チョコレートの末路 | ナノ

∇ チョコレートの末路


 ここまでねだってだめなら、もう見込みはない。いよいよ前日に差し迫り、倉持はようやく諦め、そして決意する。
(こうなったら俺があげるしかないか……。ほんとは欲しかったけど、なんにもないよりはマシだ)
 バレンタインのチョコレートである。
 いつからなのかは定かではない。少なくとも倉持が産まれるよりも前から、バレンタインは恋人同士が祝う代表的なイベントのひとつとして根づいている。恋愛に費やす興味などこれっぽっちも残っていなかった幼少の頃ですら、その日にもらう菓子がただの菓子ではないことぐらいは知っていた。
 二遊間コンビの片割れ、ひとつ年上の先輩。グラウンドを夢中で駆け汗を流すうちに、純粋だったはずの尊敬に恋心が差した。意地を張っては意気地をなくしを呆れるほどにくり返しながら、やっとのことで大学生に追いつき、恋人としての立場を確固たるものにした今、亮介とすごすバレンタインに強い憧れを抱いてしまうのは、倉持からしてみれば仕方のないことである。
 もらうのは、やはりチョコレートがよかった。立派なものでなくていい、コンビニに売っている板チョコでも、チロルチョコのひと粒でもいい。誰でもない亮介からのあまいチョコレートに頬と心を溶かし、劣らぬあまい時間をすごせれば万々歳だ。
 同じ男にチョコレートを求めるのは、果たして間違っているのか。かわいい後輩として近づくことを許された範囲のふちに聳える見えない壁を体当たりで叩き割ると決意した瞬間に、道徳云々に関する悩みや迷いは消し飛んだはずだ。皆の前でやり取りをするならともかく、気心の知れたふたりがいつもの部屋でひっそりとバレンタインを祝うのに感じる抵抗など、今さらあってたまるものか。というのが、倉持の言い分である。
 なにも言わずに期待をするのが不公平であることは重々承知している。だからこそ何週間も前からことある毎に直接亮介に相談し、ねだってきた。ほのめかす、どころの話ではない。バレンタインに亮さんからチョコが欲しいです、の直球を何度も飽きもせずにぶつけた。
 議論の片鱗が記憶に蘇る。
「俺、バレンタインに亮さんからのチョコが欲しいです」
「またその話?だからなんで俺なんだよ」
「そりゃあ、亮さんが俺の恋人だからに決まってるでしょう」
「俺男なんだけど。そんなに欲しいなら彼女作れば?」
「なっなに言ってんすか!亮さんだから欲しいんです」
「だいたい、そんなに何回もくださいくださいってねだってもらってうれしいわけ?」
「めちゃくちゃうれしいです」
「ふーん。でも、俺男だから」
「チョコ……」
「しつこい」
 重ねた努力も虚しく、頑な姿勢は昨日になっても、ついに崩れることはなかった。それ以上言うならしばらく会わない、の最終警告を突きつけられ、渋々口を噤んだのである。しかし、物は考えよう。あれだけしつこく欲しいと言いつづけた倉持が、まさか当日になってチョコレートを用意してくるとは、さすがの亮介だって予想だにしないだろう。珍しく当惑し照れる表情が拝めるのなら、渡すのもそんなに悪くはないかもしれない。そう思い立ったら、俄然やる気が湧いてくる。
(どうせ渡すなら、普段は食わないうまいやつをあげたい)
 普段は食わないうまいやつ、がいったいどこで売られているのか、そもそもどれがうまいのか、携帯のブラウザを駆使して突き止める。そして辿り着いたのは、倉持の地元からも大学からも、さらに亮介のアパートからも離れた、縁遠い路線上の降りたこともない駅に併設されたファッションビルの地下一階だった。ここならば知人や亮介本人に出くわすことは、まずない。
 さまざまな洋菓子ブランドの店舗が軒を連ね、ずらりと並ぶガラスのショーケースには、芸術品さながらに整ったケーキ各種が飾られている。プラスチックのケースに個別包装されて売られているコンビニのケーキとは格が違うことは、素人の倉持の目にも明らかだ。色とりどりのマカロンタワーに、食えるのかよ、と思わず呟く。自分の暮らす世界とはあまりに異なる、やけにはしゃいできらきらと輝く空間に無意識に眉根を寄せつつ、さきほど調べて目星をつけたチョコレートの専門店を目指した。
 チョコレートだけあって、色調は落ち着いているものの、そこもまた異世界には違いなかった。チロルチョコ以外のチョコレートがばら売りされているのを見るのは、はじめてだった。コッペリア、ドゥシェス、フィアンティーヌ、名前を片言に読んだところでなんのことだかわかりやしない。
 首を傾げたまま、その下の値段を一瞥する。そうか、と納得しかけて走った違和感に再度確かめ、瞳をまんまるくする。ゼロがひとつ多い。チロルチョコ10粒以上のなにかが、このちっぽけな糖分に押し込められているらしい。アルバイトをしているお陰で自由に使える金はいくらかあるし、年に一度しか来ないイベントを亮介とすごすために出し渋るつもりも元よりない。チョコレートひと粒にこれだけの値段がつけられていることに対する、単純な吃驚だった。
 場違いな雰囲気に緊張しているうえ、目的も目的、ショーケースの向こうに佇んでいる店員にあれやこれやと訊ねるのは気が引ける。説明を聞いて、フィアンティーヌよりもコッペリアにするべき真っ当な理由を発見できる自信もない。洒落たデザインの丸や四角の行列を見つめしばし考えこんだのち、人気やバランスを考慮して選られた、詰め合わせの箱を買うほうが賢明だという結論に行き着く。
「すいません、詰め合わせをひとつください。バレンタイン限定とかいうあっちのやつじゃなくて、こっちのふつうのほうで。あっ、けど人にあげるもんなんで、ラッピングはそれなりにお願いしやすっ」
 最後はなぜか沢村口調になってしまった。
 ありがとうございます。そう応えた爽やかな笑顔に、バレンタインではないというごまかしは余計であることに気づく。同世代の、しかも女の店員だけに、余計に決まりが悪い。客のほとんどはプレゼントとして買い求めるのだろう、箱もはじめからきちんとラッピングしてあるようだった。粗の目立つ台詞に少なからずへこむ。この店員と顔を合わせることは恐らくこの先しばらくない、そのための遠征ではないか、と自分に言い聞かせ、なんとか取り直す。
 釣銭を財布に収めたちょうどのタイミングで差し出された紙袋をむんずと掴み、そそくさと店を後にする。斯くして倉持のチョコレートを巡る冒険は幕を閉じた。


