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 慌ただしい夜も更け、次第に静まる店の奥で、なまえは冴えてしまった目を強引に伏せた。
 明日は普通に帰ってくるようにと言われている。普通というのがどんなものか、額面通りに受け取るならこのままの姿形で表通りから戻ればいいのだろう。雑渡が言ったのだからそれは「大丈夫」なのだ。信頼しているという言葉は真実であり、事実それが裏切られたためしはない。
 だが今回に限ってわだかまるものがある
 ひとつは騒動の原因がおそらく自分であると言うこと。もうひとつは伊作の処遇だ。偶然居合わせたというのは出来過ぎな気がするが、升屋での緊張感は本物だった。少なくとも伊作の方は、相手の意向を汲んだ上での芝居とは思えない。
 伊作を典医に据えて、雑渡が何をなさんとしているのか。信頼はしている…しかしこの不安はなんだ。三つ目の理由からはあえて意識を反らしながら、今はとにかく眠ろうと努めた。



 翌日。
「大変お世話になりました。急に押し掛けて本当に…」
 深々と頭を下げると、女将にかわって見送りにきた滝川が「なに大仰な事しとるの」と背中を叩いた。
「臨時の働き手が一人おっただけや。よう働いてくれて、おおきにさんどした。忙しい時には陣左様通して声かけるさかい、体に気ぃつけて過ごしや。次は権助の相方もしてもらわな、な?」
「ありがとうございます。太夫もお元気で」
「滝川でええよ。またこっそり来たらええ」
 笑顔で見送りかけた滝川だったが、なまえが背を向けたところでふと呼びとめる。
「せや。あんたに言うとかな…」
「はい?」
「留はんな。何か大っきな嘘、ついたはるわ。あんた方の事情は詮索せんけども、付き合うなら覚悟せなあかんで」
 なまえが何か答えるより早く玄関の奥から女将の声がした。はいはいと返事をしながら振り返る背中をなまえは奇妙な感慨で見つめる。
 嘘。
 まあさすがに「強い忍にあこがれて」という理由を鵜呑みにしてはいなかったが、こうはっきり言葉にされると受け止め方に悩む。昨晩からもやもやと胸に凝った不安だ。
 完全な名指しで呼ばれたわけではないから、なまえが逃げる隙があった。雑渡と城主甚兵衛の間でどのような前談があったか知らないが、これほど急いで仕立てあげなくても、医者探しに数日の時間はかせげたのではないかと、思う。
(事情を知ってる伊作だったから、機を逃さず押さえたかった?)
 その伊作がわざわざ留三郎の仕官を後押ししたのは本当に友情の故だろうか。退路が絶たれた末の苦渋でとっさに出したのだとしても、あまりに人がよすぎる交換条件だ。雑渡が怪しまなかったとは思わない。しかしそれに目をつぶってでも伊作を城に送る理由があるのなら。
(…何をするつもりなのだろう)
 城主も、雑渡も、伊作も、食満も。
 駒に盤面を見渡すことはできないけれど、自分がこれから進まされる方向は漠然とわかる。
 わざわざ闇討ちのような時間に使者を寄越すことで、少なくとも城側が雑渡を信用しきってはいないこと、また雑渡も完全に恭順しているわけではない事が露呈した。「雑渡昆奈門の知人」である伊作を内堀に送り込むことで、長らく忍組を拒んできた城の壁の一角は崩れる。小さな隙間から気付かれぬように侵食していくのは忍術の典型だ。それこそ一夜攻めなどよりずっと、忍組の取るべき手段には相応しい。
 そこまで考えが及んだところで、なまえは言い知れない寒気のようなものを覚えた。
(これじゃまるで、離反の筋書きみたい)
 忍組は組頭を中心として強固に結ばれている。もともとが技術も知識も秘匿の多い一団であり、逆に自城の軍についての予備知識は深い。もしこれが…あくまで予断の域を出ないけれども…離反の先駆けになるならば、タソガレドキ軍を相手どっても勝算はあるだろう。
 でもその先は?
