06.スキゾフレニアと戦うパラノイア 小林かなえが黒薔薇学園中等部に進学して間もない頃。 窓から見える満開の桜が花びらを散らすのを横目に捉えながら、かなえはひとり廊下を歩いていた。図書室に寄りたいからと一緒に帰る友人たちには先に帰ってもらっていた。中等部の図書室にはどんな本が置いてあるのだろうか。期待に胸を膨らませながら歩く。初等部の図書室の本のほとんどを読んでしまっているほどにかなえは読書が好きだった。 図書室の扉を開けようと手を伸ばすと、かなえが取っ手に触れる前に扉が開いた。 「おぉ、ごめん」 上から声が降ってきて、彼が開けたのかと納得する。 取っ手があった場所を見つめて俯いていた顔を上げて声の主である彼を見ると、目が合った。綺麗な金の目は驚いているのか丸く見開かれている。かなえはそんなに驚かれるような顔をしているつもりはない。 「か――!?」 「えっ?」 彼の口から零れたのは名前だけれど、『かなえ』ではない。聞き取れなかったその名前の人物にかなえの顔が似ていたのだろう。それにしても驚きすぎではないか。 取り繕うように薄い笑みを浮かべた彼はかなえが通れるように少し横に移動した。 「どーぞ」 「あ、すみません。ありがとうございます」 小さくお辞儀をしてから図書室に一歩足を踏み入れた。後ろを振り返ってみると、今まさに扉を閉めようとしている彼と目が合った。かなえはもう一度、今度は深めにお辞儀をする。すると彼は金の目を細めて微笑み、小さく手を振ってから扉を閉めた。 それからしばらく経って、かなえは名も知らぬひとつ上の先輩の彼に告白をした。 付き合うことになり、彼のそばで彼を見ていて気付いた。 「森山先輩」 「なに?」 「好きな人は……誰ですか?」 彼がかなえを通して別の誰かを見ていることに気付いてしまった。それは、かなえと顔が似ている人物なのだろう。そして彼はその人物が好きなのだ。聞きたくないけど聞かずにはいられなかった。 「……さあ」 彼は首を傾げて笑う。誰だろうね、と哀しげに笑った。まるで泣いているようなのにとても綺麗だった。 「探しているんですか?」 「うーん?」 「見付かるまでわたしがそばにいてもいいですか?」 「好きなだけいるといいよ」と微笑んで言ってくれたのに彼はかなえを振った。 * * * 「わたしが怪我をして、それを見た森山先輩は」 かなえに怪我をさせた女子生徒を退学にまで追い込んだ。どんな方法を使ったのかは検討もつかないけれど、学園から彼女の居場所を消したのだ。そしてそのあとにかなえは久遠に別れを切り出された。頷くしかなかった。自分が傷付くことで彼に苦痛を与えてしまうのなら、そばにいない方がいい。 「教えてくれてありがとう」 かなえの話を黙って聞いていた瀬菜は自分達はなんて無謀な恋をしているのだろうか、と笑いたくなった。もうずっと前から久遠の心は見知らぬ女に奪われていたんじゃないか。どんなに色んな女たちが頑張ってもなびかないほどに深く根強く。敵わないのか。まるで何も植えていない鉢にひたすら芽が出ますようにと水を与えているみたいだ。ないものは実らない。虚しいことをしていたのか。 どうしようもない虚無感に襲われて、息を吐いた。 「わたし、森山先輩が好き。だから幸せになってほしい」 でもどうしたらいいのかわからない、とかなえは俯いた。 そんなことは瀬菜にだってわからない。幸せの感度は一人一人違うだろうし、押し付けがましい幸せなどこちらの自己満足でしかない。久遠が想いを寄せるかなえ似の女と結ばれることが幸せとは限らない。ならば、瀬菜たちに出来ることはなんだろうか。 「あたしも久遠先輩が好きだよ。だから協力してくれる?」 にっこりと笑みを作った瀬菜はかなえに問うた。瀬菜は彼女たちとは違う。かなえを利用したりなんかしない、あくまで協力を要請するのだ。 かなえは戸惑いつつも「わたしにできることがあるなら」と頷いた。 * * * 翌日の昼休み。お弁当を食べ終えてから瀬菜は屋上に久遠を連れ出した。 冬の寒空を見上げて息を吐いた。白い。 ばふ、と瀬菜の顔に向かってなにかを投げつけられた。見事に顔面で受け止めたそれは久遠のマフラーだった。 「寒い!」 「えっ、すみません」 いや、なら何故マフラーを投げたんだ。巻いていればいいのではないか。瀬菜は驚いて条件反射のように謝った。 久遠の首にマフラーを巻こうと右手を伸ばすとマフラーを引っ手繰られ、瀬菜の首に巻かれた。 「ええぇえ!? あの、久遠先輩! なにしてんすか!?」 「あ? 寒いから」 「寒いなら自分に巻いてくださいよ! どうしてあたしに巻くんですか?」 「…………」 ぐるぐるとマフラーを巻かれたかと思うとぎゅっと抱き締められた。何が起こったのか理解する前に久遠は離れて「あったかくない」と呟いてその場に座り込んだ。そんなに寒いのか、ブレザーの下に着ているパーカーのフードを被って手はポケットに入れて三角座りをしている。その一連の行動に瀬菜はキュンと胸をときめかせつつ、彼の正面にしゃがんで目線を合わせる。 「……久遠先輩はあたしのこと、好きですか?」 こんな質問を投げ掛けても瀬菜のいちばん欲しい答えが返ってこないことはわかっている。 立場だけの空っぽの彼女。恋人と名乗ることができない一方通行な関係。どんなに足掻いても変わらないのなら、最後に嘘でもいいから、別の意味でもいいから、好きだと彼に言ってほしかった。 「好きだよ」 「本当ですか?」 「おう。可愛い後輩として」 真っ直ぐに綺麗な笑みを見せて言ってくれた久遠に瀬菜は笑みと同時に涙が零れた。 久遠は綺麗な笑みのまま、瀬菜の頬に伝う涙を拭ってくれた。ひんやりとした彼の手が瀬菜の涙で濡れてしまう。久遠は「あったかい」とぽつりと呟いた。 「ありがとうございます」 これでいい。いちばんに愛されなくたって、こっちがいちばんに愛してやる。彼の幸せを陰から願っていたい。もう充分、傍にいれたから、こんなに好きになれたから、終わりにしよう。 「久遠先輩、別れてください」 短い間だったけど幸せだったから、もう在りもしない幻覚と戦うのはやめにする。 |