 最終警告を突きつけられた以上、バレンタイン、チョコレートといった類いの単語が厳禁であることはわかっていた。なにげなさを装ったいつもと変わらぬ文面で、アパートに寄ってもいいかとメールを送る。
 気まずいまま別れた昨日の今日でどんな反応が返ってくるのか多少の不安はあったが、亮介は存外にあっさりと逢瀬を認めた。3限で終わりだから大学まで迎えに行ってもいいですか、とつづけざまに送れば、そうしたいならそうすれば、と返ってくる。すっかり浮かれたこころを棚に上げて、亮介もなんだかんだ浮かれているのではないか、とわくわく訝ってみる。しかし油断は禁物だ。
 高校時代の野球部の仲のいい後輩が遊びにきた、のひと言で済む。野球部の仲のいい後輩だからこそ、想いを自覚したときには大いに悩んだものだが、いざ恋仲に陥ってみればこれほど好都合な言い訳はない。もしも倉持が睫毛の先からぱちぱちとハートマークを放ついたいけな女だったならば、大学まで迎えにいくことなど許されはしなかっただろう。亮介は、不特定多数の前で隙を見せることを極端に嫌がる。
 メニューや食券のシステムが微妙に異なるカフェテリアを訪れるのは、これで4度目になる。午後の半端な時間、人はまばらだが、倉持の知っている顔はひとつも見当たらない。亮介はここで日々昼食を摂っているのか、と4度目の感想をしみじみと抱きながら、長い道中で空いた小腹をプリンで満たしていると、不意に後ろから声が掛かる。
「うまそうなもん食ってんじゃん」
「!?」
 ぱっと振り返る。去年の秋、いっしょに買い物に出掛けたときに購入した、馴染みのコートに身を包む亮介がそこに立っている。涼しい笑顔が相変わらずかわいい。
「あ、亮さん!お疲れっす」
「そっちもお疲れ。なんか見たら俺も食いたくなっちゃった」
 今プリンを食べて、チョコレートが食べられなくなったら大問題である。まだはんぶん残っているそれを慌てて掻き込む。
「俺、もう食い終わったんで!帰りましょう」
「今思いっきり掻き込んだよね?」
「いやいやいやいや」
「見たんだけど」
「プリンなら亮さん家の近くのコンビニで買って帰ればいいじゃないですか。今日は夜すげー冷え込むみたいですから、日が落ちる前に帰りましょう」
「……まあなんでもいいや」
 どうにか丸め込まれてくれて、ほっと胸を撫で下ろす。
 ところがうまく事が運んだのもここまで、帰路を進めば進むほど、亮介の機嫌は下降していく一方だった。盛りあげようとたのしげな話題を振っても、にべもしゃしゃりもない返事ばかりで会話にならない。あまえるようにふざけてみても、チョップのひとつすら落ちてこない。ぴんと尖った空気を纏い押し黙る亮介の白い頬をちらりちらりと盗み見ながら、そんなにプリンが食べたかったんだろうか、と考える。元ルームメイトのふたりならいざ知らず、亮介に限ってそんなことがあるはずがない。油断をして禁句を口走った覚えもない。まったくのお手上げ状態だった。
 無言のまま電車を降り、例のコンビニの前を通り過ぎる。
「亮さん、プリンは」
「いらない」
「そうですか……」
 ここまで不機嫌にさせることは滅多にない。理由もわからないまま、チョコレートをスマートに渡せるのか以前の問題にどうやら直面しているらしい。半歩後ろを歩きながら、内心頭を抱える。
 アパートまであと数分、というところまで来て鋭い視線に射抜かれた。
「てゆうか、倉持お前もう帰れよ」
「は!?」
「帰れっつってんの」
「そんな亮さん放って帰れません」
「帰れ」
「帰りません」
 残りの道中は、帰れ帰らないの押し問答のくり返しだ。
 細く開いた部屋のドアにさっと身を滑らせる。背後の倉持を残してすばやく閉じようとするのを、咄嗟につま先をねじ込んですんでに阻止した。スニーカーを履いているとはいえ、勢いよく挟まれれば当然痛い。しかし、心底焦る倉持に痛みを感じる余裕はもはや残されていない。ぶつかった際の派手な音にも動じない姿にひるんだ隙を逃さず、玄関に押し入る。閉じたドアに押しつけ、さらには両腕で囲って逃げ場を奪い、どうにか覗きこんだ亮介の表情は、怒っているよりも泣きそうと表現するほうが正しい。泣きそうなのはこっちだと倉持は唇を噛む。
 大きく息をついて絞り出した声は、かすかに震えている。
「俺はバカだからっ……、ちゃんと言ってくれないとわかりませんよ」
「……」
「なんで怒ってるんですか」
「怒ってない」
「怒ってるでしょ、どう見たって!」
「……」
「俺が原因なのはわかってます」
「この、自意識過剰」
「……すいません」
「そうやっていつもへこへこしやがって」
「すい、……気をつけます」
「言い方変えたって無駄」
「はい」
「俺じゃなくたっていいんだろ」
「それは、違います」
「嘘つき」
「なんでそんな、急に……」
「背中からちらちら見えてんだよ」
「え、なにが」
 ぼふ。勢いよく顔にぶつかってきたなにかに阻まれ、視界が突如暗くなる。靴の上に落ちたそれを慌てて拾いあげる。半透明のプラスチック袋に包まれた、デニッシュだった。なんでパンなんだと疑問に思ったのは一瞬、横からはみ出している中身に、ここまでもつれこんだ経緯が倉持にもようやっと明らかになる。デニッシュをつぶさないように気を回しながら、反対の手で今にも逃げ出しそうな亮介の手首を掴む。
「それ、亮さんのです。もちろん俺から。俺、誰からももらってないっすよ」
「……」
「んでもってこれは、亮さんから俺に、ですよね」
 泣きそうだった表情が悔しげに歪み、白い頬にじわじわと赤が滲む。苦い表情でさえ、倉持にとってはあまい。
「っ、さんざん人にねだってたくせに、なんで倉持が持ってくんだよ」
「せっかくバレンタインなのになんもないなんてさみしすぎる、って思って」
「……」
「亮さんこそ、ぜんぜん聞く耳持ってくれなかったくせに、結局持ってきてんじゃないですか」
「あんだけしつこく言われたら、無視……できるわけないだろ」
 ぐいと力を込めて引き寄せる。押しつけた背をさすりつつ、首すじに顔を埋めた。誤った憶測からきた嫉妬心があれだけ亮介を怒らせていたのだと理解して、感情が速度を落とし、優しいものへと変わってゆく。嫉妬心は、独占欲の影のようなものである。ひとりじめにしたいと思わなければ存在することはなく、ひとたび目覚めれば振り払うのは容易ではない。いつもはさばさばと振る舞う亮介にもしっかりとそんな欲が芽生えていたことを、よりにもよってバレンタインに思い知らされる。
「めちゃくちゃ、めちゃくちゃうれしい」
「……知ってる」
「背中、痛かったでしょう。ごめんなさい」
「バックパックのジッパーぐらい、ちゃんと閉めろ」
「はい」
「……さっきの、足」
「だいじょうぶです。それどころじゃなかったですから」
 喧嘩の終止符を打つのは、口づけ。目の前のこの人をどうすればいっぱいに満たせるのか、痺れる頭で懸命に考える。
 チョコレートの詰め合わせとチョコレートデニッシュの末路を知るのは、ふたりだけである。



おわり

しよさんから頂いたやきもちというかわいいテーマに、季節もののテーマであるかわいいバレンタインを足しました。ダブルかわいい!2013.02.08

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