18


 かねてより嫡男の無いのが悩みであった黄昏甚兵衛は当初新しい側室を迎えるつもりであった。
 子種がないわけではない。正室側室を問わず既に数名の女児がいる。しかし加齢とともに子を授かる率が低くなっていくことも事実で、焦りは年々増すばかりだ。
 …健やかなる嫡男を。
 武門と生まれたからには義務のような『使命』である。
 どちらかといえば頑強とは言い難い黄昏甚兵衛には、増して強い願望だった。いくつの国を攻め滅ぼしても、南蛮渡来の財宝に身をうずめても、子を授かることばかりはどうしようもない。できることといえば神仏にすがるくらいだ。
 しかし…いずれ生まれてくると仮定して…その子が強い子であるように、母親を選ぶことはできる。そうして家柄も身分も関係なく、ただ強い者をさがしたとき、まっさきに目に付いたのが雑渡昆奈門だった。
 全身に重度の火傷を負ってなお生還した奇跡の男。障害をもってさえ忍組随一をうたわれる男。
 影としてつき従わせているから、その実力は甚兵衛自身もよくよく知っている。
 もちろん忍としての教育なり訓練の結果ではあるのだろう。が、強靭な生命力は少なくともタソガレドキという城の一族には持ち得なかったものだ。欲しい、あの血が欲しいと甚兵衛は思ったが、残念なことに彼には親類縁者がいなかった。娘の一人を降嫁することも検討はしたものの、皆雑渡の異相に怯えてとてもではいが子供など望めるような状態ではなかった。
 雑渡昆奈門が養女を迎えたのはそんな折のことである。
 半士半農とはいえ、組頭であれば表向きの地位は一家臣に匹敵する。子がいないことを憂うのは城主だけではない、家の名を冠する者は皆等しくそうだ。
 実子は望まぬのか、と尋ねれば男は、
「忍として申し上げれば、秘伝を託す器は血よりも能力で選ぶものでございます。なまえは娘として迎えるに充分な器とみなしました。組を背負う役目を全うするならば、先の不確定な幼子に名を残すよりも、今の功働き優れた者を迎えるのが務めと考えております」 
 と述べた。
 これに聞いた甚兵衛は、その意に頷くと同時に、「なまえ」という娘にがぜん興味を抱いた。
 名実ともに最強の忍とよばれる男の、「娘として充分な器」というものを見てみたくなったのだ。
(忍の女といえば…)
 連想するのは成熟した色香の漂う美女である。
 父の命じるままにどのような任務も拒まない、ある意味男の願望を体現したような女を、甚兵衛は思い浮かべた。そしてその欲望のままにごく軽い気持ちで命じたのだ。
「のう昆奈門。そなたの娘、これへ連れてまいれ」
「これはまた…そのようなお戯れを」
 穏やかな返答ではあったが、甚兵衛は笑い返すことができなかった。
 目の前の男が突如己の首を切り浅く様な、得体の知れない不安がにわかに襲ってきたためである。
(逆らう理由なぞ無い…)
 理性は呟けど本能が断固として拒否をする。甚兵衛とてそのような葛藤をいくつも乗り越えてきた経験の持ち主だったが、このときばかりはまったくの無力だった。恐怖の大きすぎるがゆえに。
「奥方様を大事になさいませ。妻のいない私が言えたものでもありませんが」
 ふふ、と男が笑うと、のしかかっていた影が重みを無くした。あわせて笑顔を浮かべながら甚兵衛の背中をひやりとしたものが通り抜ける。
(飼い繋いでおかねばならぬ) 
 手元にあればどれほど心強いかわからない。反面、敵に回してはならない男。 
「しかし御世継ぎの件におかれましては、殿は私ほど悠長に構えてもおられますまい」
「うむ」
 ことさら泰然と頷いたうしろで、怯えたこの心を、この男は見抜いているのか。…隠し事を。
「典医とも話したのだが、肝心の芳姫が診察を嫌がってな。見て確かめねばわかるまいと言い聞かせても…」
 話相手である男に抱いた恐怖を忘れ、甚兵衛は眉を寄せた。
 正室である芳姫の気位の高さは天下一品だ。
 本人が自分の行いのすべてにきちんとした人間で、なおかつ他人に文句を言わせない家柄の出身であるから、その気性も美点だと甚兵衛は思っている。常にきりりと引き締まった隙の無い面持ちは美しいものであったし、城主の妻として充分な知性をもっている。これで子供さえ授かれれば心おきなく愛せるというものだが。
 ともあれ、その気位の高さゆえに、芳姫は「夫以外の男に体をさらす」という行為に多大な嫌悪を持っている。
 見事な貞操観念であるが診察がかなわなくてはどうしようもない。
 典医たちからは、側仕えの女たちにそれとなくこうしてみてはああしてみてはと言わせるのが精一杯。甚兵衛自身が説得を試みたこともあるが、涙ながらに出来ませぬと言われればそれ以上叱ることもできなかった。結局のところ正室には甘いのだ。…矜持をへしおられた姫がどれほど怒り狂うか想像するだけでも恐ろしいというのも大きな理由だが。
