客との宴席を設ける揚屋ではなく、あくまで妓女達の顔見せと生活の場という面が強い置屋・升屋。それと同じ置屋である桔梗屋だが、こちらは娼館としての役目を伴う。複数の女が、男を手招き、自分の部屋へ呼び込む。升屋と比べると大分直接的な店だ。
 一般的に男は女を金子で買うためにここへ来るが、一部にはその逆もある。情夫(まぶ)と呼ばれるいわば「女の恋人」だ。家があるような女は別だが、店に買われた女の中には男を通わせる者も少なくはない。純粋な思慕で結ばれた同士もいるけれど、相応の見返りで「男を釣る」のも色街ならではの手管だろう。ここではあらゆる手段が尽くされる。
 桔梗屋の女たちにも格付と、それに応じた暗黙の了解がある。情夫を通わせるのは比較的高位の女たちだった。



「もうお帰りに?」
 女が気だるく甘い声でささやく。首を振って階下を示せば、「お気をつけて」と女は微笑んだ。
 留三郎はさほど色事に執着のある方ではない。
 もちろん年齢相応に欲もあるから、こうして女に求められれば応じるが、抱けば抱くほど冷めていくようで誰とも深い仲になることはなかった。情けない性分だと自分では思っているが、その淡白さがなぜか色街の女には受けるようで、どこでもしばらく逗留していれば女の方から声がかかった。
「おや、今日は見張り番かい」
 入口から出てすぐの所に腰を下ろすと遣り手の老婆が歯のかけた口元をゆがめて笑った。見た目は正直山姥のようだが、仕事柄礼儀作法にはなかなか厳しい。昔は舞の名手だったと自称するのもあながち嘘ではないかもしれない。
「女を抱くより喧嘩が好きとは、とんだ情夫もいたもんだ」
「悪いかよ」
「惚れる物好きがいるんだから仕方ないやね。さぁて今夜はどうなるものやら」
 遣り手の口調に含まれた面白がる気配に留三郎は片眉を持ち上げた。
「…なんかあるのか?」
「太夫の情夫でね、陣さんて城勤めの偉い男前がいるんだが、それを呼びに来た娘がいたんだ。適当に追い返そうにもなかなかしつこくて、権助が出たんだが、あっさりぶん投げられちまったのさ。武家娘は護身術を習うって聞いてたけど、あんなに見事なもんとはねぇ」
「珍しく見えねえと思ったら、あいつ…」
 用心棒に雇われている権助はなかなかの巨漢だ。
「それで女は?」
「周りが騒いでる間にさっさと中に入っちまったよ。出て来ないんだから今頃太夫の部屋か、酔っぱらった客にウチの妓女(おんな)と勘違いされてるかだろ」
 まぁあれじゃ大人しく手篭めにされるようなこたないか、と遣り手はげらげらと笑って話をしめたが、留三郎の耳には半ばまでしか届いていなかった。
 実績のある用心棒をあしらうなど少々武術をかじった程度では無理だ。武家の娘に心当たりはないが、数刻前に顔を合わせた女なら、充分出来得ることである。何を生業にしているのかは聞かなかった。が、わざわざ男の姿で街に出るのだから正体を隠したい理由があるのだろう。色街の空気とは異なるけれども。
(なまえか?)
 忍んで独り歩きをする理由。
 太夫の情夫という男を探していたのだろうか。こんな夜に女一人で乗り込むほど、熱心に?
「…婆さん、その陣さんてのは強いのか」
「こんな婆にヤットウの事なんか聞くもんじゃないよ。しかし…うん、年の割に随分ふるまいの静かなお人だね。無駄がないっていうのかねぇ…お侍も随分見てきたけど、珍しいくらいだ」
 海千山千の遣り手の、人を見る目は確かだ。
 太夫の部屋は桔梗屋の最奥にある。
 いつも通り、ごく普通の夜だ。だがその最奥では今、太夫と情夫と、それを訪ねてきた女がいる。どんな関係かは知らないが、色恋沙汰に男女の縺れはよくある話だ。男が一人に女が二人、少々不穏な構図ではある。
「ねえ、ちょいと見てきておくれよ」
 耳を澄ませながら同じことを考えていたのか、遣り手が困ったように留三郎を見下ろした。
「静か過ぎやしないかい。まさか中で太夫がぶっすり…」
「いやいや、不吉すぎるだろ。さすがに女一人でそんな立ち回りはできねぇよ」
 遣り手の手前笑ってはみたが、そうだろうかという疑念は留三郎の中に確かにあった。
「じゃあちょっと行ってくる。権助はもう今日は退(ひ)けたのかい?」
「いや、そろそろ戻るころだろ。何かあったら知らせとくれ」
 二つ返事で引き受けると留三郎はそろそろと太夫の部屋に向かった。あちこちから行為中の声が聞こえるほかは特に変わった様子もない。部屋の付近まで来るも、当然死臭などただようはずもなく、印象は外からうかがったものと変わらなかった。
(気の回しすぎか…)
 思いかけて留三郎は足を止めた。
 いや、何もなくとも、中にいるのがなまえなら。
 太夫の情夫となるほどの男に会いに来たというのは。
 くのいちの標的とするならもっとやりようがあるはずだ。それよりはそう、たとえば男の妻や恋人が追いかけてきたという方がよほどあり得る。忍んで城下に降りるのも、なまえ程度の腕があれば周囲もそうそう止めはするまい。
 視線に僅かに含まれた憂い、横顔にささやかな影、結いあげた首筋におちる後れ毛。少年にしか見えずとも香気のように滲み出るその気配を艶というのだろう。
 …あんな別れ方をしておいて。
 だけど間違いなく綺麗だと感じた。かつてを思い出すよりずっと早く、今のなまえに自分は感嘆したのだ。
 きっとまた同じ事を繰り返す。
 予感ではなく確信だった。
 何度だってなまえが欲しくなる。恋焦がれてやまなくて、そうして彼女はまた逃げる。手に入れようとしてはいけない。この感情に向けてはならない。仕舞い込んで他の誰にも抱けなかった持て余すばかりの恋情を。
(俺は馬鹿だ)
 立ち止まる。
 目的の部屋まではあと数歩、襖にちょっと手をかけるだけで結論を手に入れられる。
(怖いんだ)
 自分を選ばなかったなまえの「今」を知ることが。
 この部屋で男と寄り添うなまえを見てしまったら、どうすればいいのか。
「…では……そんな…」
 漏れ聞こえた声に留三郎ははっと顔を上げた。
 太夫の声だ。
 困惑と怒りが混ざったようだが、さほど荒くもない。
「すまん、埋め合わせは必ず」
 こちらも多少困っているようだが大分余裕がある、自分よりは年上の男の声だ。続いて「本当に申し訳ありません」という…なまえの声。留三郎は眉をひそめる。どういうことだ。