20


 姫の機嫌や体調が良くない。
 妊娠ではないかという古参女房の問いに、まだはっきり断言できませんとなまえは茶を濁してきた。
 可能性として無くはない。が、明確な判断を下すにはたぶん少々早い。
 正直なところ産科診療というのは、薬師であるなまえにとっても未知の分野である。理論は知っていても臨床経験に乏しい。
(どうしよう…)
 ちいさい姫たちを取り上げた産婆は、数年前に鬼籍に入ったと言う。
 典医の誰かにでも新たに信頼できる産婆を紹介してもらえば良いのだが、もともと個人的な繋がりをもたないために、こんな時誰に声をかけるべきか非常に悩む。
 貸し借りというわけではないが、交流を持ったところから、何かのきっかけで城攻めのからくりに話題がうつるのはまずい。文字通りの腹はおろか腸まで探られそうだ。
(序列もまったくない訳じゃなさそうだし?)
 かつて雑渡は「典医はみな賂という鼻薬に弱い」ということを言っていたが、現在のタソガレドキにその気配は薄い。派閥争いが激化した結果主だった者たちが皆失脚した経緯から、学術以外に興味を持たぬものだけが残ったのだと言う。その話を聞かせてくれた人物を思いうかべ、なまえは腕を組んだ。
(伊作なら私より人脈あるよね)
 何にしても一人で思い悩むよりはいいだろうと、なまえは伊作の部屋を訪ねることにした。


「伊作、入ってい…」
「うわあああ」
 不在ということは滅多にない。
 案の定在室はしていたらしく、悲鳴と、どさどさという音のあとに、よれよれになった伊作が戸を開いた。
「ちょ、何、どうしたの…?」
 珍しい事にまばらに髭まで伸びている。薄い方だと言っていたから、いったい何日あたらずにいたのだろうか。背後に広がる書物と道具の山…というより海が激務を物語っていた。
「ちょっと忙しくて、あれこれ四日間」
 なんとなく焦点の合わない笑顔に、なまえは心からの同情をこめて呟いた。
「…それは大変ね…」
「で、今色々崩れて筆がみつからない。提出今日の夕方」
 そりゃあ机も何も埋もれて見えないような状況では仕方ない。
 たった四日でこうも様相を変えるのかという室内を目にして、胸いっぱいの同情心の半分は、伊作本人ではなく長年同室で生活してきた人物に向けられている。
「じゃあ私探すね。ついでに片付けるから」
「いいの?」
「さすがにこれ見て自分の用事を優先させるほど、人で無しじゃないから…」
 半死半生を体現した伊作いわく、仕事の方はどうにか一段落したらしい。あとは文書整理と提出だけだと言った。
「伊作は寝てて」
 無理やり床面を露出させた一角に、山からひっぱりだした布団を敷く。のろのろと移動した伊作がかろうじて呟く。
「場所、とか」
「覚えてる。配置変えてないでしょう?書類関係は机に積んでおくし、わからないものはそこにまとめるから」
「ありがとう、ほんと、たすかる…」
 ぷつりと糸が切れるように眠りに落ちた伊作を見下ろして、なまえは深々と溜息をついた。
(研究もせっつかれてるだろうし…)
 仕掛けられない猛毒について、成功したのは風向き云々の偶然の為と誤魔化し、どのような状況下でも扱えるように改良を研究する。その傍らで従軍医療班の組織編成を立案し、他の典医に働きかけて後進育成の計画を準備し、間を縫うように典医頭の回診に従う。
 来たばかりのころも多忙な毎日だったが、実質なまえが奥方付となった今はさらに厳しいらしい。形骸化しても肩書きは未だに伊作の助手だ。誤魔化さないといけない事情を抱える身としては、有難さより申し訳なさが勝る。
(これはこっち、この本は…)
 詰まれた数冊を手にとった時、はらりと紙片がまいおちた。
「…何これ?」
 手にとって違和感に眉を寄せる。手の平を二つ並べたほどの紙に、黒と朱で記号のような線が踊っている。…呪い札だ。
(なんでこんな所に)