「あの若者…善法寺と申したか」
「はい。花街で女の病を診ております。腕は確かかと」
「そなたが言うならば間違いなかろう。しかし男では駄目だ」
 続けて言わんとすることを察したらしく、雑渡が口をつぐんだ。長い間側に控えさせてきたがこのような様子を見るのは随分と久しい。
 ほくそ笑むような気持ちを含んで甚兵衛はその言葉を音にする。
「そなたの娘、連れてまいれ」
 先ほどの戯れとは全く別の事由であるがゆえに、簡単には断れぬ命令だった。というより、断る理由がない。
(それでも厭うか)
 化け物のような男が掌中の珠と慈しむ娘。
 手元に置くことがかなえば、化け物を躍らせる餌になる。
 ―――じっとりと重い沈黙が流れた。
「…娘に、奥方様を正しく診る力量があるかどうか、私には判断がつきかねます」
「ならば善法寺に確かめておこう」
「御意に」
「下がれ」
 動揺など毛ほども見せずに立ち去った男の姿に、甚兵衛は機嫌よく扇子を開いた。
 典医は城(こちら)のものだ。
 雑渡の送り込んだ手先であったとしても人事権は完全にこちらにある。立ち入る隙はない。善法寺が断るというのなら暇を取らせて別の医師に一筆書かせよう。
(狗は繋いでおかねば)
 くっくっと笑う甚兵衛の部屋に遠慮がちな声が割って入った。
「殿、面会を求める者がおります」
「何」
 家来が主にまみえることは「謁見」だ。それでさえ気軽にできる者は少ないというのに、一国の主に「面会」を求めるにあたっては踏まねばならぬ手順がさらにうんざりするほどある。少なくとも、こんな風に突然、というのはありえない。
 この時点で一蹴することもできたのだがこの時の甚兵衛は機嫌が良かった。
「何者じゃ」
「それが…」
 口籠った侍従に目を細め、甚兵衛は「構わぬ」と鷹揚に頷いた。
「儂に有益と考えて引き入れたのだろう。よい。入れ」
「ありがとうございます」
 にっこりと笑った侍従の様子に違和感を感じるも、それがなんだかわからない。が、その違和感に目をつぶってはならないと甚兵衛の武将としての勘が告げた。瞬時に太刀の鯉口を切って抜刀の構えをとる。
「何者じゃ」
 繰り返された言葉に、侍従のふりをした男は床に両手をつき、叩頭した。
「この者の姿を借りて御前にまかり越しました事、まこと申し訳ございませぬ。御方様を害するようなつもりは一切ありませぬゆえ、しばし近くにお耳を御貸しくださいませ」
「信じられると思うてか」
「御疑いなればその太刀、この首にあててお聞きいただいても結構です」
 しばらく男の顔を凝視していた甚兵衛だったが、ふと息をつくと抜きかけた太刀を鞘に戻した。
「よろしいのですか」
「忍びの類だろう。貴様が本心からこの命を狙っていたなら、もっと早くに取られているだろうよ。うちの狗どもに嗅ぎ付かれんうちに逃げねばなるまい」
「はい。縄張りには少々煩いですから、どうぞ内密に。…御方様こそ驚かれぬご様子ですな」
「思う所があったからな。とはいえ、口にだしてもおらぬのに、貴様の方から飛び込んでくるとはどのようなからくりじゃ?」
「我らは風で御座いますゆえ」
 答えにならぬ言葉だったが、男はどことなく誇らしそうだった。
 最強と呼ばれる忍組の目をすりぬけてくるのは、なるほど風か何かのわざだろう。
「お呼びいただければ参じましょう。煙でも乗せていただければ、合図にいたします」
 視線が示した煙草盆は先日作らせたばかりの特注品だ。
 銘は確か…
「錫高野」
「はい」
 にこりと返事をした男に、甚兵衛は目を細めた。
「…この国の狗は火をまとった狼だ。煙などその気になれば一呑みぞ」
「御心配かたじけのう存じます。ですが」
 黒々とした瞳が一瞬、銀に光ったように見えた。
「炎に変ずるも、吹き消すも…火を操るのが風でございます」





 …黄昏甚兵衛が善法寺伊作を呼び出し、なまえという娘を城内へ呼び込むことによって、事実上長らく不可侵となっていた忍組の人事に介入したのはこの数日後であった。
 そしてさらに月日が過ぎ、周辺諸国に対し当初すさまじい勢いを見せたタソガレドキの侵攻が、ある時点を境にぴたりと静まった。
 何が契機となったのかはまったくの謎であり、次は我が方かと恐れ戦いていた諸国の重鎮たちは一様に首をひねったが、真相というべきものはなにひとつ耳に入ってこなかった。旅がてら、情報を集める草の者たちがタソガレドキを訪れることも常だったが、どれほど噂や伝聞を拾っても、市井の民には侵攻の停止はおろかそもそもあの謎の一夜攻めがあったことすら知らないものがほとんどだった。


 ともあれ現在、侵攻を休止したタソガレドキと猛虎の闘争心を煽らぬよう懸命な諸国との間では、戦の気配のない小康状態が続いている。水面下を泳ぎ回る影たちですら、久方ぶりの凪を体感していた。