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 先だって高坂に反論したものの、休日をもてあましている自覚はなまえにもある。
 世の女性にもれず甘味は好きだし、身に付けずとも小間物屋でかわいらしいものを見ればうきうきする。しかし少年の姿で通うわけにもいかない。だから趣味の外出先と言えばひとつきり。完全な定型である。
「こんにちはー」
「おお来たか。こないだの注文分、探しておいたぞ」
「ありがとうございます…え?うわあ!ちょ、こっちのって、わわ」
「ついでにお前さんの好きそうなのもいくつか仕入れたぞ。どうだ?ん?」
「すごいです!この草紙探してたのに全然見つからなくて、もう無理かと思ってたのに…!」
「ふふん、上得意客のためならざっとこんなもんじゃ。坊主、ゆっくり見てけよ。わしは奥で帳簿つけとるから」
 馴染みになった古書店の老爺に迎えられ、なまえはでずらりと並んだ書籍の影で小さく苦笑した。
(坊主、かあ)
 意図した結果とはいえ、こうして定期的に顔を合わせている人ですらなまえを『男』と思いこんでいる。女らしさが無いという、高坂の苦言はもっともである。しばし眺めて数冊を手に取る。
「ご主人、これとこれの値段は?」
「ふむふむ、どれ、…こんなもんでどうじゃ」
「金額間違ってますよ?」
 算盤に提示された金額はいくらなんでも安すぎる。いぶかるなまえに、店主はにやりと笑った。
「客先にこっちの包みを運ばにゃいかんのだが、最近腰が痛くてな」
「そういうことでしたら喜んで。ええて…どちらに?」
 受け取った地図を見下ろしてなまえは眉を跳ね上げた。いわゆる岡場所。なまえはいまだに立ち入ったことがない。
「何、袖をひかれても着いていかなけりゃいい。坊主みたいな子供を誘う女もいなかろうて」
「はあ…。先方には渡すだけでいいんですね?」
「おう、代金はもらっとるからな。きちんとお遣いができるなら、次回からもまけるぞい」
 からかう口調になまえは唇をとがらせた。
「気を付けてな」
「はーい。それじゃ、またきます」
 戸口を出ればすっかり乾燥した空気だった。火の元に気を付けなきゃ、と思うと同時に、薬種を持ち歩くなら湿気の具合も考慮しなければならないなと考えてうんざりした。休日くらい仕事の事を忘れたい。自分の購入した本と、頼まれた包みを重ねて抱え直し、目についた茶屋ののれんをくぐる。
「ご注文は」
「お団子ひとつ。それからごめんなさい、先に荷物を置かせていただけませんか」
「ああどうぞ、好きに使って構わないよ」
 礼を言って荷物を置くと、なまえはいったん包みをほどいた。読むには早すぎる速度でぱらぱらとめくり始める。単語を見るに医術書か。三冊目の中程に挟まっていた、小さな紙切れを手にとってなまえはひそかに唇を上げる。 
(あった)
「勉強熱心だね、おにいちゃん」
 運んできた女性が言うのに首を振って、なまえは団子を受け取った。
「僕はただの使い走りですよ。書き付け無くして焦ってたんですが、無事見つかりました」
「そりゃよかったね。気を付けてお行き」
「はい。ありがとうございます」
 数名の客はいるがどれも「おつかいの少年」には無関心な様子だ。書付に目を落とす。
(「此者也」…?)
 吸い込んだ息が一瞬、喉に絡まった。
 そんな風に示される心当たりは、充分すぎるほどある。筆跡は間違いなく店主の物だ。乾ききってはいないから、先程帳簿をつけると言って書いたのだろう。
 老爺の顔を思い浮かべれば裏などまるでないように思えたが、なまえも自分の観察眼に絶対の自信があるわけではない。
 不安だ。
 とはいえ放り出すわけにもいかず、祈るような気持ちで再び包みを結び直した。できることなら信じたい。









 岡場所に来たのは生まれて初めてだったが、思ったより普通のところ、というのが感想だった。
 もちろん夜と昼では顔が違うところなのだろうが、日のあるうちに通る分にはそのへんの路地と変わりはない。むしろ静かなくらいだ。近くの軒下で丸くなっていた猫がニャアと声をあげる。
「…ここ?」
 地図に示された屋号と見比べて確認するが、どうもそこは「置屋」と呼ばれる…妓女が寝起きする店らしかった。
 通りに面して大きくとられた格子戸の奥では、ごく当たり前のように数名が立ち働いている。仮に店内で何かおきても、大声をあげれば通行人にすぐ届く。なまえは肩の力をわずかに抜いた。
「ごめんください」
「はい、どなた」
 出てきた女は地味な小袖をまとっていたが、はっとするほどの整った顔をしている。化粧をしたならさぞかし華やかなことだろう。
 届け物であることと古書店主の名を出すと、彼女は少し考え込んで「ああ」と手を打った。
「二人組の、若い人やろ。片方がお医者様や言う」
「ごめんなさい。僕も使い走りなものでわかりません。他に逗留されている方はいないのですか?」
「おるけど、わざわざここで本読むような酔狂はおらんやろなぁ」
 くすくすと笑って女が背を向けた。
「気にせんとお上がり。坊やの毒になるもんはあらへん時間さけ」
「はあ」
 どう反応したらいいのか悩んだのがそのまま声に出てしまったが、女にはそれがおかしかったようだ。口をおさえて笑っている。
「たまにはよその店にも来るもんやな。面白いわ」
「え?」
 応対からてっきりここの人間と思ったのだが。
「うちも丁度帰るとこやってん。こっちの女将はん昨日から寝付いたはるし、わざわざ店のもん呼ぶのも悪ぃかと思てな」
 いかにも勝手知ったる風に案内した女は、そこの部屋、と示して立ち止まった。同行する気はないらしい。ぽん、と背中を押す間際、耳元に囁く。
「二人ともなかなかの色男や。食われたらあかんよ、お嬢ちゃん」
「っ」
 息をのんだなまえに女が片眼をつむって見せた。口元に指を一本。
「すっぴん言うても、うちに見惚れん男はおらん。あんたくらいの年なら尚更な。黙ってるから安心し」
 上機嫌で去っていく後姿を茫然と見送りなまえは軽く首を振った。いやいや、思わぬ失態ではあったが、まだ要人にばれたわけではない。気を取り直して襖を叩く。
「失礼いたします。お届けものに上がりました」
「どうぞー」
 おだやかな声。
 確かに若い。こんなところに逗留するだけの資金力があるとなれば、御曹司とその御供だろうか。なまえはそろそろと襖をあけた。
 途端に煙と、むせるような臭いが喉をさす。火事の二文字が閃く。なまえは包みを廊下に放り出して、羽織を脱ぎ捨てた。部屋に飛び込む。火元を叩かねば。
 同時に慌てたような声。先ほどとは別の。
「窓あけるぞ!」
 咳き込んだ呼吸が止まる。
 後ずさる。
「げほ、お客さん?ごめんね、げほ、変なときに」
「おいあんた大丈夫か?」
 掴まれた腕を振りほどく事もできた、と後になってなまえは思う。そうしなかったのはどこかに未練があったせいだろう。数年越しの。薄れた煙の向こう側で驚きに見開かれる二対の目を見つめ、なまえはどうにか笑ってみせる。他に何をすべきだろう。

「なまえ?」

 煙のせいだけではなくかすれた声に、なまえは小さく頷く。
「…伊作も、…食満も。ひさしぶり」
 他にどんな表情言葉もうかばなかった。