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「起きろ」

 頭上に与えられた衝撃が冷水であったと気がつくまで、数秒を要した。
 その間に背中を蹴り飛ばされ、疲弊しきった体が枯れ草の上に落ちる。咳きこみながら上体を起こせば、苛立ちもあらわな視線が「立て」と低く命じた。
「この程度でくたばるようならうちには要らん。さっさと死ね」
 手元に残った武器はもうこれが最後だ。棒手裏剣を握りしめて、ふらつく足元をどうにか定める。極端に視界が悪いのは片目に血が入ったせいだろう。しかし今、目前の『敵』から視線をはずしてしまったら最期だ。
「脇が甘い。狙いをつけても当たらんぞ。…そう、そうだ」
 反射的に指示に従う。『敵』は満足げに笑ってゆらりと動いた。
「程度は問わん、俺に一撃当ててみろ。それで今日は終了だ」
 言葉が終わるより早くなまえは動いていた。身をかがめて足元を狙う。あっさりとかわされたがそのまま勢いを殺さず、藪の中に転がり込む。体勢を立て直すと同時に『敵』の位置をもう一度確認した。
 手裏剣を投げて届く距離ではある。しかし、一回きりでは博打もいいところだ。
 風が吹く。小枝が頬をひっかいた。冷え切った皮膚がかすかに痛む。
(程度を問わない…)
 ならば、得物はなにも「殺傷能力のある」ものでなくともいいわけだ。
 濡れた頭巾の結び目に触れ、なまえは細く息を吐いた。




 タソガレドキ軍、小頭・山本陣内。
 新米を見つくろってくるのは主に組頭だが、その教育と言うのは山本の裁量によるところが大きい。とはいえ忙しい身ではなかなか手が回りきらず、今日は久々の「指導」である。
 強さを誇る忍軍だが、裏を返せばそれだけ底辺が上にあるということだ。新入りをふるい落とす意味でも最初の一か月の訓練は苛烈を極める。それにかじりついてこられたものだけが、ようやく山本の生徒となりえるのだ。
 上司がまだ頭に卵の殻をかぶったようなヒヨコを連れて来た時は、またいつもの気まぐれかと思ったものだが…なかなかどうして、その小娘は粘り強かった。半年のうちで新入りは幾人もいたが、結局今年残ったのは一人きりである。
 なまえ。 報告書に評価を書こうとしたものの、山本はすぐに筆を置いた。
 あの娘を見ていると、どことなく見おぼえがあるような気がする。人の顔は忘れないほうだから、ここまで出ないとなると知己や身内ではないはずだ。さすがにすれ違っただけの相手は覚えていない、となると戦場で見かけていたか。…いや、あの年頃でそれはないだろう。忍術学園の生徒だったと聞いたが、そちらで会ったことがあるのは少年ばかりだ。
 もやもやとした感じが喉のあたりに絡まる。
 思い出そうとしばらく試みるも、結局徒労に終わった。
 諦めて再び筆に手を伸ばしたとき、
「どうだい、あの子は」
「組頭」
 するりと入って来たのは包帯姿の男。山本をはじめ五十にも及ぶ忍びたちをまとめ上げる、雑渡昆奈門そのひとだった。
「卵もそろそろ孵ったころだろう。使い物にはなりそうかい」
「尊奈門以来ですね、ここまで残った新人は。ようやく後輩ができて彼も喜ぶでしょう…と?」
 雑渡の手に持たれている布切れを目にして、山本は意外な思いで瞬いた。
 先程投げつけられたなまえの頭巾だ。手持ちの武器と見せかけて、砂を包んで投擲された。切り裂いたところから落ちる砂を目眩ましに、本命である暗器が飛んできた。上手いことをすると笑った山本の目前でなまえは…「ふたのあいた水筒を思いきり振りかぶった」。
「もう会ってこられたんですか」
「ああ、井戸の脇で着替えながら寝落ちてたんで陣左に預けてきたよ」
