光に問う | ナノ

∇ 光に問う


「――っ」
 にわかの覚醒は、降谷の背を大きく撓らせた。目蓋の裏、残像よりも強く鮮やかに弾ける閃光に眩んで、眉を顰める。よく見知った浮遊感だった。一瞬間遅れて働きはじめた脳が理性を手繰り寄せようとするものの、ひとたび解放を許してしまった後ではうまくコントロールがきかない。熱く溢れるそれを引き止められずに、次々と押し寄せる波に弄ばれ、身を震わせる。その都度に息を詰めた。
 特有のだるさが、重力となって戻ってくる。恐る恐る開いた視界に飛びこんだのは、浴室のタイルではなく乾いた天井で、闇をはね返すのっぺりとした白の無表情がいっそう恥じらいを煽った。
 首を捻ってとなりを見やる。しどけない唇を晒して横たわる春市の胸元がゆっくりとやわらかく上下しているのが、唯一の救いだった。かりそめの安堵に詰めた息を吐きだす。このままなかったことにしてしまおうかという考えが過ったが、しとどに濡れた箇所が冷えてどうにも居心地が悪い。
「……」
 忍び足で布団を抜けだし、脱衣所で着替えを済ませた降谷は、汚れた下着の処置に情けなくも困窮していた。
 いくらなんでも洗濯機の横のバスケットに直接放り込むわけにはいかない。これだけでも洗ってしまいたいのに、思い出すのは「夜の九時より後は近所迷惑になるから洗濯機は回しちゃだめだよ」という春市の言葉だ。壁を隔てた住人よりも誰よりも、ドアの先で寝息を立てている春市に見つかりたくなかった。そもそも、洗剤の箱がどこにしまってあるのかわからない。寮に暮らしていたころはおざなりにも自分でこなしていた洗濯も、この生活が始まって以来、任せっきりにしていた。手洗いという上等な手段は脳裏を掠めもしない。掠めたところで、今度は干す場所に困窮するだけである。
 寝衣代わりの長袖のTシャツとまとめてくしゃくしゃにして袋に突っ込む。くたびれたスニーカーを無造作に履いて内緒で飛びだした夜の街を、適当に被ったパーカー一枚で切り裂くのは少し心許なかったが、目覚めたきり掠れている現実をたしかに感じるためには、これぐらいに冷たく尖った風がちょうどよかった。星空の下での走りはあのころを彷彿させる。
 終電もなくなった時間帯の、がらんとした通りの途中に、蛍光灯の光で満ちたコインランドリーがぽっかりと浮かんでいる。実際に使うのは初めてだったが、夕飯に刺身が出る日には決まってスーパーとは別個に訪れる昔ながらの魚屋と軒を並べているため、ここにあることだけは記憶に刻まれていたのだ。まばゆさに目を細めつつ、降谷は足を踏み入れた。24時間営業といえど、洗濯をしている者はひとりもいない。袋の中身を機械へ放り、コインを投入すると、ごうごうと動きはじめる。
 ここを定期的に利用するこのあたりの誰かが置いていると思しき風貌の、クッション部分に穴の空いたパイプ椅子に腰を下ろし、少ない衣服が丸い窓の向こうで泡とともに回るのをじっと眺めた。
 乾燥機に入れ替え、残り時間の表示が10を切ったころ、新たな客がやってきた。無精髭を蓄え、ジャージの上下に便所サンダルという出で立ちの男は、降谷よりもいくつか年上に見える。かごに溢れんばかりの汚れ物を抱えてはいるものの、焦点の合わない目がまるで夢中遊行である。降谷の姿を認めても、挨拶も軽い会釈もなく眼前を通りすぎ、慣れた手つきで洗濯機を操作する。
 ごうごうが二倍になると、男はおもむろにポケットからPSPを取り出した。モンスターでも猟って待ち時間を潰そうという算段なのだろう。椅子はひとつしかない。新参者の降谷は、席を立った。気を利かせたわけでも、もしやこの椅子はこの男が運び入れた備品なのではと憂慮したわけでもない。ただ、得体の知れない人間と狭い空間を共有するのが面倒になったのだ。ふらふらと入り口の脇に蹲った。
