善法寺伊作の一日は多忙である。
 生来の人当たりの良さのせいか、それとも優れた技量のためか、着任から日の浅い割に他の医師たちからのウケもいいらしい。回される仕事の量がとんでもないのには驚いたが、一人でこなすのもギリギリ不可能ではない程度の量だ。とはいえ連日それでは研究にあてる時間がないと助手を求めた結果、なまえがここにいる。
「いやあ、二人でやったら思いのほか時間があくもんだねえ」
 にこにこと茶菓子をかじる伊作に首をかしげてなまえは茶碗に口をつけた。
「そういうのやめない?お互い面倒だし。本当は何の用だったの」
「んー…僕もよくわかんないんだけどさ」
 なんだそれは、と渋面になったなまえに片手で拝む真似をして、伊作はことさらにっこりと笑顔を作る。
「いや、助手が欲しかったのは本当なんだけど、僕は人材の育成の為って上申したんだよ。そしたら何故か研究の補助に忍組から人員をとる、ついてはなまえを指名って決裁にすりかわっててさ。一応そっちにも高坂さん経由で早文送ったんだけど?」
「そういう事情何にも書いてなかったじゃない、あれ」
「結論最優先かと思って。事実と間違っちゃいないだろ」
 茶碗に伊作が茶を注ぎ直すと、なまえは深々と溜息をついた。
「うん…伊作は間違ってないんだけど、組頭達の解釈がなんか、色々と曲解?過大評価?さすがにそれはないんじゃないかなって…」
「つまり」
「私、お見合いに出された可能性があるそうですよ」
「誰との」
 打てば響く速度で聞き返せばなまえは無言で上階を指差した。城の最上層といえば…もちろん黄昏甚兵衛である。
「…あー…それで雑渡さんあんなに…」
「何?」
「いや、嫌がっていたなって」
 正確には「本当に助手が必要なの?君の怠慢じゃなくて?なんでなまえ?」という遠慮のない圧力がばんばんかかっていたのだが。
 実際、心底助手を欲していたかといえば嘘になる。先ほど口にした通り、本当に望んだのは教育機関の確立だ。南蛮貿易の成果の一部として資材も知識もおそらく最先端のものが揃っているタソガレドキだが、惜しむらくは前線軍備の増強に力を注ぐあまり、それを後方で支援する人材が不足しているということである。
 戦になれば人が死ぬ。
 それは戦闘の場に限ったことではなく、慢性的な物資不足と、踏み荒らされた大地がもたらす貧困によるものも含まれる。領土を拡大すれば人も増え、村を焼かれれば近隣の村に移動する。そうして人口密度が上昇した結果、流行病が猛威をふるう。兵や領民を資源としてとらえるならばこの「戦場の外の損失」は大きな痛手で、それを食い止めることもまた重要な軍備であるというのが伊作の訴えた内容だった。
 これに対する黄昏甚兵衛の回答は正直釈然としないものである。いわく、「損耗する戦を終わらせよ」と。
(そんなことができたらもう神仏の域だ)
 伊作にはもう、城攻めの方法が漠然と見えている。はじめは、薬をよほど改良したのかと思ったがそうでもないらしい。なまえ以外が処方を行えないのは明らかで、それでも彼女は生きている。奇跡的だと思うが、それはもう個人の資質の問題だろうと言うのが伊作の見解だ。
 心当たりはあれど、手にしているのは頼りない蜘蛛の糸だ。中心に隠れるなまえと、かかった獲物を補食する雑渡。その配置が守りなのか囮なのかはわからないが、突然の城主命令で虎の子を引きずり出されれば面白くないのは当然だ。
 …それだけにしては随分長い「お叱り」だとは思ったら。
「心配はわからないでもないけどさ。仲いいよね、君たち」
「そう?」
「義理の親子にしちゃ随分だと思うよ」
 手駒ごときにさして執着はしないだろうというのが、雑渡に対する伊作の評価だ。第三者が強引に動かしたところで、文句をつけるよりは次の手を考えるのがそれらしいと思っていた。どれほどの要だとしても、今のなまえに対する彼の様子はまるっきり愛娘を案じる父親である。足場固めの一環として、万が一にも城主と縁続きになるなら良策だろうに。
(というかそれを見越しての養子縁組じゃなかったのか)
 あえて「娘」を取った理由はそこだろうと踏んでいただけに、この曖昧な状況は伊作にも予想外だった。
「で、これからお忍びで小町娘を見に来るってわけだ」
「あのねぇ…。進退がかかってるのは善法寺先生でしょ。上申を受けてもらったのに研究の進捗なんてないんだから。精々ゴマすっておかなくっちゃいけないんじゃない?」
 忍び笑ったなまえを伊作は若干の呆れとともにまじまじと眺めた。
 明けて互いに18、多少晩婚ではあるものの、良家の子女としては充分嫁入り適齢期である。仕事は早いし労も惜しまない、多少人づきあいが苦手ではあるが胸襟を開けば素直な良い子だと思う。
 何よりこうしてきちんとした服装をしていると…身内の贔屓目を差し引いても…美しい容姿をしているのだ。聡明そうな顔立ちに、抜けきらないあどけなさがほんのわずかに加わって、過渡期独特の艶が滲み出る。化粧をせずとも充分に白い肌と薄紅の唇は、花街の艶やかさとは異なった色気を持っていた。
(で、自分じゃ『十人並み』の評価か)
 自覚がないのは結構だが、これでは雑渡の心配も報われまい。
 それにもう一人。
(留もなぁ…)
「…あ、先触れの方じゃない?」
 いくつもの足音の中から明確にこちらに向かうものを聞き分け、なまえがあたりを片づけ始める。
 気負いのない背中を見ながら、これで本当に万が一があったら自分の命がないかもしれないと、伊作はこめかみをそっと抑えた。


