「何の用かな」
 泰然と笑う男と、身長はさほど変わらないのだが、どうも数段高いところから見下ろされているようか気がする。地位や年功のみならず、生来の資質の類なのだろう。これまで他の誰に対してもここまで無意識に身構えるような事はなかった。
 退きそうになるのをどうにかこらえながら留三郎はなるべく平静に答えた。
「なまえに会いに来ました」
「何の用だい」
 同じ言葉を繰り返す男は純粋に面白がっているのか、それとも獲物をなぶっているのか。
「個人的に交流を計りたいと思いまして」
「君が女性なら喜んで歓迎するんだけどね」
「では同僚として親交を深めに来ました」
「気の合いそうな若者なら他にいるだろう」
 取り付く島もない。
「…組頭、少々自分にお時間を頂けませんか」
「いいよ。ゆっくり話そうじゃないか」
「なぜ俺では会えないんですか」
 はたから見たらなんの密命かと思うだろう。雑渡はともかく留三郎はずいぶん気を張っている。
「年頃の娘に悪い虫がつかないか心配でね。君は真面目に働いてくれてるけど、仕事ぶりと個人的評価は別なんだ」
 いろいろ心当たりあるんじゃない?と首をかしげられて留三郎は切り札を出す。
「そうやって身辺を管理してきた結果が今の『隔離』になったのでは?」
「うちの娘の事をいっているなら聞き捨てならないな。臣下として、殿の御命令には逆らえないのは道理だろう」
「だとしても、それが『栄転』ではなく『隔離』に見えるような状況は問題でしょう」
「それで?君の言うとおりあれが隔離であっても、今のなまえはそこで遺憾なく能力を発揮できている。人間関係も円滑だ。君が口をはさむような不都合でもあるのかい」
「組頭が典医殿に渋ったのと同じ理由です」
 伊作の名前が暗に上がったところでようく張り付いていた笑顔が消えた。
 一気に増した重圧に留三郎のこめかみを汗が伝う。
「…私はあの子の親として、行き先をあれこれと思い悩む権限がある。しかし君は単なる『知人』だ」
 まったくその通りだ。
 正論過ぎてどうしようもない。
「俺はなまえが好きです」
 視線をそらさず留三郎は言い切った。恥じらいもなにもあるものか、ここで諦めてしまえば進展はない。
 数年間、漠然と理解していたことだ。
 すぐに探せば手がかりのひとつ位あったんじゃないのか。失恋の気まずさや、失望や怒りや喪失感なんかにとらわれず行動していたなら、こんなところに至る前に、もう一度なまえと向き合う機会はあったんじゃないのか。
「本人に拒まれるなら仕方ありません。引きさがります。ですが親であるあなたにどう言われようと、好きでいるのは俺の自由です」
「わざわざそんなことを言いに来たのかい」
 包帯からのぞく口元が苦笑するように弧を描いた。
「最初からコソコソやるのはさすがに気が引けましたから。…一応、御挨拶はしましたよ」
 引き下がる気はないが、断られることは最初から承知の上だ。頼み込んで折れてくれる相手ならもっとまともな時間に来る。とはいえ「一応、挨拶だけ」はしておくのが筋だろう。
 喧嘩を売ったも同然だが、「仕事との評価は別」と言ってくれたのはありがたい。
 面白がる様子の雑渡はしげしげと留三郎を眺めまわした。
「伊作君といい、君たちの世代は本当に愉快な子が多いねえ」
「ありがとうございます」
 ほめられているのかけなされているのか微妙な言い回しだったが、前者で正解のようだ。満足げに頷いて雑渡はふと声を落とす。「ひとつ安心させてあげようか。私はあのこを嫁がせる事はしない」
「…それは、」
 城主から『命令』されても、ということか。
 重用されてある程度の発言力があるとはいえ、城内における雑渡の立場は盤石ではない。今回の件で仮になまえが一族と縁続きになれば足場が固まるが、逆に『断る』ようなことになれば築き上げてきたものも崩れかねない。それはそうだろう、臣下を召し上げようとする「恩情」を切り捨てるのは「反逆」に等しい。
 本気か、と息をのんだ留三郎に包帯の男は気軽な態度で肩を叩く。