(さっきの、夢)
 温風に舞うシャツや下着、上空に瞬く星に視線をやらず、こうして地面を見つめていると否でも応でも考える。はっきりとは覚えていない。素人がホームビデオで撮った映像のようだった。ひどい手ぶれ、その上対象が近すぎて、全貌が一度も明らかにならなかった。布擦れの音がしきりにしていた。シーツを蹴り上げ、苦しげにもがいていたのはきっと、春市だった。
 春市が夢に現れることはたまにある。そういった夢の残滓は、微睡みをたゆたう降谷の意識をほんわかと包みこむ。あんな風に跳ね起きたことは、これまでになかった。ましてや、欲を放っていたことなど。
 本能は、夢の内容をとうに察知していた。だからこそ果ててしまったのだ。しかし肝心の本人はいまだ理解できずにいる。
(……あ)
 そのとき、道路脇の段差に沿って颯爽と進む影が、思考を途切れされた。闇に融ける色の艶やかな毛並みに覆われた猫は、行く先を阻む降谷の注意が自身へ向いているのに気づくと、警戒し歩を止めて様子を窺う。降谷は手を差し伸べ、誘き寄せようと小さく舌を鳴らした。猫がじりじりと距離を詰める。
 同じ匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない、いったんてのひらに飛びこんだ猫は妙に懐っこかった。撫でるまでもなく、向こうから顔をぐりぐりと押しつけてくる。なにも巻きついていない首に指先を滑らせて、喉元をくすぐる。ごろごろと言いつつしばし細めていた目をだしぬけに、開いた。
 黄と緑のあいだの虹彩に、はっと虚をつかれる。
 コインランドリーから漏れる明かりを受けて窄んだ瞳孔が、燦然と光る範囲をますます広げる。闇にしか馴染むことができないと知ってもなお諦めず、生きている輝きをすべて眸に託しているかのようだった。影に似た姿は、この眸を以てまごうことなく光に存在する。降谷を見上げるそれらの貫く視線が、なにかの意味を孕んでぱちりと爆ぜた。
「!」
 狼狽の冷めぬうちに、猫はふいと顔を逸らした。そしてなにごともなかったかのごとく、ふたたび颯爽と消えていく。最後の尻尾の揺らめきを、降谷は唖然として見送った。
 無精髭の男は知らせてくれるはずもなくせっせとゲームに勤しんでいたが、降谷の衣服を載せた乾燥機の回転は数分前に止んでいた。

 忍び足で抜けだした布団へ、忍び足で帰る。
 自室のドアをそっと開きわずかな隙間から中を覗けば、春市は数時間前と寸分変わらない仰向けで眠っていた。ベッドの側に跪き、あわよくばあのしどけない唇に触れようと、通り句にそっくりと倣って幼気な寝顔を盗み見る。
 ところが立ちのぼったのは安堵どころか、焦りにも近い強烈な後ろめたさだった。果てるのを、誰かに見られたことはない。だからこそ自分以外の誰かのいる空間で果てたのに恥じらいを覚えたし、その誰かである春市に見つかりたくなかった。どうにか見つからずに済んだいま、じわじわとこころを蝕むのは、さらに根本的なことを叱責する罪の意識である。
 いったい夢で春市になにをしていたのか。わからないまま、胸の奥に塩水を流し込まれたような感覚に苛まれる。ここに巣くう恋慕に、ただならぬ変化が起こっているのが、寄り添えば寄り添うほど顕著になる。隠すのもむずかしくなってきている。しかし離れていては、やはり淋しいのだ。
 手を握ることすら叶わず、降谷はいそいそと壁際のシーツの余白へ身を滑らせた。



おわり


夢精ネタでした。鈍い降谷くん。2013.03.26

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