カサブランカ・ブーケ まだまだ寒さの残る3月。そろそろ花粉が猛威を奮ってくる時期だろうか。 翠川来夢は魔王城の廊下を歩いていた。前方に見覚えのある黒髪を見付けたので駆け寄りながら声を掛ける。 「森山くん!」 「おぅ。翠川さんやっほー」 「や、やっほー?」 くるりと振り返った森山久遠は数冊の本や束になっている紙を抱えていた。執務室に持っていくのだろうか。頼りなく見える彼の細腕が心配になった来夢は分けてもらうために手を伸ばす。それを察したらしい久遠は持ち上げやすいように少しだけ下げてくれた。なので3分の1ほどいただく。本当は半分くらい持ちたいのだけれど、それをすると彼は機嫌を損ねてしまうだろう。来夢は魔界に来て知ったのだが、久遠は機嫌が悪くなると態度が冷たくなる。まるで子どもが拗ねるみたいに臍を曲げてしまうのだ。 「悪いねぇ。執務室までお願いしまーす」 「はーい」 昼時はいつも人が少ない廊下を並んで歩く。 久遠が思い出したかのように「あ、そうそう」と切り出した。 「帰りに俺の部屋に寄れる? 渡すように頼まれたものがあるんだけど」 今じゃダメなのだろうか。隔週土曜日にあさぎや樹々から手紙が久遠経由で届くのだが、それじゃないのかな。今日は日曜日だし。なんだろう。 来夢は首を傾げながら今日の予定を思い出す。ジャックからは特に何も言われていない。いつも通りだろう。 「大丈夫だよ」 「そういえば、バレンタインデーも平日だったけどホワイトデーも平日だよなぁ」 「? そうだね」 嫌なのかな。……お返しをするのが? 本命でも義理でも気持ちがないのなら返さなくてもいいと来夢は思う。何気なく久遠を見ると「そういうわけじゃねーよ」と困ったように笑っていた。さらりと心を読まれていた。 でも、平日で嘆くということは休日だったら返さないということなんじゃないのかな。 * * * 雑用を終えた来夢は言われていた通りに久遠の部屋に向かう。 先月行ったことがあるので迷うこともなく無事に辿り着いた。他人の部屋というのは何度経験しようとも緊張する。すぅ、と静かに深呼吸をしてからノックをした。バタバタと音がしてからガチャリと扉が開く。 「はいはーい」 「こ、こんにちは!」 「おー。ちょっと待ってて」 またすぐに久遠は部屋の奥に引っ込んだ。開いた扉の隙間から見えたのだが、リビングに何故か様々な紙袋があり、その中から3つを引っ付かんで戻ってきた。そしてそれらを来夢に差し出す。なにかわからないが受け取ってから首を傾げた。それぞれに久遠の字で『翠川宛』という付箋が貼られている。 「ホワイトデーだよ。青柳と樹々から」 青色の付箋が貼られているのがあさぎから、灰色の付箋が貼られているのが樹々からなのだそうだ。じゃあこの黄色い付箋のは誰からなのだろうか。持ち上げながら久遠を見る。 「これは?」 「それは俺から。リネちゃんと食べて」 バレンタインの時に部屋を貸してくれたお礼として渡したからお返しはいらないと言ったのに。来夢はびっくりしながらも「ありがとう」とお辞儀をした。 * * * 悪夢街のジャックの屋敷に帰ってきて早速賑やかでお喋りな使用人たちに囲まれた。 「ライムさまー」「お嬢様あ」 「おかえりなさいませー」「ませえ」 「普段より5分ほど遅かったですねー」「ねえ!」 「なにかあったんですかー」「ですかあ?」 「その紙袋はなんですかー」「なんですかあ??」 一気に話し掛けられた来夢はとりあえず「ただいま」と答えて靴を脱ぐ。するとすぐさまスリッパが用意される。いつも通り「ありがとう」と言って履いた。それから使用人たちに部屋へ向かう廊下を歩きながらホワイトデーのことを教えた。この街の住人はハロウィン以外の行事には興味どころか知識すらない。正月、節分、バレンタインデー、雛祭り、ホワイトデー、その他諸々を知らないらしい。一応、バレンタインにチョコをみんなに配ったんだけど。ちなみにジャックはそれらの行事を知っていた。 「ほほー」「ほお」 「では、ジャック様からのお返しが楽しみですね」「ですねえ!」 「……お返し、もらえるかな」 というか覚えてるのかな。バレンタインに渡したお菓子は食べてくれたのかな。当たり前のように毎年あった行事だったけど、悪夢街ではそうじゃない。思い出すなにかがなければ忘れてしまうんじゃないだろうか。 * * * 数日後。ホワイトデー当日。 