 うねる墨痕が文字なのか装飾なのかさえ不明である。巷で売られるくらいだから呪い札自体珍しくもないが、伊作がその手のものを仕事場に紛れ込ませるとも思えない。本を貸した誰かが挟んでいたのだろうか。
(栞だったのかな…落としちゃってまずかったかも)
「後で聞こっと」
「何を?」
「っ…!」
 声にならない悲鳴と共に持っていた資料が大きく傾く。しまった、と屈み込む前に背後から伸びた一対の手が崩れかけた資料を支えた。
「凄い事になってるな」
「もう」
 仰ぎ見て、脅かさないでと軽く睨めば、快活に笑って留三郎は資料を持ち上げた。腕の間におさまったかたちでなまえは再度その束をかかえなおした。
「どうせ伊作は寝てるんだろ。少し話せるか」
「片づけながらでよければ大丈夫よ」
 慣れた様子で荷物を集めるのを見て、さすがに伊作と数年単位で寝起きしていただけあると、なまえは妙な感慨を覚えた。この状況に動揺しないのは、凄い。
「奥勤めも結構忙しいって聞いたけど、いいのか、こっちにいて」
「今日は大丈夫。私も色々勉強不足で…伊作に相談しようと思ってきたんだけど、それどころじゃなさそうだわ」
「はは。まあ、伊作も徹夜は慣れてるから、気にしなくても良いと思うが
「これが?」
「こんなの全然。序の口」
 顔を見合わせて小声で笑って、留三郎はあたりを見回した。
「しかし相変わらず薬草臭いなぁ…」
「そう?」
 作業に戻って、なまえは薬種を丁寧に箱にしまう。たぶん何かの拍子に箱が開いて雪崩れてしまったのだろう。伊作に悪意があるわけもないのだが、貴重なものがぞんざいな扱いをうけているとやるせない気持ちになる。虫を数年薬草酒に漬け込んだもの。希少な茸をつぶしたもの、獣の腑。見た目はだいぶおどろおどろしいが、加工する手間や得られる効力を知っていると愛着さえ湧いてくる。
 本を拾い集める留三郎が手を止めずに不審気な声を出した
「…まさかとは思うけど気になんないのか?おまえ」
「うーん、匂いを感じないわけじゃないけど…やっぱり慣れなのかな?私もよく触ってるし」
「その割になまえは薬臭くないよな」
「嘘。そんなことないってば」
「いや、さっきも髪とか、やさしい匂いが」
「留三郎!」
 思わず遮ると、妙な沈黙が落ちた。自分の匂いなんて任務中以外特に気にしたこともなかったが、そんなふうに嗅がれているとなると恥ずかしい。匂い?それを言うなら留三郎のにおいというものも確かにあって、背中をむけている今でもうっすらと感じられる。さっき、後ろから腕をまわされた時にも強く感じたものが。
 頬が火照るのを見られない位置でよかった。
 気まずい空気の中、留三郎が突然「そういえば!」と声を上げた。
「そういえば…その…、あ、ああ、今日下っ端同士で演習やってたら盛り上がってさ。久々に組頭が見に来てたよ」
「組頭が?」
 何の気なしに相槌を打って、ああ散歩に出たあたりのことかなと思ったら、その直前の会話が再生されてなまえは小さくかぶりを振った。
 今は、考えたくない。
「…なにか、言われた?」
「いや、本当にただ見に来ただけだったから。一度組頭にも手合わせしていただきたいんだけどな」
 口惜しそうな様子に安堵してなまえは笑顔を浮かべた。
「そう」
 相変わらずのうそつきだ、と自分を内心評価する。
「留三郎」
「ん?」
 振り向いて立ち上がる。
 こちらを向いた広い背中に、ぺたりと両手をあててみる。
「なんだよ」
「ううん」
 においも、少し照れたような低い声も、この背骨の感触も。
「なんでもない」
 …大好き、と口にできたらいいのに。


 それからしばらく二人で色々な物を動かしたり集めたりして、日が傾きはじめる前に部屋の中はきちんと「心地よく居住できる」空間機能をとりもどした。なまえは明日の午前中に再び来ると書置きを残し、先に部屋を出ていった。
 残された留三郎の背後から声がかかる。
「何、あの桃色の空気。僕すっごい居づらいんだけど」
