「彼はなかなか優秀な人材ですね。どこで見つけられたのですか」
 報告書類を手に訪れた山本が言うと、雑渡は閉じていた目をゆっくりと瞬いた。
 風は冷たいが雲ひとつない晴天だ。開け放つ窓から差し込む日差しがまぶしい。
「…陣内、寒いんだけど」
「換気です。眠ってしまいそうな御様子ですから」
 机から身を起こす様子を、気遣いというより呆れの表情で一瞥し、山本は机脇の紙山へ持ってきた報告書を積み上げる。
「これ署名の方法なんとかならないのかなー。最近花押っていうのが流行ってるじゃないか。私もあれでいいじゃない。印鑑作ってさあ」
「誰に作らせるんですかそんなもん」
「自分でやるよ。ほら、芋とか彫ったら出来そうじゃないか?」
「萎びるたびに作り直す手間を考えたら、真面目に署名なさるほうがいいと思いますよ」
 いいからとっとと仕事しろ。
 にっこり微笑んだ山本の額にうっすらと青筋がうかぶ。雑渡はいかにも面倒くさそうに筆を手に取った。いかにも怠慢な様子だが、いざ書き始めれば動く手は淀みなく書面を追う目も早い。見る間に山が低くなっていく。
「伊作君の友達さ」
 前触れなく与えられた回答に山本は軽く目を見張る。
「ではなまえとも?」
「ただでさえ思春期の子は難しいのに、女の子にあまり詮索する父親は嫌われるのがお約束じゃないか」
「…そうですよね、まったく…」
 四人の子供たちのいずれを思い出してか遠い目をした山本だったが、すぐに小頭の顔に戻る。
「誰かつけますか」
「しばらくは伊作君も食満君も居場所づくりに忙しいだろう。そうそう動けるもんじゃないよ」
「では、いずれ?」
「いいや。せっかくだから元気に泳いでもらわなくちゃつまらない」
 手にした書面を見下ろしながら、雑渡はにんまりと笑う。それがお気に入りの玩具を眺める表情なのか策謀にふけるものなのか、山本には判別つけ難かった。遠くからでも目を離さずにいればよいか。結論付けて退室しようとしたところで廊下から諸泉が顔を出した。
「組頭、高坂さんから文が」
「どうした」
「先ほど疾風が持ってきたのですが…」
 高坂と諸泉によく懐いた猛禽の丸い目を思い出しながら山本が受け取る。折りたたまれていたために随分皺が寄って滲んでいるがどうにか判読はできる。
「…助手になまえ、善…」
 読み上げた途端に雑渡が動いた。
 反射的に進路を開けた諸泉のそばを無言で通り過ぎようとするのを、慌てて山本が追いかける。
「今から登城されるおつもりですか」
「直接行く」
「なりませんよ、こんな時刻に!」
 昼の短い季節だが、まだまだ日も高い時刻。衆目のなかで前触れなく登城などしたら、侍組や侍従達から批判の嵐となるのは想像に難くない。雑渡昆奈門が城主の側近と呼ばれる今なお、城と忍組の間にひかれた溝はあまりに歴然としていた。
 会議のたび浴びせられる嫌味の数々を思い出したのか、雑渡は不機嫌さをあらわにしつつも立ち止まった。
 近年珍しい苛立ち様に、障らぬ神に祟りなしを熟知している山本でさえ、ついその表情を覗き込んでしまう。
「典医として、単身であがるよりいいでしょう。善法寺くんの助手ならなまえも安心でしょうに」
 つい一月ばかり前の騒動。
 何を思ってか突然、忍組から典医として一名を召し上げよとの下知が降りた。
 件の城攻めが薬毒によるものだと、城主を始め家老連の数名が知っている。さほどに薬学の心得があるならば加減の思わしくない城主の為に薬を奉じろという趣旨だったが、とってつけた建前の影では秘匿された技術をどう暴こうか、我が物にしようかという思惑が見え隠れしている。
 組内から身代わりを立てるのが理想だったが『研究』がずっと単独で行われてきたことが裏目に出た。なまえと同等の知識を備えた者はいない。在来の薬草に精通した者はいても新旧問わず国内外の薬種までとなると難しい。研究資料はあっても短期に理解することができなかったのだ。
 いくつかの事象のどこまでが偶然で、どれが誰の作為なのか、今となっては判然としない。
 善法寺伊作を引き入れたのは雑渡の独断だが、悪手ではなかったと山本は思う。政治的な思惑はさておき、久々の新人である食満留三郎と共に、各所の人間関係の緩衝材になればいい。
「伊作君ねえ…」
 いらいらと息を吐く雑渡に諸泉が水筒を差し出す。水を一口飲み込んで、獣めいた男の殺気が少し和らぐ。
「…陣内」
「はい?」
「親馬鹿だと思うかい?男親の贔屓目かもしれないが、正直ね、どんな形であれ、殿の目に触れさせたくないんだよ」
 苦笑しかけて山本は表情をこわばらせた。
