いい日和になったねえと目を細める父に頷いて、なまえは湯呑を差し出した。中の薬湯がほどよくぬるんで、ゆるゆると湯気を散らしている。少しくせのある甘いにおいに、のどかな春先の空気がいっそう弛緩していくようである。
 一口を飲んだ雑渡がふと小さなため息を落とす。
「…伊作君もせめてこのくらい飲みやすいものを作ればいいのに」
 否定の余地が一片もない台詞になまえは無言で目をそらした。本人に言っても無駄なのは実証済みである。
「殿も同じことを仰ってるんじゃないのかい」
「ええ、まあ…効能は確かですからあまりはっきりとは口にされないようですけれど…」
 良薬は口に苦しと申すからな。
 先日伝え聞いた言葉を真似てみせれば、包帯ごしにわかるくらい破顔する。
「はは、違いない。しかしそんな愚痴を聞かされるくらい、おまえも親密になったのだね」
 タソガレドキ城主黄昏甚兵衛の妻…の、専属医となって半年が過ぎようとしている。同性とはいえ初めはさすがに嫌がられたが、治療により月の巡りに伴っていた重い痛みが和らいでからというもの、とても協力的に診察をさせてくれるようになった。
「はい」
「そうか。ようやく私も安心した」
「今までは心配なさってたんですか?」
「不満かい?…信頼してないわけじゃないんだが、それが親心というものだよ」
 もう、と少し拗ねてみせて、なまえはころころと笑った。
「芳姫と仲良くやっているのなら殿に妙な色気心を持たれることもないだろうし」
「まだ仰るんですか、そんなこと」
 なまえが呆れて溜息をついても気にした様子もなく、むしろ嬉しそうに雑渡は頷く。
「娘を持った醍醐味だねえ。寄ってくる虫の駆除」
「組頭が心配されただけで、まったく寄られてませんよ。だいたい駆除って…」
「ちょっと駆逐したくらいで逃げ出すような輩はふるいにかける価値もないさ」
 にべもなく言って空になった湯呑を返す。
 受け取ったなまえはまた溜息をついた。
「私、わりと年季の入った行かず後家なんですけれどね」
「じゃあそろそろ決めようか」
 え、と顔をあげたなまえから視線をそらして雑渡は庭に目をやった。
「このところ危険な任務も少ないし、祝言をあげても差し障りはないだろう。いつごろにしようか」
「え?ちょ、ちょっと待ってください。時期よりもまず、その…」
「陣左か尊くん」
 短く告げられた名前になまえはあげかけた腰をおろして黙り込んだ。
 雑渡は笑いもしない。
 冗談ではないことは明らかだった。
「高坂さんにはお相手が…滝川さんがいらっしゃるでしょう」
「つきあいはあっても所帯は持たないと確認済みだ。尊くんは見ての通り。二人とも何の差し障りもない」
「…、そうですか」
 うつむいた娘を一瞥し、雑渡は立ち上がる。ちょっと出かけて来るよと声をかけたが、返事はなかった。



 任務が激減して久しいが、もちろん全くなくなったわけではない。他国の動向を探る必要は充分すぎるほどあったし、いつまた臨戦状態となるかわからない。表立った動きこそないものの、忍組はあいかわらず鍛錬に余念がない。半士半農の者が大半だから城の武士たちほど大掛かりな演習にはならないが。
 詰所の庭先ではそうやって鍛錬にいそしむ者たちが数名いるのが常だったが、夜の裏山に比べれば閑散としたものである。
 それが珍しくわあわあと賑やかな喧騒が聞こえてきたものだから、雑渡の足も自然とそちらに向かっていった。
「いいぞいけ!そこだ!」
「…よし、よし…かわせ!」
「あ、ばか、弥三郎!っああっ!…あー…」
 天を仰いで嘆息する一人の肩を叩くと、彼は興奮した面持ちで「組頭!」と叫んだ。
「凄いんですよあいつ、留三郎!もう一人で十人抜きっすよ」
「ほう」
「道具ありで…や、もちろん怪我させないのが前提ですけど!相手を行動不能にしたら勝ちです」
 練習で体を損なわれてはかなわない。
 細めた眼差しに両手を降りながら、昨年入隊した青年は気を落ち着けるように息を吐いた。
「本当、凄い奴ですよね。…俺もここに来るまでに、色んな人見てきましたけど。強いし、人当たりいいし、面倒な事も嫌がらないし」
 賛辞に対する反射で何か皮肉のひとつも言ってみようかと思ったがやめた。実際雑渡からみても食満留三郎という男はその通りの人間だった。
(…あのヒヨコがねえ)
 突然の採用への不信感から冷ややかに対応されても、粘り強く信頼を勝ち取った。入組当初は何をやっても罵声ばかり浴びていたのに、あっというまに周囲の技能に追いつき、抜いていった。
