「あまり進まないようだね」
 穏やかな声に我にかえれば、雑渡が食べ終えた椀を重ねているところだった。
「すみません、片付けは私が」
「いいから座っておいで。病人じゃないんだからこのくらいはするよ。稽古はいいから、今日は早く休みなさい」
「はい。…申し訳ありません」
 労わりの言葉に小さくなって、なまえは食べかけの汁椀に口をつけた。上司であり父である人の前で呆けるなどありえない。明日の仕事にまで障る前に、一度思考を停止しなければ。
 仕事。
 あの件は伝えるべきか否か。握り潰しても障りはない。伊作の真意?わからないけれど本気でツテとして頼るのに自分ごときでは役不足だ。二日後、本当に食満は門を叩くのだろうか。
(採用募集してるわけでもないし、道場破りみたいなものかな)
 感情的な問題として今の自分にかかわることを食満は嫌がるだろう。卒業して以来無関係だったのだ。
(紹介って言ったって)
 元同級生です、としか言えない。
 それくらいなら同行してきた伊作が人となりや技術について太鼓判を押した方がよほど信憑性がある。わざわざこんな関係のこじれた自分を担ぎ出す理由とは一体何なのか。
「…御馳走様でした」
 膳を下げに行くと布巾を手にした雑渡がちょいちょいと手招いた。
「ちょっと出かけてくるよ。戸締りはしておいて構わないから」
「お戻りは明日の朝ですか」
「さて、どうなるか…。まぁ私は裏口から入って来れるし、おまえは気にせず寝てなさい」
「はい。お気をつけて」
 雑渡のこうした「散歩」は珍しいことではない。なまえも行き先は聞かない。
 送り出して、片付と朝餉の準備…といっても残ったご飯を握り漬物を添える程度…にかかる。普段ならこの後庭先で鍛錬にいそしむのだが、今日はもう休むことにする。
 暖と灯りを取るための火を消すと、黒々とした夜闇が家中を満たしていた。
 心張棒を握り締め、なまえは冷たい土間に佇む。静けさが家の広さを知らしめる。親兄弟を順々に見送った雑渡も、家の広さを噛み締めただろうか。
 養父と二人の暮らしも一年、初めのうちこそ緊張したが今では安堵が大きい。甘えたがりで賑やかな妹こそいないけれど、どこか大川のもとで過ごした日々を思い出す。それより昔の記憶はもう引き出そうとすることさえなくなっていたけれど。
 なまえが出遅れたのは、珍しく感傷的になっていたからかもしれない。
 庭に敷かれた落ち葉がささやかな音を立てた。
 今まさに戸締りをしようとした引き戸が開かれる。
「お忘れ物で…」
 家主でないことを認めた途端に心張棒が閃いた。横から頭部を狙う一撃は手で受け止められ、押される。次の手段を講じるなまえの耳元に声が吹きこまれる。
「静かに」
 ぴたりと動きを止めてなまえは頷いた。
 諸泉だ。
「裏へ」
 最小限の単語で構成された命令に従い、なまえは奥と足を向ける。後ろに緒泉がはりつく。
 廊下の鶯張りや、糸をつないだ鳴子など、ひとつひとつの警備構造はさして珍しくもないが、家の規模に対して仕掛けの数はずいぶん多い。熟知したものだけの静けさで家主の部屋へ駆け込み、なまえが机の裏に手をいれる。貼り付けられていた紙片を取ると窓枠に滑らせた。
 …カタ、と小さな音がする。
 壁にぽかりと空洞が開いて、まず諸泉が身を滑らせた。続いたなまえが後ろ手に小窓を閉める。再び小さな音がして、からくりが施錠された。
「降りるよ」
「はい」
 縄梯子を下ろしていたらしい諸泉の声に応え、三つ数えてから足元の縄をさぐる。外の星明かりさえ入らない、文目もわからぬ有様だったが、地面に足がつくと、後ろからなにかざらつくものを押し付けられた。手探りで受けとる。…草履だ。
「左三つ、一本杉の上で」
「はい」
 この「通路」には出口が複数ある。
 なまえも諸泉も道筋をすべて把握しているわけではない。非常用にといくつかを教えられているだけだ。そのうちの「左手に進んで三番目」の出口に向かいなまえはひた走った。状況はまったくわからないがここを使うために諸泉が来たのなら、おそらくかなり緊迫している。
 数軒はさんだ先の畑、その奥の枯れ井戸が出口だった。わずかな明かりを頼りに、足元の鍵縄を放り投げ石壁を登る。人気がない事を確認するとなまえは目当ての杉の枝に身をひそめた。
(いったい何事?)
 雑渡は何も言い置いていかなかった。ということは変事が起こったのはその後だ。不安を押し殺しながら目を凝らしていると、大勢の足音が近づいてきた。慌てて枝に張り付く。
「…もぬけの殻で…」
「何事ですか…」
 後に聞こえたのは先代組頭、諸泉家の御隠居の声だ。高齢と足の不自由のため滅多に外出しない老人だが、わざわざ対話の為に出てくるとは。
(相手は御城の、それも高位…)
 背中が冷える。
 国外に己の存在がどう認知されてもさほど脅威ではないけれど、国内の、上層部が伝聞を信じたとなれば別だ。雑渡の不在を突かれれば弱い。…いや、今はまだ騒動の原因を決めつけるには早すぎる。情報が何もない。
「なまえ」
 葉擦れの音に紛れかねない声を拾ってなまえは枝下に視線を落とした。
「降りておいで。大丈夫そうだ」
 言われるままに地を踏むと、珍しく渋面の諸泉が街の方を指した。
 もう木戸も閉まった時間だが市街地の一角だけぼんやりと明るい。
「升屋っていう店にいらっしゃるらしいんだ。そちらで指示を仰いできて」
「お伝えすることは」
「どうも僕も要領を得ないんだが。年寄方が、火急に新しい典医を欲しているらしい。忍組から薬に詳しいものを挙げろという話なんだが…組頭から何か聞いているかい」
 薬にくわしいものは何名かいるが、およそ城の典医の知識には及ばない。暗黙にさされているのはなまえだろう。
「いえ、何も。しかし軍医ではなく、典医ですか?殿のお加減が悪いなんて聞きませんけど」
「さあ…。とりあえずこちらは父と山本小頭が預かるから、何かあったら高坂さんに頼んでくれ。升屋の近くの桔梗屋にいるから」
 聞いた屋号だなと思いながらなまえは頷いた。
 歩き出した背中に遠慮がちな声がかかる。
「あの…なまえ」
「はい?」
「組頭の娘さんだからとかじゃなく、僕にとって君は大事な…その、仲間なんだ。強制するわけじゃないけど、でも、有事の時くらい頼ってほしい。小頭ほど懐が深いわけでも、高坂さんほど格好良くもないけど、話を聞くくらいはできるから」
 諸泉は「早く行っておいで」と手を振った。
 きょとんと目を見開いたなまえが破顔する。
「ありがとうございます」
 送り出された足は思ったよりずっと軽く、枝上で背中を冷やした不安はとりあえずどこかに消えたようだった。
 升屋。
 伊作がいるあの店。
(典医探しと流れの町医者、なんだか符丁は合うけれど…)
 桔梗屋に足を運ぶような事態にならなければいいというのが、目下なまえの最も大きな悩みだった、