泣いたり笑ったり | ナノ

∇ 泣いたり笑ったり


 やっとのことでアルバイトを終え、ウェイターの制服から私服へ着替えた降谷は、だらだらとした歩調で薄暗い廊下を歩く。グラウンドでフルに動いた後の疲労とは異なる倦怠が身体を包んでいる。オーダーミスなどの細かい失敗はあったものの、店長の大目玉を食らうことなく、なんとか今日のシフトを切り抜けた。
 従業員専用の出入り口の重い扉をぐいと押せば、建物の群れの向こうに広がる見事な夕焼けが視界に飛びこむ。橙から紫にうつろうグラデーションは、ひつじ雲の群れまでもを淡い桃色に染める。それらは一見不釣り合いな都会の風景とうまく溶けあって、独特の情緒を漂わせている。明日もいいことあるさと微笑む光が沁みいる感覚に意識を委ね、しばしその場に立ち尽くした。たとえば今まばたきをする。ゆっくりと目蓋を持ちあげたとき、あの居心地のいい部屋のリビングに瞬間移動していたらいいのに、などと現実から逃避しているさなかに、ポケットの携帯に電波が落ちてきた。
 返信を怠ってばかりいる降谷が日々受け取るメールの件数は、決して多くはない。況して着信となれば、相手は限られる。
「もしもし」
『降谷くん?』
「……」
 予想通りの相手である春市の声に、わずかな違和感を覚えた。取り立てるほどのものではない。もしもし、と答えてから話しはじめるまでの間がほんの少し短かった。声音がほんの少しささくれていた。そしてほんの少し早口だった。どれも思いすごしだと言われたら反論のしようがない程度の差だ。受話器越しでも伝わる微妙な雰囲気を察した、と説明したほうが手っ取り早いのかもしれない。
『今、どこにいる?』
 質問の内容に、疑惑が確信へ変わる。外で待ち合わせでもしていない限り、ふだんはこんなことは聞いてこない。日中の行動はまるでべつべつでも帰る場所は同じなのだ、待ち合わせをすること自体が稀だった。おたがいの予定のだいたいのパターンは把握しているし、臨時の予定が入れば連絡をする。もしそうでなかったとしても、一日が終わるころには帰ってくると知っているから、わざわざ電話を掛けてまで居場所を問いただす必要はない。それぐらいの余裕はもって生活している。
 こころがにわかにざわめく。
「バイトが終わって、さっき出た。春市はどこ?」
『もう帰ってきてるよ』
「僕も、すぐ帰るから」
『うん』
 じゃあね、と告げたきり大人しくなった携帯を見つめる。最後のひと言はやけにさっぱりとしていて、まるで繕うようだった。
 まばたきひとつで帰れたらいいのに。さきほどにはなかった切実さで願うが、願ったところで距離は縮まない。廊下でのだらだら歩きから一変、降谷はさっと足を踏み出す。
 時とは、天邪鬼そのものである。惜しむときほどすばやく流れ、急かせるときほどのろのろと流れる。いつまで経っても目的地にたどり着かない電車に揺られながら、良いことはたまた悪いこと、さまざまな可能性を巡る。いったいなにがあったのか、通話中に訊ねることは憚られた。なにがあったかわかったところで、離れていては意味がない。だからこそ、春市も降谷の居場所を知りたかったのだろう。

 降谷が玄関のドアを開けるのと、春市がすぐそばの自室から出てくるのは、ほぼ同時だった。鉢合わせ、ぱちりと鳴る視線にはっと驚く。
「……ただい」
 ま、まで言い切る間も与えず、挨拶もそこそこにぶつかるように抱きついてくる。抱きつかれる寸前、いつもはおかえりと言って柔らかな上向きの弧を描く口元がぎゅうと結ばれるのを、スローモーションさながらにしかと見た。衝撃ごと身体を受け止める。鞄をその場に落とし、そろそろとてのひらを背に添えるが、春市は動かないままだ。
「春市?」
「……っ」
「!?」
 胸元からぐすぐすと鼻を鳴らすくぐもった音が聞こえてきて、降谷はすっかり狼狽えた。春市が泣いている。
(えーっと……、えーっと)
 野球の試合を通して、悔し涙やうれし涙をともに滲ませたことはあった。ここに暮らしはじめてからは、ベッドであまい涙をこぼす姿にも何度か遭遇した。いずれにしても、記憶に焼きついて色褪せない特別な状況のもとである。こんな風にシンプルな日常で涙をみせる春市に直面するのははじめてで、どうしたらいいのかわからずおろおろしてしまう。背のてのひらを動かして、さすってみる。それだけでは足りない気がして、なにか声を掛けてあげたいのに、どんな言葉がいいのか見当もつかない。滅多なことでは感情を表に出さない降谷にとっては、むずかしすぎる問題だった。
「とりあえず、部屋行こう」
 結局、こんなつまらないことしか言えない。服にぎゅうと埋まっている顔を縦に振って頷いたのを感じ、両腕でかかえあげる。こういうことをしようとすると大抵は赤くなって文句をこぼすのだが、抗う気力すら残っていないのか、静かに抱っこされている。降谷をしばしば子供扱いする春市が、今日は子供のようだ。肩に乗っている頭をぽんぽんと撫でれば、小さく呻いた。
 リビングに到着し、ラグの上に向かいあうように腰を下ろす。前髪ではんぶんが隠れている顔で俯かれると、表情はほとんど窺うことができない。心配でそわそわと見守っているうちにまたひとつ落ちてきた涙を、慌てて親指で拭う。
(もしかして僕のせい……?)
 今朝までのことを振り返ってみるも、とくに思い当たる節はない。強いて挙げるなら、なかなか目覚めることができなくて春市を手こずらせたことぐらいだが、なにも今日にはじまったことではない。しかし、親しき中にも礼儀ありと諺にもある通り、すきあっている同士だからといって油断をして迷惑ばかり掛けていると、いつか愛想を尽かされる。誰かがそう言っていたのを思い出し、いっそう焦る。
「今日の朝起きれなくて、ごめん」
 ふたたび抱きしめる。今度は降谷が春市に抱きついていると表現したほうが正しい。
「明日から気をつけるから。だから、元気だして」
 冷えた頬に吸いつく。
「泣かないで」
「……」
「でも……楽になるなら泣いたほうがいい」
 額のあたりに鼻先を寄せたとき、春市の肩が揺れた。
「……ふ、それってどっち?てゆうか降谷くんのせいじゃないし」
 そしてようやく顔があがる。結ばれていた口元が震えながら綻んで、新たな涙がぼろぼろと両の頬を伝った。泣き笑いに当惑した降谷は目を見張り、切ないほどに真摯な双眸を伏せると、左のそれを指先で右のそれを唇で消し去る。涙の種類が変わってきているということを、そういう態度が余計に涙を誘うということを、まったくわかっていない。なにがあったのか聞きたくてたまらないのに聞けないでいるのが、春市には透けている。
「ありがとう」
「……?」
 べたつく頬をついに自らの握りこぶしで擦る。
「なにがあったか話すからさ。聞いてよ」
 にこりと笑った。


 
おわり

しよさんから頂いた、泣く春っちというテーマでした。2013.01.15

main


.
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -