月と黒猫 | ナノ

∇ 月と黒猫


 春市が目を開けたとき、群青はいまだしっとりと息衝いていた。吸いこんだ空気は、物音ひとつ含まず切れがいい。闇に広がる雲が不意に途絶え、月の皓々と照るがごとく、夢から醒めるには早すぎる時間に眠りが忽然とどこかへ行ってしまうことがある。
 布団の下でいい塩梅にあたたまる空気に冷たい周囲のそれが混ざらないよう注意を払いつつ、ごそごそと身を起こしベッドヘッドに凭れる。ついこのあいだまで、エアコンがオフになってはぶり返す暑さに、しつこい薄手のブランケットを無意識のうちにはね除けていたというのに、季節はすっかり秋である。
 無理に目蓋を閉じて過ぎた眠りを追うのが意味のない行為であることを、春市は知っている。眠るのはいっそのこと潔く諦めて空の白むまでとっぷりと、いつもならば考えもしないことに思考を浸すのは、こんな秋の夜にはうってつけ、有意義な選択肢のひとつだった。たとえば、今ここにいる理由を問うてみる。馴染んだ日々も残りわずかという時期のとある放課後、吹きつける強い風にも負けず、屋上のコンクリートに頑と居座った、卒業して会えないのは嫌だ、毎日会えないのは嫌だという我が侭を思い出す。あれは、たかが半年ほど前の出来事だ。
 言い放った張本人はすぐとなり、なんとも穏やかに眠っている。姿をはっきりと捉えることができなくても、あの頃よりも近い気配が、春市にそこはかとない安堵を与える。カーテンの隙間から月明かりが差している。艶のある黒髪が仄めくのに惹かれ、指先をくぐらせようと手を伸ばした。
 走った違和感に、束の間の安堵がこわばる。
(……!?)
 さらりとした髪とは似ても似つかない感触に驚いて反射的に引っ込めた手をまじまじと見下ろす。ここに集中する神経がきちんと働いていて、残っている感触が気のせいでなければ、触れたのは、まるで動物の毛だった。この部屋に暮らしているのは降谷と春市のふたりだけで、動物は飼っていない。強いて挙げるならば、壁を一枚隔てた向こう、キッチンの冷蔵庫に貼りつけてあるカレンダーの中に、十二匹の微睡む子猫を飼っているが、彼らは勝手にベッドに上がりこむ自由は持ち合わせていない。
 にわかに鼓動が速まるのを自覚しつつ、目を凝らす。壁のほうを向いているものの、降谷の後ろ姿であることには違いなかった。枕に沈む頭部は、やはりあの髪に覆われている。
 ただ、その途中に見慣れぬものが飛びだしている。三角に尖っているそれは、まさしく猫の耳だった。恐る恐る、あやふやな軌道を描く人差し指でちょんとつついてみる。そのままふちを辿ってみる。指の腹は、ほんのりとした温度と髪よりも柔らかな毛並みを感じ取り、それがまやかしではないと伝える。
 些かも信じられずに春市は身を乗り出した。眠っているあいだに誰かがいたずらで付けたのだろうか。しかし誰が、なんのために。そもそも取り外せるものなら、血が通っていると言わんばかりの温度はどう説明したらいい。寝惚けているのではないか。そう考えると辻褄が合う。ところが、最有力の寝惚け説は皮肉にも、この状況をうまく解釈しようとめまぐるしく回転する思考そのものによって打ち砕かれる。
 狐につままれた心地で、猫の耳をつまんだ。とたんに持ち主である降谷がむくりと起きあがる。
「わっ」
「……」
「ごめん、起こしちゃった」
 丸めた手で目元を擦る。そんな日常の仕草ですら、やたらと動物じみている。髪から飛びだしている耳は当然――この状況を認めるという難関を乗り越えてはじめて成り立つ「当然」ではあるが――ふたつ付いている。左右それぞれが微妙に異なる方向を向いていて、春市の声と人には聞こえぬ夜の音、その両方を同時に捉えようとしているかのようだった。
 そして視線が合う。降谷の双眸がぴたりと止まり、おぼろなそれに明かりが灯る。ぴん、と弾く音が聞こえてきそうな反応だった。髪や耳と同じ、暗がりによく馴染む色の眸とそこに白く浮かぶ光は、窓の外に広がっているであろう空と月を彷彿させる。それらの示す感情を覗きこむ暇もなく、次の瞬間には春市は長い両腕に捕らえられていた。首すじに寄せた鼻が深く息を吸いこむのがわかって、ほんの少し身じろぐ。べったりと押し付けられた体温が熱い。
「降谷くん?」
 寝起きになにも言わずに抱きすくめられるのは、ことさら珍しいことではない。もう起きなくちゃ遅刻するよ、と告げる春市に駄々をこねるように縋りつく。胸元に顔を埋め、じっとそこに居座ること数分、ぐりぐりともがいてようやく離れる。目をしばたたかせながら春市を見上げるのだ。
