争いにしては穏やか過ぎる会話に留三郎は立ち入るきっかけを失ってしまった。
 埋め合わせだの謝罪だの、連れ帰る台詞には相応しいがどうも男女の喧嘩という様子ではない。
「そんなん言うたかて困ります」
 むしろ声を聞く限りでは怒っているのは太夫の方だ。珍しい。もちろん太夫とて人間なのだから喧嘩がないわけでもないが、そんな時はたいていもっと激烈だ。
「なんぼお願いされても、うち一人が決められることやありまへん。おかあさんに相談せな…」
 好機だ。
 うまい具合に転がり込んできた間合いを捉え、留三郎は襖を叩く。
「滝川太夫、いかがなさいました」
「あ、ええとこに。お入りなはれ」
 幾分ほっとしたような声とともに襖が開かれる。入るのはもちろん初めてだ。趣味のいい調度品がしつらえられた室内に、居心地の悪そうななまえと、目元の涼しい男が座っていた。部屋の主は太夫らしからぬ気安げな様子で留三郎をちょいと手招く。
「留はん、今日は初音の方はよろしいのか」
「権助と詰めてくる予定だったんですが、何やら物騒なお客人がいらしていると茂野さんが心配していたもので。御無礼をして申し訳ありませんでした。すぐに戻ります」
「かまへん、かまへん。いざこざあったのは本当のことやし、うちもちょうど誰か呼びに行こ思ぅてたところや」
「滝川、そちらは?」
 男がゆったりと口を開いた。
 外で聞いていても、いかにも男ぶりのよさそうな様子だったが、実物を見てみても予想と寸分たがわない。役者にしては少々冷やかさが立ちすぎるものの、美形と評することになんら遜色ない男だった。
「うちの店の用心棒やってもろとる、食満留三郎はんどす。留はん、こちら高坂さま」
「はじめまして。食満と申します」
「そうか、おまえが…」
 目を細めて返された言葉に、留三郎は視線をなまえへと流した。
 一瞬彼女はものすごく複雑な表情をしたように見えたが、無言の高坂の圧力に押されてか、自ら名乗った。
「高坂の部下の、なまえです。御迷惑をおかけして申し訳ありません」
「迷惑も迷惑やわ。昼間どんな話になったんか知らんけど、こんな時間に転がり込んできたかと思えば突然居座るなんて」
「ええ、ですから私でしたらそこらの物置にでも置いて頂ければ…」
「なまえ」
 短いが充分威圧的な声で名を呼ばれ、なまえは嫌そうに高坂に向き直った。
「いくらなんでも太夫のお部屋に御厄介になんてなれませんよ。確かにこちらに泊めていただくように言われてきましたけど、どこに、なんて仰ってませんでしたから」
「ここがどういう場所だか理解してから言え。…万が一があったら俺の首がいくつあっても足りん」
「だからそんな過保護じゃないですってば!」
「とにかく俺は、あの人だけは敵に回したくないからな」
 きっぱりと言い切って高坂は、まだ何か言いたげななまえに背を向けた。太夫に「女将には直接話してくる」と告げる。
「話すのはええですけど、うちかてこの店の看板や。そないな無茶が通るとは思いまへんえ」
「自分の命がかかってるんだ。どうにかこうにか通してみるさ」
 冗談なのか本気になのかやけに憂鬱そうな面持ちで、太夫を伴った男は部屋を出ていく。間際に「ああ」と振り返った。
「なまえ、こいつにはお前から話しておけよ」
「わかっています。…高坂さん、何度も言いますけど私は物置希望ですからね」
 答えずに足音が遠ざかっていくと、なまえが深々と溜息をついた。
「本当にもう…いろいろとごめんなさい」
「俺が迷惑を被ったわけじゃないからな。で、何なんだ、一体」
 促す食満から目をそらしてなまえはぼそりと呟いた。
「いや、たぶんあなたが一番慌ただしいんだけどね」
「は?」
「これから説明するから。…まず結論から言うと、食満には明日以降うちの忍組に入ってもらいます」
「はぁ?」
 馬鹿の一つ覚えのように同じ音を繰り返して、食満は茫然と開いた口を慌てて閉じる。
 そんな様子に眉を下げてなまえは「それで」と階下を指差した。
「高坂さん、新人教育担当だから、喧嘩売らないようにしてね。文句言いたいとは思うけど、決めたの全部組頭と伊作だから」
「伊作?あいつはどうしたんだ」
「私もいまいち把握していないんだけど…」
 そうしてなまえから聞いた話を咀嚼して飲み込んで、留三郎は思わずうなった。
「…なんっでそんなに即断即決なんだ、お前の上司も伊作も…」
「なんにせよ、私は決定されたことに従うだけだから。あなたの目的も、組頭が目をつぶるなら問わない」
 薄氷のような声に留三郎はなまえの顔を覗き込む。慣れ合いも軋轢もなにもない、静かな面持ちでなまえは留三郎を見つめていた。