 眠気のかけらもなく、にこにこと笑いながらこちらを見ている伊作に、留三郎は引きつるような笑顔を返した。
「…よく眠れたみたいだな?」
「うん。ありがとう。おかげさまで、タヌキ寝入りも馬鹿馬鹿しくなってしっかり二度寝させてもらったよ」
 無言で震える留三郎にかまわず、うわあすっかり綺麗にしてもらっちゃってと呟くと、伊作はさっとあたりに視線を走らせた。積まれた本の一角、一番上の紙片にとまる。苦くなる口調。
「言っとくけど疲れてたのは本当だよ」
 呪札を手にとって留三郎は目を細めた。
「これか、仙蔵がよこしたやつって」
「なまえがあまり出所を詮索しないでくれるといいんだけど」
 赤くなる光を受けながら、留三郎と伊作はそろって溜息をついた。
「…留さあ。あの話どうなってるの。なまえの縁談とか役職とか」
 答えない留三郎に、伊作はかまわず話し続ける。
「僕は、君がこの一年凄い頑張ったのを知ってるし、結果出してるのもわかる。たぶん本人言わないだろうけどなまえもさ、叶うならって期待は持ってるんじゃないかな。最近暇だからすぐに昇進はできないだろうけど、ちょっと戦でもなったらね、夢じゃないと思うよ。でもさ」
 そこで伊作は言葉を切って、嫌なものを無理やり飲み下すような顔をした。
「…僕たちはそういうこと、しちゃいけないだろう」
「お前が言うのか」
 意外に平坦な声で留三郎は答えた。
「何もせずにいたら奪われるだけだってけしかけたくせに」
「だからってそれとなまえの縁談は」
 留三郎が口を開きかけた時、近づいて来る足音に二人は沈黙した。伊作が戸口を開く。
「御用ですか」
「善法寺、組頭がお呼びだ。なまえは来てるか?…なんだ、お前もいたのか」
 伊作の後ろから出てきた留三郎に顔を向けて、高坂は肩をすくめた。
「食満も一緒だぞ。…とうとう手を出したのか。避妊には気をつけろよ」
「はあ!?」
「お前となまえが同時に呼び出されるんならそういうお叱りかと思ったんだが、違うのか?」
「違います!」 
 真っ赤になった留三郎を鼻で笑って高坂は半眼になる。
「純情ぶるような経歴でもないだろうに」
「大事にしたいんです」
 言い切った留三郎に、今度は何も言わずに高坂は背を向けた。










「聞きづらい事だがね。君たちが、どこかの城や組織の斥候じゃないかと疑っているんだよ」
 聞きづらいと言いつつあっさり切り出した雑渡に、なまえも伊作も留三郎も一様に目を丸くした。普段となんら変わらない雑渡の様子にも、問われた内容にも。
「冗談ならもうちょっとマシなこと言ってくださいよ」
「うんうん。で、やってる?」
 伊作のまぜっかえしを受け流して再度質問を口にしたことで、本気であることを理解し、三人はそれぞれに首を振る。そりゃそうだと目を細めて雑渡は竹煙管を手に取った。刻み煙草を丸めて詰めながら誰の目も見ずに語る。
「斥候だとしても認めるわけがないな。口ではなんとでも言えるものね」
「組頭。何故そのような嫌疑がかかったのですか」
 おそるおそる挙手したなまえに雑渡はちらりと視線を向けた。
「口外は禁止。漏れた場合はこの三人のうちのいずれかが斥候とみなして、私が『全員』処分する。それでも聞くかい」
 息を呑んだなまえに変わって留三郎が頷いた。
「お願いします」
「…結構。簡潔にいえば、殿が忍組の再編を計画されているからだ。誰か吹き込んだ者がいる。そこまでするからには新たな戦力も確保されているのだろう」
「戦になるという事ですか」打てば響く早さで留三郎が尋ねた。
 僅かな沈黙のあとで雑渡は頷く。留三郎の顔に一瞬走った喜色には言及しない。
「戦にならないに越したことはないが、禍根を絶たねばならないからね」
 それまで黙っていたなまえが口をひらいた。
「どうしてそれで私たちに嫌疑が?」
「なまえ」
 青ざめた顔でなまえはまっすぐ雑渡を見つめる。気遣う伊作の声は聞こえているのだろうか。