 


「で、どうだったんだよ」
「そんな長い対面じゃなかったからよくわかんないけど、わりと好印象だったんじゃないの。僕含めて」
 狭い長屋で男が二人、とはいえ学園での生活も長かったのでさほど不自由は感じない。留三郎から出ていた「荷物が多すぎて足が伸ばせない」という苦情も、仕事場に色々持ち込むことで解消できた。
 衝立をはさんでそれぞれ布団に寝転がりながら、伊作は面倒くさそうな、留三郎は怒ったような表情で天井を見上げる。
「普通にこういう研究してますよって説明して、そこにからめて医師の拡充の話して、ついでに問診と触診もさせてもらって」
「触診!?」
「『僕が』『殿を』ね?っていうかホント頭冷やせよ留。医者が診察しないで何するんだよ」
「あ、あぁ悪い…」
「お勧め処方は御前で典医頭にお伝えしたし、これでうまいこと効果が出ればばっちり。…とにかくこっちは結構好きなように研究させてもらってるよ」
「ふーん」
 さっきまでとは明らかに熱の入り方の違う相槌に、伊作はがっくりと肩を落とした。
「…露骨すぎ」
「お前が上手くやるだろうってのは予想していたからな」
「そりゃどうも」
 そこで会話が途切れたのを潮に、寝ようかと思ったのだが。
 ふつふつとこみ上げるものを感じて、伊作はがばりと布団をはねのけた。
「留三郎、ちょっと話があるんだけど」
「ん?なんだ?」
 衝立の上から覗く険しい表情を見て、留三郎が慌てて起きあがる。反射で正座までしたのを腕組みして見下ろしながら伊作は深々と溜息をついた。
「…あのね、前々から何度も言ってるけど、そんなに気になるなら自分で聞けよ」
 少なからず予想はしていたようで留三郎は気まずそうに目線をそらした。
 その様子にますます腹が立って伊作は引きつり気味な口角をつりあげる。
「それとも何、これから先もずっとそうして僕を仲介してみみっちくなまえの情報欲しがるわけ?君がそういう立場に甘んじるって言うなら、僕は遠慮なく親交深めるからね」
「は?」
 軽蔑の口調には小さくなった留三郎だが、後半の部分には眉を寄せた。
「何驚いてるんだよ。付き合い長いのは君だけじゃないだろ。僕だってなまえに好意くらい抱いてるよ」
「ちょっとまてなんだそれ」
「さらに今は一日の大半をほぼ二人っきりで過ごしてるんだ。目下のところ一番親しいの、僕で間違いないし?」
 青くなったり赤くなったり忙しい顔色の友人に、伊作は最後の駄目押しをくれてやる。
「そういう人間にうかうか『協力』頼めるほど余裕あるの、君は」
 沈黙した留三郎が先ほどより数段とがった顔をしているのを確認して伊作は背中を向ける。床に入り直しながら留三郎の声を聞く。
「好きなのか、伊作」
 そっけなさを装って、その実たっぷりと不安を内包している短い台詞に先ほどとは違う種類の笑みが浮かぶ。
 このまま沈黙していたら留三郎はどれほど悶々と思い悩むだろうか。
 しかし明日の仕事に障るのもかわいそうなので素直に答えてやることにする。
「好きだよ」
「…!」
「友人としてね」
 顔を見なくても反応が手に取るようにわかる。
 こんなに感情的豊かなのは本職の忍としてどうなんだろうと一瞬思ったが、身内として相対する分にはそれも彼の持ち味だ。胸襟を開いた仲であっても常に本心に一枚布をかぶせたようななまえには、このくらい正直な男の方が釣り合いが取れる。
 自分の抱く好意の種類がどんなものなのか、本当の所は伊作自身にも測りかねていた。
 ただ、あの組頭が寵愛する『娘』を、奪おうというほどの気概が持てないことはなんとなくわかっていた。留三郎ならやるかもしれない、できるかもしれないという予感が、感情の深追いをやめさせた。あのこが幸せになってくれればいい。それで十分満足できる。
 何の確証もないことではあったけれど、伊作は自分の直感を疑うことはなかった。
 …だから僕は、これ以上はのぞまない。