「少し早いけど、先達として歓迎します。これからよろしくね」
「…ああ、よろしく」
 他人行儀なあいさつの後にふと気がついて食満は尋ねた。
「そういえばさっき高坂さんが言ってた『あのひと』って誰のことなんだ?」
「え?」
「過保護だとか、何かあったら敵にとか言ってただろう」
 理解してなまえは「あぁ…」とうつむいた。
「組頭のこと。私は今、養子に迎えていただいているの。組内でもいろいろあって…。でも食満、だからといって私はその恩の為に妄信しているわけではないからね。今まで御判断に間違いがなかったから、とても有能な方だから、意向に沿うと決めている」
「ああ、噂はいろいろ聞いた。前に何度か見たこともあったし、…信じてもらえるかはわからないが、俺、その話を聞いてここに来ようと思ったんだ。そんなに凄い忍組なら入ってみたいって」
「…そう」
 嬉しそうとまではいかずとも、もう少し色よい反応があるかと予想していた留三郎は肩透かしに口をつぐんだ。雑渡昆奈門個人だけでなく…高坂や、他の仲間がいるであろう忍組自体を、なまえが誇りに思っているのはなんとなくわかる。だからタソガレドキ忍組を賞賛する言葉が、こんな風に影を引き出すとは思ってもみなかったのだが。
「なまえ、お前…」
 口に出しかけた言葉になまえが視線をあげる。
 と、廊下の方からぱたぱたと足音が聞こえてきた。振り向いた途端にすぱんと襖が開かれる。
「せやってお母はん、うちは何にも聞いておりまへん!なんでそないな大事なことを滝川太夫の口から、」
 ばちんと頬を張る音がして、叫ぶような勢いでまくしたてていた初音が沈黙する。片手を抑えて桔梗屋の女将は「えろうお見苦しい所みせましたな」と腰をかがめた。
「お騒がせしてすんまへん。わても急な話で驚きましたが、男はんの仕事はそないなもんやと心得ております。こちらの仕事は権助にまた頑張ってもらいますよって、気にせず行っておくれやす」
 うつむいて頬を抑えたままの女を一瞥してから、女将はなまえに顔をむけた。
「あんたがなまえはんですな。高坂はんから話は聞きました。うちもこないな商売や、年頃のおなごに万が一があったらあきまへん。とはいえ太夫の部屋に置いとくわけにもいかんさかい、今日明日はわての部屋に泊りなはれ。表に顔出さん仕事もあるさけ、昼間に手伝ってもらえればええから」
「こちらこそ御無理を言って申し訳ありません。よろしくお願いいたします」
「ほんならまずは裏口に案内しましょ。ついて来ぃやす」
なまえと女将が出ていくと室内はよりいっそう暗澹とした空気に包まれた。
「…出ましょうか」
「ここで結構どす。すぐに済む話やさかい」
湿ってはいたが明らかに切って捨てる口調で初音は膝をつめた。
「留…うちはあんたにとって、そんなに軽い女やったんか」
「初音さん?」
「あんたが本気にならんのはよう知ってたわ。誰に対しても同じやったらそれもええと思っとった。せやけど何なん、あの女」
城勤めになればこれまでのように通うわけにもいかない。てっきりそのことを詰られるのかと思っていたら、まったく別方向から放たれる矢に留三郎は眉をひそめた。
「あの女って」
「惚けるのも大概にしぃや!」
 押し殺した悲鳴のような声が耳を刺す。初音の目からぽろりと雫が落ちた。
「特別な相手、おるんやないの。なんやの、なんでそんな目ぇして見とるん。うちの前であんな顔してた事いっぺんだって無かった…」
 口をはさむ隙もなかったが、あの女というのがなまえである事は察しがついた。自覚はなかったが顔色に出ているのだろうか。息がつまる。そう、確かに一目見て綺麗だと思った。
 まだ押し殺せない。それなのにまた、感情だけが先走る。
「滝川大夫が言うてはったわ。出会い頭に高坂様のことぶん殴るんやないかと思うたって。うちら女はなぁ、男はんの考えてはることなんぞ、目ぇ見れば全部わかってしまうんやで」
 苦笑するように呟いて初音はそっと目元を抑える。
「…あんなハナタレ娘に目がいくような情夫なんぞこっちから願い下げや。きっちり別れたるさかい、どこでも行きぃ」
ばさ、と着物の裾を翻して背をむける初音に、留三郎はかける言葉に悩んだ。
「…初音さん、俺」
「何言うたかて終いや」
 振り替えらずに初音が低く呟いた。
 後姿を見送りながら留三郎は、悲しんではいない自分に少なからず失望した。初音の潔さにも別れを相手に言わせない優しさにも畏敬の念に似たものはあったが、それは最後まで愛や恋にはならなかった。申し訳ない気持ちを抱きはしても、繋ぎ止めたいと渇望したのは後にも先にも一度きり、そしてその一度を、指摘通り今もずっと握りしめている。