ジャックと向かい合って朝御飯をいただく。その間、使用人たちはパタパタと忙しなく働いている。騒がしい食卓にはもう慣れた。 「ライムさん、今日は迎えに行くので執務室で待っていていただけますか?」 「え? うん。わかった」 なにかあるんだろうか。来夢は首を傾げつつも箸を動かす。 食べ終わったジャックが手を合わせて「ご馳走さまでした」と言うと使用人たちは皿を片付け、別の使用人が淹れたてのコーヒーを持ってきた。 ジャックが目を伏せコーヒーカップを傾けた時に来夢の近くにいた使用人がどこか嬉しそうに「ホワイトデーですね!」と耳打ちした。来夢は余計に首を傾げたくなる。迎えに行くこととホワイトデーは関係あるのか。……ないと思う。 * * * 午前は久遠にもらったクッキーをリネと食べて、午後は差し入れという名目のバレンタインのお返しである様々なお菓子をみんなで食べた。美味しかったけど甘いものばかりだとつらい。晩御飯食べられるかな、と思いながら来夢は執務室でジャックを待っていた。 「……」 「……」 魔王であるリュウと二人っきりなのだが、リュウはひたすら筆を執って目下仕事中である。邪魔にならないように来夢はソファで置物のように大人しくしている。 筆の音が止まり、リュウが顔を上げた。するとコンコンとノックの音。自然とそちらに目を向けるとジャックが現れた。 「失礼いたします」 「いらっしゃい」 礼儀正しくお辞儀をしたジャック。返事をしたリュウは机を漁り出す。引き出しを順に引いていた。3つ目の引き出しから紙を取り出し、それをジャックに差し出す。 「ありがとうございます」 「断られたら慰めてやろうか」 「結構です」 「じゃあ久遠に言ってやる」 渡されていた紙が気になって背後からこっそり覗こうとしたらジャックが振り返った。見えなかった。 来夢が近付いていたことに驚いたのか、少し後ずさったジャックはふんわりと微笑んで「ライムさん」と名前を呼ぶ。なんだろう。 「ジャック?」 「先月はありがとうございました」 先月? と首を傾げかけたがすぐにバレンタインデーのことかと納得した。 ジャックは恭しく来夢の手を取ると甲に唇をそっと触れさせた。びっくりして手を引こうとしたが、逃がさないといわんばかりにしっかりと握られて出来なかった。 「……悪夢街に来たことを後悔していませんか?」 「え?」 「今ならまだ引き返せます。貴女が私を、悪夢街を、選んでくれて嬉しかった。許されるのならば、これからもずっと貴女の傍にいたいと思っています。ライムさんはどうですか? この数ヵ月、悪夢街で過ごしてみて……後悔、しましたか?」 真摯な瞳を真っ直ぐに向けられて見詰め返しつつもどう言えばいいのかわからない。ふるふると首を横に振って否定だけはしておいた。 後悔が全くないとは言い切れない。この数ヵ月の間に辛いことや悲しいこともあった。でも、その都度、気にかけて励ましてくれたのはジャックだった。年に一度しか会えなかった人と毎日会える、一緒にいられる、そんな幸せを教えてくれた。与えてくれた。知らなかった面も知れば知るほど好きになる、もっと知りたいと思える、そんな人と―― 「わ、私もずっと一緒にいたい!」 迷惑じゃないならジャックの傍に置いてほしい。頼りないし、とろいし、心配ばかりかけてしまうけど、一緒にいてほしい。 そんな思いを込めて来夢はジャックを見詰めた。 ジャックは握っていた右手を放し、左手をさらっていく。 「ライムさん、愛しています」 「!」 「よろしければこの紙を一緒に書いていただけますか?」 懐から取り出した物を薬指に通されて驚いていたら、先程リュウにもらっていた紙を見せられた。『指輪』と『婚姻届』。ぱちぱち、と数回瞬きしたあとにジャックの言葉を理解する。ふわあっと嬉しくて暖かいものが胸に溢れてきた。 「はい!」 返事と同時にジャックに抱きついた。 「私を選んでくれてありがとうございます」 「わ、私も……ジャックが、大好きだよ」 ぱっと顔を上げると優しく微笑むジャックと目が合う。嬉しくて涙が出そう。 そっと来夢の肩を抱いてジャックはリュウの方に向き直る。 「おめでとう」 眩しそうに目を細めて笑ったリュウに二人で「ありがとうございます」とお辞儀をした。 ずっと一緒にいられますように。末長く二人で幸せになれますように。 嵩張る想いを胸に秘めて隣の愛しい人を見上げた。 |