∇ ありふれた日々 ダイニングテーブルについた片肘の上に顎を乗せ、整った横顔に雰囲気をたっぷりと漂わせる降谷の視線は、一点に留まったままだ。じい、という低い音が聞こえてきそうなほどひたむきなそれがもしも物理的な力まで伴っていたなら、先にいる春市はきっとひとたまりもない、すぐにでもその場を飛び退かなければならないだろう。睨んでいるのではないから、決して鋭くはない。しかし、焦がし貫いてしまえる温度はじゅうぶんにある。 実際はといえば、降谷の深い双眸に姿が映しだされるに留まり、テーブルとキッチンのあいだに横たわる粒子の流れはなんとも穏やかである。今日のやるべき仕事をこなし、帰るべき場所に無事にたどり着き、おいしい食事で空腹を満たした後の心地は、格別だった。 日々くり返されるものを格別と表現するのは滑稽なようでいて、ひょっとすると、最も的確なのかもしれなかった。失うまで気づくことはなくても、そのくり返しを切望しない者などこの世にはいない。たまの刺激も悪くはないが、末永くいつまでもつづいて欲しいのは、ありふれた日々なのである。いまのところの降谷と春市には、それを失う予定がない。今日も今日とて、降谷はその格別な心地にのうのうと浸る。 見つめる春市はシンクで食器を洗っている。あたりには、洗剤の柑橘の香りが舞う。泡を纏った皿を水道水にくぐらせる合間に、顎に触れる髪を濡れた手でさっと耳に掛ける。その拍子に、なだらかな頬の線がより明らかになった。 そこに自然と吸い寄せられた視線をとうとう拾いあげた春市が、おもむろに振り返る。 「なに見てんの?」 「……春市」 とくに躊躇もなく白状する。 スポンジを動かしていただけだ。やましいことはひとつもしていないというのに、咄嗟に返す言葉もなく一瞬だけひるむ、弾ける間のいとおしさに降谷を囲う気がわずかに揺れ動く。表情の数の乏しい降谷は百面相の代わりに、豊かな感受性を正直に示す雰囲気を持っている。目に見えないはずのそれを、春市はまるで色を見分けるかのごとく区別する。出会った当初は激しい色ばかりだったのが、時が経つに連れて、半端で柔らかな色も発するようになった。 「そこにいるなら、手伝ってよ」 春市が少し唇を尖らせて言う。降谷は大儀そうに腰をあげる。 「なにすればいい?」 「僕が洗ったお皿拭いてって」 「わかった」 食器かごに引っかかっているダスターで、横から手渡されるものをひとつずつ拭いていく。どんぶり、小鉢、小皿、椀。それぞれがふたつずつ重なった低めの山が一時的に作業台に並ぶ。春市のペースに手際の悪い降谷がいつまでも付いていけるはずもなく、次第にかごに洗いたての食器がたまりはじめる。やがて、ひと足先に担当の作業を終えた春市が流れる水を止め、拭く作業に加わる。シンクの前にいたのが一歩近づき、大した幅のない作業台の前にふたりで並ぶ。低い位置にある肩を、降谷はちらりと盗み見た。黙々と後片付けをしているだけの単調な時間は、確かに優しい。 肘でも軽くぶつけてみようかと企めば見透かしたかのように、春市はどんぶりと小鉢の山々を両手に食器棚へ遠ざかってしまう。 「それ、しまっておいてね」 手いっぱいで差す指は残っていない。降谷はかごに伏せられたテフロン加工のフライパンにしつこく張りつく水玉を拭い、目の前の吊り戸棚にしまった。 リビングへ移動し目的もなくテレビをつけると、不可思議な円盤が四角い空を飛んでいた。それを撮影したらしい、びちびちに膨らんだギンガムチェックのシャツの裾を色褪せたジーンズのウエストにしっかりと入れた、いかにもな外見の欧米の中年男が、鼻の頭を真っ赤にし青い瞳を見開いて、そのときの状況を語っている。大げさな吹き替えとテロップ。そして隅のワイプ画面では、ゲストと思われるアイドルがかわいらしくびっくりしている。 体育座りの膝に顎を乗せた春市が、ぼんやりと口を開く。 「降谷くんは、こういうの信じる?UFOとか宇宙人とか……」 「…………」 訊ねられたとたん、降谷の脳内は、黒々としたレモン型の目が面積の3分の1ほどを占める大きな頭部、それに釣り合わないひょろひょろの体躯の宇宙人の模範で占められた。彼もしくは彼女、としばし見つめあったものの、結論は出ずじまいで首を傾げる。 「どうかな」 「うーん……じゃあさ、いつか月にも住めようになって、行きたい人は誰でも引っ越していいです、って言われたら引っ越す?」 「月……」 白いうさぎが餅つきをして、それから若かりしころの故アームストロング船長(無論、降谷は名前を知らない)がふわりふわりと米国の国旗のそばを歩く。宇宙船の中、さかさまにしてもいないグラスから波打ちながらゆっくりと浮かびあがる液体。 