∇ フェード・アウト 渦巻く緊張に、図らずしてごそ、と動いた腕を厭うこともなく、亮介はそこに頭を預けている。倉持は参ったと言わんばかりに天井を仰ぎ、気づかれないよう細く息を散らした。ばくばくと騒がしい内側と、あたりの静けさが肌の表面でせめぎあっている。紙をめくる音がやけに鋭く鼓膜を叩く。 予想とは違う方向に転んだ、希望通りの展開だった。部屋でふたりきりになるのは、今回で三度目になる。触れそうで触れない距離や読書に勤しむつれない態度がもどかしくて、どうせ相手にもされないだろうとなかば投げやりにソファの背に腕を沿わせたら、亮介があっさりと体を寄せてきた。そうなれば今度は舞いあがったきり、一向に落ち着かない。事実、降参の宣言ならぬ、コーヒー淹れますの宣言とともに席を離れてしまうのは、時間の問題だった。持ってあと五分、というところだろう。 身も蓋もない辛辣な言葉に負けを喫するのならば、まだいい。俯く耳や項、触れている部分から急速に広がるわずかに低い体温、むき出しのくるぶし。自分から仕掛けておいて、倉持はそんなものに今にも負けそうになっているのである。 暴れることで頭がいっぱい、そっち方面といえば、他人の色恋を笑い飛ばしたり、雑誌で微笑む柔らかそうな女の子を眺めてにやにやするだけで満足しきっていたあの頃の自分にいろいろと教えてやりたい気分だ。心底惚れた恋人に気安い口づけひとつ落とすことのできない今の自分を知ったら、苦虫を噛みつぶしたような表情をするに違いない。 指を丸めて肩を掴み、顔を数センチ近づけたとき、俯いていた亮介が本から視線を外し、こちらを射抜く。 「なに、キス?」 「えっ、いや」 「なんだ、違ったんだ」 「いや!」 「……すんのしないの?」 「しま……す」 「ん」 差しだすように目蓋を閉じる。ふだんは付け入る隙など少しも与えないくせに、いたずらになってみたり、無防備な表情を晒してみたり、こういうときの亮介はずるい。目蓋を閉じていてもなぜだか見られているような、そしてこころの中でくすくすからかわれているような気がして、倉持は視線を泳がせた。 太腿を軽く抓られる。 「気散ってない?」 「へ!?」 見えていなくても、亮介にはわかるらしい。失礼します、と脳内で呟き、空いている手の親指を目元の繊細な肌に滑らせれば、口づけのことしか考えられなくなる。ふんわりと閉じた唇やすっきりとした眉が描く孤がきれいだ。張り巡らせている強気の殻を剥がした顔は、ひとつ年上であるにも関わらず幼い。恋人になっても変わらない尊敬と、めちゃくちゃにしてしまいたい衝動の落差にいっそう高鳴る。 頬に添えたてのひらで耳の後ろを撫で、襟足で弾む髪に指先をくぐらせつつ項にたどり着く。横に並んで腰掛けていたはずなのに、いつの間にか向き合っていた。脇腹に引っかかる亮介の手の存在にふと気づき、ひどくほっとする。突っ走るあまり周りが見えなくなりがちな倉持が、ひとりでないことを自覚し、亮介を近くに感じるのはこんなときだった。出会ったばかりはあんなに遠くにいた人が、今はほんの弱い力で縋ってくれている。亮介が誰かに縋る確率を想像して鼻の奥がつんとするほどには、熟知しているつもりだ。 額を擦り合わせ、そしてとうとう触れる。溶暗したのは、なにも呼吸ばかりでない。あれだけ騒いでいた意識も、めまぐるしい思考も、世界を形づくる線さえもが滲みだし、ぼんやりと気が遠くなる。 おわり ふるはるのルーペに相応するお話。2013.01.23 main . |