「もしなまえと懇意になるなら、もれなく雑渡家(うち)への婿入りがくっついてくるからね。どうだい、俄然やる気がでるだろう?」
「そうですね…」
 駆け落ちへの意欲がみなぎりそうだ。
 ひきつった笑顔に気を良くした様子で雑渡はくるりと背を向けた。
「そろそろ支度をさせてもらうよ。君も今日から遠征だったろう、早いところ準備しておきなさい」
 男の姿が見えなくなると同時に体じゅうが弛緩して、路上に倒れこみたくなる。
 けして殺気などではないのに、ただの会話なのに、なんだ、あの威圧感は。あんな男と寝食をともにして、なまえの神経はよく擦り減らないものだと嫌味ではなく感心する。
 ぐるりと肩をまわしたとき、近づいて来る人影に気がついて留三郎は息をのんだ。



   
 人の出ていく気配に目を覚ましたのは偶然だった。
 忍の倣いで、なまえの眠りはごく浅い。それでも雑渡家に来てからこちら、一晩のうちに危険を感じて覚醒する回数はほとんどなくなったと言っていい。
 黎明を迎えない時間に目が醒めたことに気がつくと、なまえは息を殺してあたりの音に耳を澄ます。さりさりと乾いた土を踏む音は雑渡のものだろう。音をたてないように気遣うと言っても大雑把なものだ。侵入者ならばもっと慎重になる。
 そっと身を起こすとなまえは台所へと向かった。
 父の気まぐれな「散歩」は常の事である。まだ眠っていてもいいのだが一度起きてしまうと寝なおすのもすわりが悪い。
 雑渡がどこへ向かったのか知らないが、仕事もあるのだし戻るまでさほどの時間はかからないだろう。茶でも用意して待とうかと考えたところで、ふと悪戯心が芽生えた。
(私もお出かけしちゃおうかな)
 こんな時間の外出は日常では滅多にない。
 外はまだ星も見えるほどの暗さだが、もうまもなく山の端から順に薄青に明けていくだろう。きんと冷えた外気を思い描いてなまえは小さく微笑んだ。
 
 頬をひりつかせる風を吸い込んで歩く。
 人のいる場所を堂々と歩くのは躊躇われて、日中ではあまりのんびりと散策することもない道だ。衆目がないのをいいことに鍛錬がてら音を立てずに走ってみたり、とんぼを切っては組み手の形を倣ってみたりする。このところ城に通っていて動かす機会がなかった体が、急な負担にみしみしと軽く軋むのが心地いい。
 忍組にいなくてもいいというのはとても楽だ。
 もちろん、一緒に過ごす相手が伊作であるというのも大きい。
 …このまま戻らなくてもいいと言われたら、素直に喜べるだろうか。
 自問してなまえは足を止めた。
 登城前、雑渡が真顔で話にきたこと。伊作にはああ言ったが含むものは冗談では済まないと理解していた。
…うちの娘として求められるなら、受けるも断るも好きなようにしなさい。だがおまえの名前を知っていたなら、その時は。
続く言葉を思い浮かべてなまえは袖ごと掌を握り込む。温情というには重大すぎる。血の繋がりをもたない間柄で、どうしてそこまで自分を、と思う。
 母の娘であるというだけなのに。

(その時は私が禍根を絶つからね)

 地獄の淵を覗いたような笑顔を浮かべて言った人。どんな思いをしても、忍組から逃げたいとは思わなかった。初めて会った日にあんなに恐ろしかったのが夢のようだ。
 雑渡は優しい。
 自分に対して、だけではない。手のうちに囲ったものを、すべからく庇護しようとする。
 とはいえ余さず掴んでいることは、人一人の手に余ってしまうから、どこかを切り捨てなければならない。常人が迷い躊躇うところを雑渡は即断する。情がないなど嘘だ。情の深さ故に覚悟を決めているのだ。
 そう理解してから恐れの念は消えた。もはや母を殺めた疑念など意味をなさなかった。
 あの義父のためになるならば、誰のもとにでも行こう。ではその庇護の下にはいつまで甘んじていていいのか。
(…いいえ、組頭。『その時』には)
 肌身離さぬ暗器を着物ごしに確かめた時、思いのほか近い気配になまえは慌てて木陰に隠れた。
(組頭、と…誰?)
