28日目 白雪は元奴隷で本来ならば冥界にはいられない存在だった。ましてや冥王城で働いているなど、あの厳しい冥王様が許すはずがないのだ。では何故、白雪は此処にいられるのか。それは久遠という後ろ楯があるからだった。冥王由良は久遠を友人としてとても信頼している。彼が連れてきた妖怪だから受け入れた。ただそれだけだった。 「ちょっと野暮用で冥界どころか魔界からも離れなきゃならなくなっちゃって」 その後ろ楯がなくなろうとしている。だから―― 「灰流と白雪を婚約させてもらえるよう由良に頼んだんだ」 冥王の懐刀の妻ならば後ろ楯なんて必要ない。久遠がいなくても安全に暮らせる。 「ごめん。……灰流のことは諦めてくんない?」 久遠は泣きそうな顔で笑っていた。きっと美雨の想いも汲みたかったのだろう。大切にただ暖めているだけだった淡い恋心。どうせ美雨は元の世界に帰るのだから、最初から叶わないことはわかっていた。大丈夫。 恨むなとはこのことだったのだろうか。白雪は納得できなかったから恨むのだろうか。 * * * 今日も雨が降っていた。 薬園で作業をしながら窓の外を見る。小雨とはいえ降り続ける雨に美雨は思わず溜め息を吐く。湿気で髪がまとまらない。夏なのに。真夏なのに。 「なんで止まないの」 「時雨様が城にいる限り止まないわよ」 「えっ」 「なによ」 「白雪も時雨様呼びなんだ……」 時雨様って何者なのだろうか。 「冥界は瘴気のせいで自然に雨が降らないから雨童子は大事にされているのよ」 「数も少ないしなぁ」 その結果があれなのだろうか。美雨は時雨を思い出して少し納得してしまった。 そういえば、白雪は一昨日、昨日と隠れていたのに今日はいいのだろうか。美雨が白雪の方を窺った瞬間に、薬園の戸が悲鳴を上げながら開いた。 「白雪!!」 戸に不逞を働いたのは時雨だった。開けっぱなしにしないでください、湿気で髪が膨らむじゃないか! 美雨の切実な願いが届くことはなく時雨はずんずんと歩を進め、白雪の前に立った。 「騒がしくて品のない登場ですのね?」 「そんなことはどうでもいい。灰流と婚約するとはどういうことか聞かせてもらおうか」 「どうもこうもないわ」 一触即発な空気の二人をミケと美雨は息を潜めて見ていた。作業どころではない。 婚約者だと言い回していた白雪が別の男と婚約する。プライドが高く、傲慢な時雨が黙っていられるわけがない。修羅場か、修羅場なのかと何故かミケはすごく楽しそうだ。 白雪は自分よりも少し背の高い時雨を見上げて微笑む。美人め。 「わたくし、灰流と婚約することになりましたの。式にはお呼びしますわ。だから、拗ねないでちょうだい」 彼を呼んだら雨が降るんじゃないだろうか。 わがままな弟をあやす姉のような白雪に時雨は「ならば、もっと嬉しそうにしろ」と小声でぼやいた。白雪には聞こえていなかったようで、彼女は「なに?」と首を傾げている。 「式には行かん。白雪に雨は似合わんからな」 「気にしなくていいのよ?」 「……そうではない」 時雨はなにか言葉を続けようとしたけれど、口を閉ざして白雪を抱き締めた。 おぉ、と声を上げそうになったのを美雨は必死に抑えた。 白雪に耳打ちするために抱き締めたようだ。ミケと美雨には聞かれたくないのか。 「ふふ、ありがとう」 「ではな! オレは帰るっ」 くるっと方向転換した時雨は振り返ることなく薬園から出て行ってしまった。ちらりと見えた耳が赤かったのは何故だろうか。そして戸を閉めてくれないのはなんなのだろうか。 「さっ、仕事しよー」 ミケはそそくさと作業に戻る。白雪になにか言われる前に逃げたのか。ついでに戸を閉めてくれた。ちらりと白雪を窺うとミケを気にした様子はなく、何故か美雨を見ていた。目が合う。 「ごめんなさい」 「えっ?」 「婚約のこと」 ちゃんと話してなかったでしょ? と白雪は申し訳なさそうに言う。