「…殿が、なまえを『側に』望まれるという事ですか。医師や薬師としてではなく?」
「あのう」
 恐る恐る、といった様子で諸泉が小さく挙手した。
「諸泉」
「すみません。…でもこのままじゃなまえ、本当に針の筵ですよ」
 心から案じている表情に山本も雑渡も沈黙した。
 彼女が組内で孤立する理由が「情報を明かせない」ところに起因していると、皆わかっているからだ。雑渡の庇護は表立った攻撃を抑止したが、人の心情はそう容易く変わらない。素性も得体も知れない、そのくせ上との繋がりが濃い。忍組で今の任務につく限り、なまえはこれらの評価から逃れられないだろう。
 どうせ仲間の目につかぬ働きならば、人事命令により城内で医者の手伝いをしているという「肩書き」があるほうかま無難だ。働き次第で忍組への評価も上がることを言い含めれば、かなりの者が、彼女への異端視を改める可能性も高い。
「…まいったな」
 本当に心底、苦り切った様子に、山本と諸泉は顔を見合わせた。
 心得たもので諸泉は「御用がありましたら用具庫におります」と言い置いてすぐに退室する。自分はどうしたものかなと束の間逡巡したところに雑渡が顔を上げた。
「私が心配しているのは、お前が思った通りの事だよ。あのこは『年頃の娘』だから」
「…何かの拍子に御手つきになるかもしれない、ということですね」
 ただ忍組の者というだけならば笑い飛ばせるような話だったが、養子とはいえ雑渡家の子であれば、現実性のある話だった。組頭という席の重さのみならず、おそらくは当代随一であろうと思われる実力を誇る男を、黄昏甚兵衛は重用している。しかし家臣の中には、もともと半士半農の忍を重鎮と数えることに不満を持つ者が数多くいる。
 血筋家柄に不足があれば、上流階級との婚姻によって位を得る…よくある手段が使われなかったのは、雑渡が親兄弟を早くに亡くし独り身を貫いてきたためだ。甚兵衛には娘もあるが、降嫁するには身分の壁が厚すぎる。しかし逆に低いところから…雑渡家から側室を迎えることには問題がないのだ。
 表の政には疎い方と自己評価する山本にも、その程度の想像は容易い。先に計画したものがいれば実行されていてもおかしくはないというわけだ。絡まる策謀の糸に気がつかない雑渡でもないだろう。
 もし仮に現実になったとすれば、城内での足場は確実に固まり、何かと利は多い。それなのに当の雑渡昆奈門がこれほど嫌がるとは。 
「殿と縁続きになるのが御不満ですか?」
「他人の美意識にとやかく口は出さないよう心がけてはいるがね」
 南蛮渡来の珍妙な衣装の数々を思い、山本は笑った。
「笑い事じゃないよ。どうするんだ、本当にそんなことになったら」
「今のあなたの様子を見ていると昔を思い出しますよ。母親の名前が」
 ここにいたころの、と続けることはできなかった。ぶつかる寸前どうにか掴みとどめた拳を見つめる。衝撃の強さと、包帯ごしに伝わる熱の高さが雑渡の激昂を物語る。
「…やはりあの子は母親の名前の」
「陣内」
 それ以上は言ってくれるなと男の視線が語っていた。読み取った上で山本は再び口を開く。
「なまえについては…尊奈門の言うとおり、今の状況が良いものとは思えません。しかし、任務を与えた当初から考慮し得る事態だったでしょう?なまえの安全をはかるなら、仲間内に対しても、最初から存在自体隠匿するべきでした。軟禁も致し方なし…今さら倫理を振りかざすような生き方はお互いしていないだろう?昆奈門」
「…ああ、その通りだ」
 男の腕から力が抜けたのを確かめて、掴んでいた拳を放した。
「だから親馬鹿の立場として、お前の選択も不安も理解はするよ。何人目が何歳になろうと悩みと後悔が尽きない。しかし子供の人生は子供のもの、我々が散々手や口を出したところで代わってやることはできない。わかっているか?」
 雑渡がなにも言わないので、山本はそのまま小頭としての意見を述べる。
「城にあがる件は本人の希望に添えばいいでしょう。いきなり養子に迎える事に比べたら、人事について本人の意見を考慮するのは、特別待遇でもない普通の事です」
「危険性は」
「殿の意向はともかく、身辺の安全に関しては悪くないと思いますよ。忍の警護と信用できる典医が目を光らせていれば、公的な場所でそう不審死は起きません。そういう意味では『以前の事例』より条件はいいですね。伊作君がいますから」
「信用できる、ねぇ」
 鼻で笑う様子は明らかに同調するものではなかったが、伊作を信用しかねるというわけでもなさそうだった。
 肩をすくめて雑戸が背を向ける。
「…なまえを呼んできてくれ」
「承知」
 垂れた頭に大きな溜息が落ちる。