飾り障子に灯りが揺れる。
 すぐ隣の揚屋で騒いでいた宴の音は次第に薄れていった。沈黙の中に耳を澄ませば艶めいた衣擦れとあられもない行為の声が聞こえるだろう。いつも通りの色街の夜だ。最端の一室は随分音の届きにくい場所だったが、伊作の耳には壁も仕切りもあって無いようなものだった。
「まさか君がこんなとこに逗留するとはねえ。仕事に支障はないのかい」
「あるように見えますか」
 目を細め口を開きかけた男に、伊作はにこにこと茶を勧めた。
「先に言っときますけど、僕はいたって健康で男色趣味はないですよ。はいどうぞ、最新の薬草茶です」
「…なんだかおそろしい臭いがするんだけど」
「もちろん調合したての最新ですから、人に出すの初めてなんです」
「そういう所は変わらないね、君」
 男が溜息をつく。
 雑渡が示すような事にももう慣れた。ここに居を構えるにあたり留三郎はいい顔をしなかったが、患者の場所に近いほど診察がしやすいという持論を、結局伊作が押し通したのだ。
 怪我人病人はどこにでもいるが、こと花街に関しては「病を隠し」接客に当たる女が多い。仕事をしなければ生活できないのだから当然だが、そうすると医者にかかる時にはもう手遅れというのが大半だ。そのため花柳病の臨床記録はあまりない。可能な限り早期に発見し、仕事の合間を縫って診察や治療を行い、場合によっては雇い主に談判して患者に休養を取らせる。どこの店主もいい顔はしなかったが唯一この升屋の主だけが許可をくれた。既に成果は上がっている。他の店への往診も随分増えてきた。
 だから、そろそろ来るかとは思っていたのだ。
 目立つ動きをすれば必ず。
「雑渡さん、御用事があっていらしたのでしょう」
「何、年をとると夜が長くてね」
「こんなとこで言う台詞じゃないですよ。引く手数多でしょうに」
「おや、まさか伊作君に言われるとは」
「僕みたいな貧乏医者、遊びで夢を見させるほどの甲斐性はありませんよ」
 現実的だねと笑って雑渡は部屋を見渡した。
「しかし君ほどの技量があれば、どこの城からだって、それこそ引く手数多だったんじゃないのかい」
 来た、と胸で呟いて伊作は姿勢を整える。
 持参した酒を舐めながら雑渡はにんまりと笑った。
「ま、これが私の仕事さ。あの子ほど優しくはないつもりだよ」
「どこに仕官してるわけでもない、ただの流医者ですよ。戦場も回りつくして、たまたまこちらで徒医者に転身したばかりなんですが…」
「探られて困る物はないのかい?」
「ええ。さすがにあなたの網を擦りぬけられるとは思ってません」
 本心から答えれば、雑渡がいよいよ化け猫のような顔で笑うものだから、伊作は若干萎縮した。
 嫌な予感がする。
 しかしここで騒ぎが起こるはずはないと踏んで対峙する。。
 タソガレドキ城下だからこそ、この化け猫も迂闊な真似はできないはずなのだ。下手な騒ぎを取りざたされては忍組頭としての立場に響く。万一の事が起これば口封じに随分な手間を要するはずだ。伊作も警戒心がないわけではないし、無抵抗主義者でもない。
「ま、今日は少ぅし緩くしておこうか」
 くっくっと喉を鳴らす男に伊作は内心冷や汗をぬぐう。
 見逃されたというよりも恩を売られたと取るべきだろう。この男は、怖い。
「よかったら君もどうだい。一人酒も悪くはないが、たまには…おや」
 包帯の奥、雑渡の目がするりと泳ぐ。
「お迎えだ」
「え?」
 聞き返した途端に、灯が揺れた。細く開いた障子の向こうに伊作は慌てて目を凝らす。最前まで真白かったはずの障子に人影が映っている。自分の感覚がそこまで鈍っていたとは思わない。これが噂に聞くタソガレドキの精鋭か。
「御歓談中失礼します。組頭、火急のお話が」
「お入り」
(なまえ!)