一応、昨日の深夜に久遠から聞いていたから驚いたりはしないけど。 「応援するようなことを言ったのに、わたくしがダメにしてしまって本当にごめんなさい」 美しい所作で深々と頭を下げる白雪。美雨はなにも言えなかった。どうして灰流なのか、時雨ではだめなのか、他に手頃な妖怪はいなかったのか、と思わなかったわけじゃない。でも、これが最善なら仕方ないんじゃないかな。 「大丈夫だよ」 いつもみたいに考えないようにして、この恋心が色褪せるのを待てばいい。大丈夫。深く考えないのは得意だから。 白雪に頭を上げさせてなんとか笑ってみせた。 * * * 午後になってもまだ雨は降っていた。時雨様はまだお帰りにならないのか。うねりながら膨らむ可愛いげのない髪を弄りながら美雨は廊下の窓から見える雨雲を睨む。髪がボサボサだから灰流には会いたくないな。 「あ」 そう思ったばかりなのに、なんというタイミングで現れてくれるのでしょう。 医務室から部屋に帰るこの短い距離なのに。前方から灰流と白雪が歩いてくる。美男美女が並んで歩いているとそれだけで絵になる。お似合いの二匹だった。 「あら、美雨。おつかいは終わったの?」 「うん。もう部屋に帰るところだよ」 「……そうか。ならば少し付き合え」 「えっ」 灰流は言いながら美雨の手を取り、来た道を引き返す。 婚約者の前で他の女を連れ出す男って……どうなんだろうか。 白雪は既にこちらのことなど気にしていなかったらしく久遠の部屋の扉をノックしていた。 この二匹は婚約したんだよね? * * * 連れてこられたのは、美雨が初めて冥界に来た場所だった。ちなみに冥王城の門を出たらお姫様抱っこでした。 相変わらず草が生えている。 「ここは魔界に近いせいか植物が育つらしい」 上空には紫の雲が浮かんでいるけど、冥王城から見える雲よりは薄そうだ。 灰流の言葉に美雨が納得していると、彼は草を掻き分けて進んでしまう。美雨は慌てて追いかけた。 「……久遠がここに花を植えたいと提案して、下見に行った日に美雨が倒れていたんだ」 試作だろうか。控えめに花壇が作られていた。美雨が来た時にはなかったから久遠が地道に作っていたのかもしれない。 「なんの花を植えたの?」 「まだ植えていない」 「えっ?」 灰流を見上げると困ったような顔をしていた。何故。 「美雨が選んでくれ。ここに植える花を」 「わたしが?」 「ああ」 美雨が異世界から現れた場所に美雨の選んだ花を植える。美雨が自身の世界に帰っても、灰流は花の世話をしながら美雨のことを思い出してくれるのかな。ここに来る度に、美雨がいた1ヶ月を思い出してくれるのかな。そうだと嬉しいな。 「じゃあ、考えとくね!」 「よろしく頼む」 自然と緩んでしまった表情のまま返した言葉に灰流は微笑んでくれた。 * * * 冥王城に帰ってくると、まだ雨が降っていた。時雨様はいつ帰るのだろう。 城内に入ると、ばたばたとみんな慌てた様子で騒がしかった。なにかあったのだろうか。 「灰流様! あっ……えーっと……」 一匹の妖怪が灰流を見付けると駆け寄ってきた。だが、美雨を見て口籠もる。灰流は首を傾げてから少しして気付いたらしく、美雨を見た。 「すまない。真っ直ぐ部屋に帰ってくれ」 「うん」 二匹に会釈をしてから部屋に戻るべくその場を離れた。 * * * 夜。いつもは魅麗が晩御飯の準備をしてくれるのに今日は違う子が来ていた。 「あの!」 「魅麗のことならば詳しくは聞かされておりませんのでお答え出来ません」 「そう、なんだ。……そっか」 以前に来た子は言葉が通じなかったが、今日の子は堅苦しい言葉遣いで圧倒されてしまう。もしかしたら妖怪たちは異世界人には関わりたくないのかもしれない。魅麗はどうしていないのだろう。なにもないといいのだけれど、どうしても不安は拭えなかった。 |