 ぼんやりしているうちに追いついてしまっていたらしい。話声に耳を澄まして思わず飛び上がりそうになる。
(食満!)
「ちは…に面白い…ね」
 こちらに背を向けた雑渡に対し、食満の表情はよく伺える。見つかりやしないかとひやひやしたが、視線は雑渡に向いたまま他に気を配る様子もない。
(…重大な話なのかな)
 立ち聞きするのも気まずいが、今更こっそり家に戻るのも…うっかり見つかったらそれこそいたたまれまい。文字通り進退きわまっていると話は思いもよらない方向に進んだ。
(え、嫁ぐだの婿入りだのって…ちょっとまって何この拷問!)
 本人に聞かれているとは思わない、この手の話を平静に聞けるほど達観はしていない。しかもよりにもよって食満である。顔に熱が集まって発火しそうだ。
(落ち着け私!)
 ばくばく鳴る胸を落ち着けようと息を吐く。途端、雑渡が振りかえる。
(あ、)
 見つかった。
 視線がはっきりとこちらを向いた。今気がついたというのではない、明らかに居場所を知っていた。
 そのまま何を気にする風でもなく、雑渡はすたすたと近づいてくる。硬直する娘の横をすりぬける一瞬に低く囁く。
「たまには後から出なさい」
 そのまま何もなかったように歩き去る姿を、なまえは茫然と見送った。
 …見抜かれている。
 それはもう、なにもかも。
 恥ずかしさに両手にうずめた顔をあげれば、食満留三郎が立っていた。
 離れて見ていても凛とした青年だった。過去に漠然と憧れた、山田利吉をどことなく思い出す。重なる点など年齢ぐらいしかないのだが、今の食満が忍術学園を訪れたらあのころの利吉と同じかそれ以上に、くのたま達から熱い視線を浴びるのだろう。想像して思わず苦笑した。
 別世界のようだと感じていた同級生の幾人。房中術の実習を受けた少女だって、大人びていたようでやっぱり中身は年相応の娘だった。たまに目にする卒業生を目で追わずにいられないくらいに。
 三禁など建前だけで、それぞれ色とりどりの恋を夢見ていたあのころ。
「…食満」
 思ったよりも声が震えた。
 こちらを見て目を丸くする姿に、笑うよりも熱くて苦しい気持ちが込み上げてなまえはうつむく。少なくとも私は全然、成長なんてしていない。
「久しぶり」
 今しがたの会話とか、ここに至るまでの経緯とか、口にすべき事はいろいろあるはずなのに、ようやく搾り出した一言で立ち消えてしまった。もて余した沈黙の間に、近づいてきた留三郎が口をひらく。
「大丈夫なのか。城勤めなんかして」
「そこまでドジじゃないよ?」
「そう言う意味じゃねえよ」
 逃げられない。
「…伊作も組頭も変な心配してくれるけど、そんなことないから。城勤めが残らずお手付きになっちゃったら女中なんて一人もいないでしょう?だいたい、家柄も良くて見た目も綺麗な、お嬢様がたくさんいるんだよ。わたしなんて、全然」
 顔をあげると眉間を皺立てた表情がごく近くにあって、貼付けた笑顔が崩れそうになる。あまり真剣に見つめられて、視線を反らすこともできず、沈黙が流れる。
「…杞憂じゃないだろう」
「褒めてもらえるのはありがたいけど、」
 なんとか笑って返した途端、両肩を掴まれた。掌の温度に驚いて反射的に身をよじる。が、二本の腕は構わずそのまま引き寄せる。
 振りほどけないわけではなかった。
 男の力に抗うことなど、訓練でもその他でも何度も経験してきた。
 にもかかわらず、一瞬の後には腕の中に包みこまれていた。
「誤魔化すんじゃねぇよ」
 本気で怒っているのがありありとわかるのに、どうしてこのひとはこんな壊れ物を扱うように触れるのだろうと、思う。
 どんなに強く抱きしめられても、掴まれても、痛むのは体じゃなくて胸の奥だ。
「どうせ自分が十人並みとか思ってんだろう、言っとくがそこらの乳母日傘の姫さんよりお前のが美人だからな!?読み書き以外に医術に精通する頭があって、根性あって健康で、さらに家柄と利益が合致してて、見染められても全っ然おかしくないんだよ!だから本気で心配してんのになんで当の本人だけそんな能天気なんだこの馬鹿ッ」