「…組頭、さすがにそれはまずいのでは」
 水を使って着替えの途中ということは少なからず肌が見える状態だろう。山本は思わずこめかみを押さえる。
 雑渡は愉快そうに目を細めた。
「何事も慣れなきゃだめだろう。ま、陣左なら今さら見慣れたものだろうけどね」
「見られるほうは別でしょうが」
「新人に特別待遇はしないよ。女だろうと男だろうと、ここにいる以上は同じ身分だ。それでやっていけないようなら忍軍(うち)には不要。…今までどおりね」
 諜報力としてくのいちが欲しいと思った時期もある。
 しかし良くも悪くも、彼女たちは男よりずっとしたたかなのだ。使い捨ての駒とならぬよう、集団の中で地位をゆるぎないものとするため、気がつけば軍の中の誰それと通じている。他の城ではどうかわからないが、雑渡を頂点とした一枚岩であるタソガレドキ忍組に亀裂をもたらしかねないそれはあってはならない。そんなままで数年以上が過ぎた。
 だから組頭直々に呼び込んできた時には山本をはじめ多くの部下たちが瞠目したのだ。なぜ女を、と。
「前にも言った通り、私はあの子を『くのいち』として使う気はないんだよ。ならなおさら、最初から『女の子』として区別するのはまずいと思ってね」
 障子の桟にもたれかかり、ずたずたになった頭巾を弄びながら雑戸は庭先に目をやった。
「あれに色事はさせられない。…いっそ医者として隠しておいてもいいんだが…さて、どうしたものか」
 ほとんど独り言のような呟きに、山本は眉を寄せる。
 城主・黄昏甚平衛がいくら忍組を重用するからと言って、城で抱える御典医たちが、内外で頻繁に傷を負ってくる『草』どもを快く思っていないのは明らかだった。それはそうだろう、本来使い捨てであるはずの駒に、高名な医師の技術も高価な薬も、用いるのは分不相応と言うものだ。
 だから彼の言うように「忍組の中に軍医を抱える」というのは、かねてより内部の懸案にあがっていたことではあるのだが。
「善法寺君を招きたかったのでは?」
「残念ながら連敗でね。当面は諦めることにしたよ」
「医者にするなら訓練など不要でしたな。もともとの素養はあるのですから」
「実際に訓練をしたお前は、あの子をどう思う」
「それは…」
 思わず口ごもった。
 多数をふるい落とす忍組の鍛練は根性だけで乗り切れるものではない。年齢、性別差による体力の違いを考えればなおさらだ。入隊した他の男たちを越えてここまで残っているなまえは、現段階で逸材といえる。齢は十五、どのような方面にも伸びしろのある年齢だ。後陣の控えとするのは惜しいと言うのが山本の正直な意見である。
「…まあ、もう少し様子を見てみるよ」
 お邪魔様、と言って、雑渡は来た時と同じようにするりと部屋を出て行った。老獪な猫を思わせる背中を見送って山本は首をひねった。
(『あれに色事はさせられない』?)
 そうだろうか。
 山本の目から見て、言動や容姿に難があるとも思えなかった。くのいちは美女でなくともかまわない。男に警戒を与えなければ良いのだ。内面的にもなまえはそこらの女よりよほど向いているだろう。多少のことで揺るがない胆力。男所帯で立ち回るだけの頭もある。
 くのいちは必要でないが、信用できる者なら使いでがあるのも事実。
 特別扱いはしないと言ったのは雑渡だ。わざわざ選択肢を減らすのには、なにか『事情』でもあるのか、それとも…
(いや、今考えても仕方ない)
 余計な考えを振り払うように頭を振って、山本は再び書類に向かい合った。
 どのような事柄を秘めていようと、雑渡昆奈門はきわめて優秀な上司であり、判断に服従することは山本にとって当然のことだった。