 朝。
 いつもよりだいぶ早い時間だったが伊作は詮索せずに送り出してくれた。
 昨日の今日だがこれまで散々躊躇ってきたのだ、今さら多少勇み足になったところで遅れを取り戻すにはまだ足りない。薄暗い道を歩きながら留三郎は深々と息を吸い込んだ。腹の底でまだ凝っている迷いを吐きだそうとする。
 なまえを好きかと問われれば、肯定するよりほかにない。
 昨晩伊作が口にしたのは紛れもない事実だった。傍観者である留三郎でさえ認めずにいられないほど、状況的に一番なまえに近しく、信頼を得ているのは伊作なのだ。見ないようにしてきた現実をつきつけられて初めて留三郎は自分の欲望を自覚した。
(誰にも渡したく、ない)
 伊作は良い男だ。
 穏やかな優しさも、信念を曲げない強さも、海千山千と渡り合う度量も持っている。多少の不運は愛嬌のうちだ、伊作と添う女はきっと幸せだろう。彼にも幸せであって欲しい。心の底からそう思えるのに、なまえと二人寄り添う姿を思い浮かべた途端に吹きあげたのは絶対に認めたくないという嫉妬だった。
 …初音を思い出す。
 情を交わす相手として望まれたことを、嬉しいと感じる気持ちはたしかにあった。
 だけど叩きつけられた別れに苦しさは露ほどもなかった。罪悪感や良心の呵責といった痛みは覚えても、あの、数年前の秋に刻みつけられた喪失感には到底及ばない。そう、あの日なまえに拒絶された戸惑いさえ、たった一晩でどこにもいなくなった衝撃に比べたら些細なものだった。
 もう失いたくない。
 その気持ちはずっと変わらない。
 無くすことに怯えるぐらいなら忘れればいい。そうして幾人かの女性と割りない仲になって、記憶を塗りつぶそうとしてきた。己の怯惰は自覚している。だから再びなまえに向き合うことが怖かった。

 ――-私にはなるべく関わらないで。

 笑いを含んだ声。傷ついていないわけがない。留三郎は事情を知らないが、そんな状況ですらなまえはタソガレドキにいようとする。ずっと目を背けてきたけれど、唐突すぎる失踪には彼女なりの理由があったのだ。ここにいれば理解できるかもしれない。本気で、望めば。
 もしも再度拒絶されるならそれはそれで構わない、ふっきるきっかけになるだろうと留三郎は思う。
 知らぬ間に失うのは二度と御免だ。




 幕を下ろすなら足掻いてからでも遅くはない。      
 忍である以上、いずれここを去る日は来るのだから。