 聞き知った声に伊作は再度目を見開いた。
 日中に来た時とは身ごなしが全く違う。音をたてぬ動きと言い、感情をうかがわせない声と言い、あの泣きそうにうつむいていた娘とはまるで別人だ。
「客でも来たか」
「はい。先代様と山本小頭が対応しています。連絡があれば桔梗屋の高坂に、私はこちらで指示を仰ぐようにと」
「まったく。父の不在に娘を浚いに来るなんて、迂闊に夜歩きもできやしない」
(父だって?…いや、それより城の重臣が動いているのか。目的はなまえ…)
「どう思う?伊作君」
「は?」
 突然水を向けられて伊作はつい気の抜けた声を出す。唖然としたのはなまえも同様だったらしく、二人は顔を見合わせた。
「今丁度、城では典医を募集中なんだ。殿のお加減があまり思わしくないようだから、良い薬が欲しいのだろう。それはもう熱烈に探しているのさ。まさか夜中に押し掛けるとは思わなかったがね」
「組頭、何のお話で…」
「おまえは少し黙っておいで。どうだい伊作君、君は今どこにも仕官していないしこちらには店主の好意で滞在していると言ったね。もちろん目的があっているのだろうが、懐が寂しくては心もとない。薬代もツケが嵩んでは大変だろう。まずは君自身の蓄えを増やしてから開業してもいいんじゃないのかい」
 すらすらとまるで芝居の口上のように雑渡は言いたてる。
 いや、これは芝居そのものだ。
 今夜の一連のどこからがその筋書きだったのか…諦念というにはには少し悔しさの多すぎる気持ちを押しこんで、伊作は最後の抵抗を試みた。
「僕に仕官しろと仰いますか」
「私の下で働けとは言わないよ。もちろん大人として、仲良くしてもられば多少の便宜はするけどね」
 つまり「仲良く」しなければここで相応の対応をされる。大人の念押しは嫌なものだ。
「いくら貴方のお墨付きでも、流れの町医者がいきなり典医というわけには…。皆様が組頭殿の判断に重きを置かれるなら、わざわざ夜中に押しいったりしないでしょう」
「だから私が君を推すのさ。重臣方にではないよ?もっと即決的な御方へ、だ」
「…」
 とうとう逃げ場を奪われて伊作は口を引き結んだ。
 そう、この男が立つのは臣下の席ではない。城主黄昏甚兵衛の傍ら、影としてある。
 自分はその影が口をきき実体をもつための最初の布石だ。
 男は何も言わない。娘も忠実に沈黙を守っている。
 伊作は、断った場合の想像をしないほど愚かではなかったし、自分が身代わりにならなかった場合、青ざめた彼女がどのような立場に置かれるか考える余地もあった。
「…わかりました。しかし条件を出させていただきたい」
「伊作」
 かすれた声が小さく呼んだ。
 伊作は一瞬なまえに視線を合わせる。僕は優しくはない。言葉にせず強く思う。
「一緒に逗留している同級生を忍組に仕官させていただきたい」
「前歴を探ってはならない子かな」
「そこまで僕は事情を知りません。しかし元々タソガレドキに来たいと言ったのはそいつですから」
「いいだろう。暗殺なんてしないから安心しなさい」
 後半はなまえに、笑顔とともに向けられていた。なまえの肩がほっと緩んだのを見て、あぁこの人ならやりかねないよなあと、伊作も安堵の息を吐く。
「早速だけど顔を貸してくれるかな、荷物の整理は後できちんと時間を取らせるから」
「では僕は店の方に話をしてきます」
「いや、すぐに行こう。なまえは今夜は桔梗屋に泊りなさい。手配は陣左にまかせるから、明後日、普通に帰っておいで」
「、わかりました」
 口籠ったのに雑渡は気がついたが、あえて見逃したらしかった。包帯で隠れた顔が楽しそうになったのを見て、伊作はなんとなく目をそらす。
 経緯は知らないが、こんな父親と一緒に暮らすのはさぞ面倒なことだろう。