「行かない。野球ができなくなるから……」 「あぁ、そっか。月って地球よりも重力が小さいんだっけ」 「?知らない」 「マウンドがあっても踏ん張れなかったら、速い球投げれないもんね」 「春市は月に引っ越す?」 「んー?引っ越さない。僕だって野球すきなのは負けてないよ」 引っ越すと言わなくてよかった。つかみ所のない安堵感に誘われ、降谷はさきほど盗み見たのとは反対の肩に腕を回して春市を引き寄せた。やや緩慢な動きに合わせるように、膝にはんぶんうずめていた顔をあげ、胸のあたりに頬を寄せ凭れ掛かってくる。この温度のある重みは、月では感じられないのだろうか。ならばなおさら引っ越すことはないな、と改めて決意する。 それから、うわーと意味もやる気もない感嘆の声を時折あげながら、降谷の妄想にも劣らない、おぞましい未確認生物の写真の連続をやり過ごす。こういうのって全部作り物だよね、と念のため確認すれば、春市がくっつけていた頬を一旦離し、たのしそうな視線を寄越してくる。 「こわいの?」 「……こわくない」 前髪の下の目がいっそう細められたのがわかる。降谷は仕返しに、頭のてっぺんに鼻先をぐりぐりと押しつけた。 チャンネルはそのままに、夜のニュース番組にだらだらと突入する。暮れゆく今日の世の中がおおまかにわかったところで、春市が身体を起こす。 「お風呂、入ってくる」 「うん。いってらっしゃい」 「うん」 風呂の順番はとくに決まってはいないが、怠惰なムードを断ち切り就寝のきっかけを作りだすのは、たいていが春市である。残された降谷はテレビを見つづける。明日の天気予報がやっている。曇りのち晴れ、降水確率は30%、明日もいい日のようだった。番組と番組のあいだの長いコマーシャルになると、眠気が待ちかねたように立ちのぼり、脳みそをやわらかく包みこむ。たいして抗いもせず、降谷の目蓋はとろける。 うたた寝の心地の良さがピークに差し掛かるときに決まって、風呂上がりの春市が裸の足をぺたぺたと言わせながら戻ってくるのだ。売れない芸人が騒ぐ深夜のお笑い番組がふつりと途切れる。 「降谷くん。早くお風呂入らないとお湯冷めちゃうよ」 「……う〜ん……」 「ほら、早く」 「うん……」 「降谷くん」 「!」 よく冷えたミネラルウォーター入りのグラスを頬に当てられて、跳ね起きる。 「お風呂……」 「うん。いってらっしゃい」 「いってきます」 降谷が湯に浸かる短いあいだ、春市は先にベッドには潜らず、本を読んで待っている。風呂上がり、おなじようにミネラルウォーターを飲む降谷の背負う湯気が消え、生乾きの髪がさらさらと滑るようになるまで、ほっくりとすごす。しんと静まる空間で聞こえるのは、春市の指がページをめくる音だけだ。きりのいいところで、ぱたりと閉じるのが合図だった。 「寝よっか」 「うん。寝よう」 ぱち、ぱち、と電気を消す。ほんの数週間までは、薄暗い廊下でおやすみの挨拶を交わすのが、常だった。 日常は、常という字を含めど、必ずしも不変というわけではない。日常に起こるささやかな変化は、くり返されることで、やがて新たな日常となる。そうなるまでに多少の戸惑いや違和感を通過するのは、仕方のないことである。 この変化に至っては、ふたりになんとも照れくさい感情を与えるのだった。まっすぐに伸びた背を俯き気味に追って、春市も降谷の部屋にいっしょに踏み入り、ドアを後ろ手で閉める。背の角度に関わらず、ふたつの心臓はいつもよりも速めの鼓動を刻んでいる。言葉を交わせるようになるまでは、少なくともあと幾晩かを乗り越える必要がありそうだ。 それでも、ひとつのブランケットにくるまって深い呼吸を何度かつけば、緊張はほどけてくる。降谷が春市の手首をぐいと引く。 「春市」 控えめに唇を触れあわせる。寮に暮らしていたころは、なかなかふたりきりになれず、ふたりきりになれた機会が口づける機会そのものだった。ふたり暮らしがはじまったら一転、口づける瞬間はどこにでも転がっている。しかしそうなってしまうと今度は、時宜を図るのがむずかしい。眠りに就く前のこのときが、もどかしい状況下で掴んだ今のところの唯一の保証された機会なのだった。 「ん、おやす、」 「待って、まだ……」 言いかけたおやすみが口づけに溶ける。 こうしてひとつひとつ茶飯事を積みあげること、そしてそれをくり返すことの奇蹟は、カーテンの向こうに茫洋と広がる闇の中でひときわ甘美に輝いている。 おわり 過去作品のコピペではありません笑。春っちがはじめて降谷くんの部屋で眠って、降谷くんが春っちを名前で呼ぶようになって、その次に初期の設定の話。2012.12.17 main . |