 しかし、この抱擁はそれとは違う気がしないでもない。駄々をこねているというよりは、長い空白を経てついに果たした再会の必死さが窺える。なぜ会いにきてくれなかったんだ、という不満が締め付けをいっそう強くする。聞きたいのはこっちのほうだと春市は嘆息した。会いにいくもなにも、今いる空間こそがふたりの住処だ。この生活がはじまって以来、降谷ほど長く時をともにしている人は他にいない。と、そこまで考え、ここでの降谷が猫の耳のついていない通常バージョンであると特筆するべきことに気づく。そもそも猫の耳バージョンとは一体全体。
 降谷の後ろで揺らめいたなにかを、春市は咄嗟に掴んだ。
「痛……」
 直後、首すじに軽い痛みを感じる。手の中のそれが尻尾であること、掴んだのが気に食わずに噛まれたことを理解するまでそう掛からなかった。ひるんだ隙に尻尾はするりと自由を取り戻し、独自の意思を持っているかのごとく妖艶にさ迷う。怪我をするには到底及ばないにしても、降谷が春市を傷つける行動に出たのが悲しくて、胸元に置いた手でぐいと押し、降谷を遠ざけようと試みる。
「んっ」
 抱きしめられていては、取れる距離もたかが知れている。背けた頬を今度はぺろりと舐められる。体温のわりに、舌はひんやりとしていた。優しくねんごろにてのひらを滑らせる、もしくは口づける。普段ならば、こんな風に頬に舌を這わせたりはしない。戸惑い、顔を背けたままそっと横目を遣えば一度目よりも確と長く、視線が絡まる。そこに映っているのは、静かに燃える慕情、執着、それから。
 言葉が欲しいと、切に思う。通常バージョンであろうと降谷は多弁ではないが、不器用ながらに短い台詞を紡ぐ。単純な言葉の組み合わせはときに、あれやこれやと装飾を付け加えた長い文より遥かに如実に感情を伝える。
「降谷くん」
「……」
 返事はない。代わりに全身で春市にしなだれかかる。支えきれずに降谷もろとも柔らかなシーツに帰還する。頑丈な肩越しに仰ぐ天井はどこまでも高いのに、物理に逆らって浮きあがる心地がする。眩暈に見舞われているのかもしれなかった。
 首の付け根に降谷が擦り寄る。おずおずと背に手を回しゆっくりと撫でれば、まっすぐに伸びた尻尾がそれに合わせてしなやかに撓む。やがて首すじにあの舌を伝わせはじめる。歯を立てた箇所をしきりに舐めていたわる様子は、あたかもさっきの愚行を詫びているかのようである。肌の下をぞわぞわとした感覚が波紋を描いては広がってゆく。指先や、つま先、さらには思考までもを侵食する。触れられるその都度、神経が研ぎすまされて敏感になる一方で、複雑な模様のこころは滲んで曖昧になる。
 それでも、なめらかな舌や湿っている呼吸、くすぐったい髪の先以外のすべてがはっきりとしないままというのはなんとも心許ない。愛撫が耳にまで至ったとき、味わったことのない大きな波が押し寄せ、混ざり合った心境がいよいよ恐怖へと色を変えた。撫でていた手はいつしか、シャツを握りしめている。
「降谷くんっ」
 なんでもいいから聞きたかった。この際、なんの説明にもならないにゃあのひと言でもいい。春市はきつく目を瞑った。

 次に目を開けたときにまず飛びこんできたのは、降谷の閉じた目蓋だった。ぼやけるほどに近い距離に、口づけているのだと理解する。かみ合わない記憶を慎重に手繰り寄せ、どうにか繋げようとするのを、降谷が唇を食んで阻む。口づけに集中していないのを察して嗜めているつもりなのだろう。そんなかわいい刺激では、ほんの戒めにもなりやしない。
 突如思い当たり、春市は降谷の髪に指をくぐらせた。さらりとしたそれを梳き、項に触れる。それから背中、腰まで辿る。手の流れに逆らうものは、なにもなかった。ぴんと立った猫の耳や尻尾も含めて、である。それらがまさにあったあたりを探ってみるも、手は空を切るばかりだ。
 手の動きを不審に思った降谷が疑問符を浮かべ、中断する。
「春市……?」
 聞き慣れた声が紡ぐ名前に、こわばっていた安堵がようやっと本来の意味を成す。春市は自ら降谷の唇に小さく吸いつき、つづきを促した。


 
おわり

マッカさんとお話していた、ふるにゃん。これ、つづきます。2013.02.25

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