 タソガレドキという国を出て、どこに行く先があるのだろう。
 そもそもなまえの知る限りには離反を起こす理由が見当たらない。それなら大人しくなまえの存在や特性、城攻めの詳細を公表するほうがいいはずだ。自分一人と国の内乱を天秤にかけるなんてあまりに馬鹿げている。
(組頭は一体…)
 雑渡のことを信頼はしている。
 しかし何も知らない。 
 妄信ではないと言ったけれど、実情はそうなのかもしれなかった。







 しっとりと艶を含んだ木板を踏んでなまえは人気のない家に立っていた。
 言いつけどおり普通に、村の入り口を通って玄関からの帰宅である。
 いつもならもう詰所にいるほどの時間だ。雑渡より先に出るようにしたのはなまえの要望だったが、一緒に出勤したっていいのに、とつまらなさそうな口調で言われた。
「親子で散歩とかねぇ、私も年相応に憧れたりはするんだよ」
 それはもっと小さい子供とするものでしょうと返すと、いくつでも娘には違いないさと頭をなでられた。
 雑渡昆奈門は尊敬する上司だ。
 冷え切った竈に触れてなまえはのろのろと息を吐く。
 今こうして人気のない家に立っていると、先ほどとは違う種類の、もっとぼんやりした不安が広がるのはなぜだろう。
 こんな感情は初めてではない。ずっとずっと前から知っていた。寂寞、という。
(父上様)
 そんなふうに呼ぶことにはまだ随分ためらいがあるけれど。
 どのような理由で作られたものでも、帰る家があるというのは幸せだった。部下に対する優しさだとわかっていても、家族でいてくれるのが嬉しかった。軽口であっても娘と呼ばれると胸の中があたたかくなった。
 忠誠というものを誓うのには人それぞれの理由があるだろう。
 初めは、とても強い人だから、従うことを決めた。でも今はそれだけではない、となまえは思う。妄信だとしても切ってしまえない理由はそちらのほうがずっと強い。
(…父上様)
「なにやってるんだ?」
「きゃあ!」
 突然背後から投げかけられた問いになまえは忍らしからぬ悲鳴を上げて振り返った。ついでに反射で手近に積んであった薪を蹴り飛ばし、隠し持った鋭器をしっかり握るのも忘れない。
 がらがらと騒々しい音を立ててちらばった木片の向こうで食満が両手を上げていた。
「なっ、なんで?」
「いやさっき諸泉さんにここの非常通路を教えてもらって、戻ってきたらお前が来たから。なんとなく声かけづらくて」
「だからってそんなにコソコソすることないじゃない!盗賊でもいるのかと思った…」
「悪かったな。これから行くのか?」
「え、ああ、うん。…ねえ諸泉さんと組頭は?一緒じゃないの?」
「入隊試験の準備だそうだ。早く行きすぎても悪いだろ」
 苦笑交じりに言われていることはもっともなのだが釈然としない。それならなぜ最初に非常通路を教えたりするのだ。建前上まだ外部の人間に。
 瞬時にそこまで考えて、なまえはそらぞらしい笑顔をつくった。自分もまだ他人で、目の前にいるのは初対面の入隊希望者だ。
「それもそうだね。じゃあそろそろいきましょうか、表からの道で」
「ああ」
 かわした言葉に不可視の壁をはさんで、二人は揃って戸をしめた。詰所に向かう道沿いには数名の村人がそれぞれの作業に精を出していたが、見知らぬ男を連れたなまえの姿を見ても何も言わない。一瞥するや背を向けるその人々に、なまえの挨拶だけが空しく響く。前を向いたまま食満が、唇を動かさずに呟いた。
「伊作を呼んだ理由の関係か」
「ううん。これはいつものこと」
 倣って闇語りに答えれば、食満は何か言いかけて口を閉じた。
「あまり気にしないでくれるとありがたいな。私自身が納得してることだから。素性も知れない女が突然頭の家に入りこんだら警戒されて当然だし、私は組でもあまり、評判は良くないから」
「…なんで」
「さあ。そういう質問に答えないせいかも」
 ふふふ、と笑うと溜息をつかれた。当然だ。
「だから食満、早くここに馴染みたいなら、私にはなるべく関わらないでね。搾るほどの情報もないから」
 食満が足を止める。
 振り返らずになまえは進んだ。
 いつかの夜と同じように、これでいいと胸に呟きながら。