 感嘆する若者は理解していないのかもしれない。食満留三郎を評価する上で最も特異なのは「努力」に対するひたむきさと、それが十割中十割結果に繋がるという合理性だ。現在の強さは時間さえかければある意味誰でも望みうる結果だが、過程はおよそ凡人のそれとは違う。
「…どこかで言われたような…」
「え?」
「いや、こっちの話」
 次の相手を選ぶのか、手合わせした二人を囲んでいた人垣が動いた。
「組頭」
 こちらに気づいた留三郎が頭をさげた。
 驚いて動揺するでも、おもねって笑うでもない、ごく静かな面持ちだった。




「…おや、」
 今日も今日とて報告書の作成に追われていた山本は筆をおいて顔を上げた。
「珍しいですね、休日出勤ですか」
「ううん茶飲み話に」
 ほら、と饅頭を掲げてみせる上司に溜息をつきつつ、山本は大人しく茶の用意を始めた。雑渡はあたりまえのように座布団を引っ張り出して寝転がる。文句を言おうかと一瞬悩んだが口を引き結ぶ。
「なまえに縁組の話をしてきた」
「ようやくですか」
「驚かないな?」
「あの子の年齢を考えたら遅いくらいですよ」
 しまい損ねた火鉢に炭を入れて湯を沸かす。じりじりと赤く光る炭を箸でつまむと、カツンと澄んだ音がした。
「しかし、まだ少し早いですね」
 雑渡は答えない。
 …経験上、このだんまりはよくない理由の前兆だ。さてどうしたものかと考えたところで、雑渡が起き上がった。
「陣左と尊くん。どちらがいいと思う」
 投げかけられた問いに一瞬山本は沈黙した。
「候補は、それだけですか」
「ああ」
 いつになく真摯な様子で雑渡は頷いた。
 目を眇めて、茶器に湯をそそぎいれながら、山本は言葉を探す。
「…上と渡り合うなら高坂。波風をたてずにやるなら諸泉。どちらを推すかと言われれば私も計りかねます。どちらもうまくやれるとは思いますが」
「思うが、何だ?」
「もうしばらく待つことはできませんか」
 無言の返答に山本は無理を悟る。待てるなら今しばらく待ちたいというのが雑渡の本音だったのだろう。それが叶わないから、珍しくやってきたりしたのだ。
 百名あまりの組員から誰を頭に選ぶかと言われれば真っ先に上がるのが先の二人だ。ついで山本があげるのは、食満留三郎。人物評も訓練における実力も共に申し分ない。若い世代の求心力もある。惜しむらくは入組以来に任務が激減しているため、主立った功績が無いことだ。
 組頭、小頭になれば前線に出る機会は今以上に減る。そうなると今後の功働きは見込めない。
 昇進してすぐは構わないが、何か問題が起こった時、それまでの功績という足場がなければ権威はあっというまに失墜してしまう。
 雑渡が忍組を固く纏めあげてこられたのも組頭となってからの采配のみならず、それまでに与えられてきた任務の成功数があってこそだ。まして前組頭から引き継いだ経緯があれば、彼に対する信奉はなおのこと著しい。
「なまえは承諾しましたか」
 しばらく顔をみない彼女の、控えめな物腰を思い出す。父に逆らうことはしないだろう。
「…食満はどうするか…」
 人並はずれた進歩と、それを支えた努力の源を山本は知っている。当初はするだけ無駄になるだろうとタカをくくっていたのに、まさかこんなに成長するとは思ってもみなかった。
「駆け落ちでもされるなら、まぁそれまでさ」
「何言ってるんですか」
 いつになく投げやりな口調に目を剥くと、困惑しきった雑渡の顔があった。
「…困ったよ陣内、迷っているんだ」
 他人であれば仕方ないから気の済むまで悩めと言えたのだが。
 大きな責任を負った男は、長い沈黙をはさみ、ようやくその理由を口にした。
「それでも早く決めなければならない。…どうも殿はもうひとつ忍組を作ろうとされているらしいから」
 がたんと音をたてて文机が倒れた。
 染み広がる墨汁に目もくれず、棒立ちになった山本は雑渡を凝視する。
「何と言ったんだ、昆奈門」
 一つの国に、二つの組織。
 そりが合わないのは先刻承知で、だから侍組との反目は当然と折り合いをつけてきた。だが同じ職に二つの組は並び立たない。片方が、消えなければ。争いは必至だ。
 殿がつくるもう一つの…つまりその時賊軍になるのはこちらで。
「何と言ったんだ」
 掠れた声で呟いて、山本は膝をついた。忍の理性は冷静に対策を考えはじめていたが、現実感を取り戻すにはまだ少しかかりそうだった。