
 どうやら猟犬扱いだったようだ。まあそれなら実際そんなものだろうと納得して近づく。
「ここ一年に出入りした商人のうち、最も来歴の新しい所を探ってきました。先日煙管を制作した者がおります」
「名は」
「名は佐吉。銘に錫高野と」
 口にしながら自分の苛立ちが相手に伝わらないことを願った。雑渡は目を細めたきり何も言わない。
「心当たりがあります。探りますが、当たれば恐らくかなり大きな獲物と思われます」
 学園の記憶。食堂の温もり、夜を明かした興奮と笑い声を思いだす。友と敵対したくないという伊作の声。懐かしく今でも慕わしいものの中にそれはあった。
 獲物。
 のし上がるための。
「証はなくていい。どこだと見ている」 
 唇が乾いてひりひりと痛んだ。
 ためらいがあればまだ、自分は自分を許せただろうか。
「風魔」
 吐き出した音は折からの風にさらわれていく。可愛がっていた後輩への情も、一晩だけの交流の記憶も流れてしまう。
 今留三郎の中にあるのは熱を帯びてなまえを見つめていた与四郎への苛立ちと、そこから起因した不安と怒りだ。
(目的なんて知りやしないが)
 建前がどうあれなまえの存在をしれば与四郎は風魔として彼女を欲するだろう。渡さない。絶対に。
「…いいのかい、それが獲物で」
「は、」
 予想外の返答に留三郎は目をみはる。雑渡は軽く肩を竦めると「精々頑張るんだね」と背を向けた。
 慌てて頭を下げたが包帯を巻いた姿は振り返ることなく去っていく。
 言葉の意味を考えようか少し迷って、留三郎は帰宅と報告を急ぐことを選んだ。






「こっちの計画を優先しろって?」
 眉間を指で押さえながら伊作が嘆息する。
「っとに人使いか荒いんだから…いくらなんでも急ぎすぎだろ」
「沈む船には付き合うな、ってさ」
「言うだろうとは思ってたけど、実際言われると堪えるね。で、承諾したの」
「考えさせてくれって行ってきた。返答期限は明日」 仙蔵の般若顔を想像して伊作はふるりと背中を震わせる。焙烙火矢がとんで来そうだ。
 自分なら文句を言いつつ承諾する事案だが留三郎はそうもいかない。
「だから駆け落ちする方が早いって言ったじゃないか」
「煩せぇな」
 睨んでくる表情に余裕の無さがありありと見えて伊作は思わず苦笑する。
「なまえに見せてやりたいよ本当。で、仙蔵も風魔で間違いなさそうって意見だったんだね?」
「ああ。錫高野って名前だけじゃなく、あの札を配ってた行者も風魔の変装の十八番だ。札の中身も長次に鑑定してもらったんだが、黒と見てよさそうだ」
「なんて?」
 留三郎は懐から札を取り出すと、赤い呪い文字を挟んだ上段と下段の細かな文字列をそれぞれ指差した。
「風の空中に一切障碍無きが如く、三毒を滅し三界を出でん。真ん中のは破魔の意味の梵字だそうだ」
「風の破魔…なるほど」
 頷いた伊作も視線を落としたきりの留三郎も表情は硬い。
 忍術学園ほどではなくとも、忍びとして子供を養成するための機関を設けている所だ。集団の規模は漠然と想像がつく。
 戦ともなれば大がかりだろう。タソガレドキ強しといえども忍村はとりわけ大きな場所ではない。ましてすぐ戦闘に出られる者となれば百余名ほどに限られる。もし風魔が里全体…女子供に至るまで…を戦力となしえるなら、数の差だけで既に利は向こうのものだ。細工師として接触してきた錫高野佐吉のように、今現在ですらどこにどう侵入されているかわからない。
 十日の期限で首謀者を突き止めるまでするのは難しい。最良の働きをするなら、敵の根源たる里の位置を正確に把握することだろう。
「一夜攻めを使うのにうってつけじゃないか。僕なら絶対そうする」
「なまえが出ると思うか」
「命じられればやるね」
 即答した伊作は数刻前の、青さを通り越したまっ白な顔で立っていた彼女を思い出したが、会話の内容は口にしなかった。
 留三郎はなおも口を引き結んでうつむいていたが、ややして体じゅうがしぼむような長い息を吐いて首を垂れた。
「駆け落ちなんてしないって言ったけど、正直揺らぐな」
「…留」
「さっき組頭に会った。…風魔が獲物でいいのかと聞かれた」
 どういう意味かと、考えることを停止してきた言葉。
 『精々頑張るんだね』というのは「何を」頑張れという意味なのだろう。
「俺が風魔の情報を銜えてこれば、なまえの手で一夜攻めは行われる。忍組は風魔をはさんでタソガレドキの城と争うことになる。先に甚兵衛をやってしまえばこちらの目的もかなうし、風魔も手をひくんじゃ…」
 その先を言う前に二人はぎくりと戸口を振り返る。
 こわばった表情の、なまえが立っていた。