「新入りだから疑われるというなら甘んじて受けます。でもそれならここに、他に呼ばれる方だっているでしょう。なぜ私たちだけなのですか」
「理由を聞いたところで結果は変わらないよ」
「そうですか」
 回答を避けても、なまえは視線をそらさなかった。雑渡は内心大きな溜息をつく。
 雑渡と同居しているなまえが斥候である可能性は万が一どころでなく低いし、よしんばそうであっても、それほど人の目を欺くことに長けているなら早々と足跡を残すような真似はしない。怪しいのは伊作と留三郎。にも関わらずあえて三名で呼び出したのは、牽制だ。
 他に取れる駒がなかったから引き入れたものの、一年前の逗留はそれ自体が怪しかった。経歴と身辺を叩いても出てくる埃はなかったが、「強い軍に憧れて」という留三郎の言は信じるに足らない。
 だが、彼らが黒かと言われればそれもまた怪しいものだ。
 まず伊作は「疑われる条件」が揃いすぎている。忍組との繋がりを保ちつつ、城主と秘密裏に連絡をとる機会もある。医師でありながら忍者であり…槍玉にあがるとわかっていて事をおこすのは愚策だろう。
 留三郎を間者と仮定すると、なまえとの縁組のために努力しているという今の基本姿勢から疑うことになる。
(疑うべきだが)
 気が重い、と言うわけだ。
 いずれ裏切る予定であれば、組内での足場固めに並行してなまえの説得を行うべきだ。そうでなければ彼女を手に入れようと努力する意味はなくなってしまう。
 逆にその執心自体が演技であれば、全身全霊で潰しにかかる予定だが…。
(君達はどう出る)
 娘への苦慮を一度飲み込んで、雑渡は二人の青年に向き直った。
「私は君達を疑っている。潔白であるなら言葉ではなく、証を立ててもらおうか」
「…と、言われますと?」
「手引した者もしくは組織の構成員。どちらか、相手方の情報に繋がる者を捕らえろ。期限は十日」
「十日」
 繰り返して留三郎は目をすがめた。
「成功した折には昇進を検討していただけますか」
 ぎらりと底光りする眼差しを、信じられたらいいと、雑渡も思ってはいるのだ。
 青年の傍らで震えるほど固く両手を握りしめた娘のために。
「無論。その時は私の後継に君を指名しよう」
 平伏した三名を苦い思いで見下ろす。
 …だがしかし、この手の予想はあまりはずれた試しがないのだ。







 長屋に戻ってからも、留三郎も伊作も無言だった。食事の支度をして黙々と啜り込んで、ようやく伊作が重い口を開く。
「…心当たり、っていうか。仙蔵の心配がどんぴしゃじゃん」
「札売の連中が妙に増えたって言ってたよな。やっぱりどこかの忍び集団か」
 留三郎はやれやれと肩をすくめる。
「表で動いてる奴が目に付くぐらいだから、後ろの控えも含めればかなりの数になる。…それだけいるなら忍組にとって代わるのも不可能じゃないってことか。俺なら絶対喧嘩を売りたくない相手だが」
「そこなんだよね…」
 渋面であぐらに頬杖をついて、伊作は手にした箸をくるくると回す。
「殿の身辺に危害が及んだって話なら、手を組んだっていいんだけどさ。こうなるともう僕たち完全に囮にさせられたよね。忍組だけを潰すってことは怨恨かなあ…でも正直それならもうちょっと状況を選びそうなもんだけど」
「俺ならせめて数年我慢して、組頭の代替わりで緩んだところを叩くな」
「じゃあなにか『今でなければならない理由』があるってこと?」
 二人は揃って顔を見合わせた。
 留三郎が何事か思案する。
「…正直、俺たちの潜入にしても、うまくいきすぎていると思うんだ。なんていうんだろうな…ここまで泳がされた、というか」
「泳がせて様子を見てたけど、余所で怪しい情報も入ったからそろそろ捌こうって腹積もりだろ」
「それならなまえを呼んだ意味は何だ」
「君に対する牽制なんじゃないの」
 ふう、と息を吐いて伊作は留三郎の顔を見た。