「ちょ、も、物凄い内容言ってるんだけどわかってる?私今怒られてるの褒められてるの!?」
「うるせぇ大人しく口説かれてろ!」
「は!?」
 売り言葉に買い言葉でもちょっとそれは無理すぎるだろうと思ったけれど、恥じらいや躊躇も忘れて見上げた顔があんまり真っ赤で、本気なのだとわかってしまった。くっと息をのんだ留三郎の手が、頭を抱え寄せる。抵抗を忘れたなまえの心拍も、耳に直接聞こえるそれと同じくらい早くなっている。
 数年前の夕方に櫛をわたしてくれた時よりも、もっと近い距離で声を聞く。
「もし、そうなったら、お前や組頭にとっては幸せなのかもな。…だけど俺は、祝えない。殿様だけじゃない。誰が相手でも嫌だ」
 今、こんな状態で口にするのは卑怯だ。
 心臓がとまるかもしれない。
「好きなんだ。お前の事が、まだ、好きで仕方ないんだ」
 三年前よりもっと低い声で、耳に吹き込む言葉が、疑う余裕すら奪っていく。頭の芯を溶かすような眩暈に強く強く目を閉じてなまえは目の前の胸にすがった。
 このまますべて委ねきってしまえたら、どんなに…。
「食満、ありがとう」
 もう笑うことはできなかったけれど、口にすることはできた。涙でへんにしゃがれた声で、偽らずに伝えることならできた。
「好きになってくれて、ありがとう」
「…なまえ」
「でも、ごめんなさい。私、あなたと一緒にいられるような生き方をしてこなかった。そういう道を自分で選んだの。今は自分の意思で、組頭のお役に立ちたいと思ってる。あの方が『家族』として守ってくださった分、約束を守りたい」
「約束?」
「次期組頭を夫君にお迎えすることが、雑渡家にいれていただく条件だったの。…多分私、組頭に拾っていただかなかったらこんなふうに安穏としていられなかった。…御恩には程遠いけれど、せめてひとつきりの約束ぐらいは、守りたいと思ってる。他に私から組頭個人にお返しできるものはないから」
 食満の目に自分はどれだけ強情にうつっているだろう。
 戦忍が、配偶者を持つということ。敵に潰されてはいけない弱みを増やすということ。まして自分が組内でどのような立場にあるのか、ある程度を理解しての上だ。食満だって不安も覚悟もなくこんな台詞を口にしたわけではない。よくわかっていた。ほんとうに、よくわかった。
 嬉しかった。
 こんなにも幸せで仕方ないのに、与えてくれる食満の覚悟を理解してなお、踏みにじることを『繰り返して』いる。
 離れなければいけない、と強く思った。
「本当なんだな?本当にそれが理由なんだな」
 静かで強い口調が確認を求める。頷くと、留三郎は晴れやかに笑った。
「食満?」
「だったら俺が次期組頭になればいいんだな」
「何言ってるの、そんなの」
 無理に決まってる、という言葉をかろうじて飲み込んだ。冗談をいう目ではなかった。
 年齢的にも組内での評価としても目下可能性が高いのは高坂だ。ついで家柄と先代の繋がりにより諸泉。年齢を問わなければ他にも候補はずいぶんいるし公にならないだけで水面下の噂はいくつかあった。間違っても新入りの留三郎がそんな立ち位置にくることはない。
 なまえ自身、世間的にはそろそろ行き遅れと言われても仕方ない年齢である。そしてなにより雑渡があの体でどこまで組頭の職責を背負えるかという問題がある。今回の城勤めがなくとも、縁談はおそらくここ一二年で組まれるであろう。留三郎ではない誰かと。
「可能性が全部なくなったわけじゃないだろ。少なくとも今は、こうして目の前におまえがいるんだ」
 だから手を伸ばすことはできる、と、留三郎は笑った。
 不可能だとなまえは思ったが口に出すことはしなかった。かわりにもういちどもたれかかって、ありがとう、と呟いた。