「札売り探しの話はともかく、ほんとどうするんだよ留。タソガレドキでなまえと身を固めようって思ってるんなら、僕も文次郎も断固反対するからな。…君と敵対なんてまっぴらだ」
 吐き捨てるように言った伊作に、留三郎はどんな表情をしていいのかわからなくなる。
 仲間。
 ただの仕事の関係者なら、裏切ったこともあるし裏切られたこともある。良い気持ちはしないがそんなものだと割り切ることは難しくなかった。
 でも『この仕事』は違う。
 学園を卒業してからそれぞれの道に進んだ友人たちが、奇妙な縁で再会した。まったくの偶然なら喜べたけれど、共通項はあの『タソガレドキの一夜攻』だった。最初に訪ねた時も、伊作は同じような口調で言った。
(「功名心で手を出そうとしているなら止めた方がいい。失うものの方が大きくなる」)
 たぶん、伊作はずっと予想していたのだ。
 自分たちを引き合わせた縁の中心になまえがいること、そしていずれ敵対すること。
 伊作は口に出さなかったけれど、研究要員に引き上げられたことや村内で爪弾きになっていたあの状態から「誰が殺戮を実行したのか」、留三郎も気付いていた。
「前にも言ったけど、僕は誰の事も恨んじゃいないし、あの攻撃方法を特別悪い事だとは考えていないよ。人を殺すのが悪い事だというのはわかるけど、それなら刀も鉄砲も憎むべきものさ。学問が発展する限り、今握りつぶしたとしてもいずれ理論は生まれるだろう。それなら僕は研究が進むことを望むよ。だから雑渡さんにあれを渡したんだ」
 一度目を閉じて、伊作は留三郎に強い視線を向けた。
「僕が協力するのは、結果的に傷つけた友人への贖罪のためだ。なまえに対する憎しみなんてないよ。…でも、なまえがあくまでタソガレドキの一員として居続けるなら、文次郎や仙蔵の考えは僕と違うだろう」
「だったらなんで俺にあんな事言ったんだよ」
「君ならなまえを連れて逃げるくらいの事、すると思ったからさ」
 どうしてしないんだ、と言外の問いを受けて、留三郎はがりがりと頭をかいた。
「…たったひとりの家族と、無理やり引き離せないだろう」
「家族って言ったって」
「血縁があろうとなかろうとあいつには父親だ」
「父親?タソガレドキ組頭に有用な駒だろ!?」
 声を荒げた伊作が決まり悪げな顔をする。留三郎は渋面を崩さない。
「組頭の内心なんて知らないさ。でも実際大事にされてる。なまえもあそこが居場所だと思い定めている。…これから崩そうとしてるからって、俺たちが勝手に嘘だと決めつける権利はないだろう」
 言葉を探した伊作は、忌々しげに呟いた。
「…このヘタレ」
「知ってる」
 何度目か知れない溜息をついた伊作に、留三郎は真剣な顔を向けた。
「ひとつ確認するが、俺たちの標的は国主であって忍組じゃないよな?なら仮に俺が『雑渡家の率いる忍組』の後継になったところで計画に問題はないはずだ」
「タソガレドキと現忍組の分断に加担するってこと?それこそ雑渡さんに殺されるよ」
「そこまでは言わない。ただ、計画の延長上でなまえに害を加えるようなら、俺が止める。俺が肯定したのは『タソガレドキへの復讐』だ。昔馴染みとの敵対はまっぴらって言うなら、その言葉をそっくり返してやるさ」
 伊作に話しているが、内容ははっきりと仙蔵や文次郎に向けられたものだ。
 計画に参加しないかと持ちかけられた時、事情を聴いてなお伊作は反対した。それでも折れない友人たちに対する償いとして参加したものの、復讐の故をもたない留三郎はどうするのだろうと心配していたのだが。
(全部抱えるつもりか)
 なまえも、彼女の居場所も、仙蔵と文次郎の復讐劇も。
 成立しないわけではない。とんでもなく困難だろうと予想できるだけだ。
(…留らしいといえば、らしいけどさあ)
 最後の溜息は、もしかしたらできるかもしれないと、はかなすぎる希望を抱いた自分自身に対するものだった。