∇ ひとつぶの雫、崩れる均衡 つけっぱなしの深夜の音楽番組、追いつめられる鼓動。所在なく空間をたゆたう期待の新人アーティストの奏でる旋律は、倉持の耳には届かない。 「は……っ、亮さん……!」 震える声で思い人の名前を呼びながら、寸前に箱から抜き取ったティッシュの中に昂った欲を解放する。とたんに冷静さを取り戻す脳みそには、こんなことをくり返していると知ったら亮さんはどう思うのだろうか、という疑問が毎度のごとく浮かびあがり、まあうれしくはないだろうな、という無難な結論に後ろめたさが差す。ラグに座りこんだまま、少し離れた場所に置いてあるごみ箱に丸めたティッシュを怠惰に放りこむ。寛げていたスウェットを適当に整えると、背後のベッドに頭を預け力なく天井を仰いだ。 適度に顔がかわいくて胸のあるお姉さんが、亮介にすり替わったのはいつだったか。まだそう多くはない触れあう記憶を引っぱりだしてなぞるだけで、倉持の身体は熱くなる。何度もなぞっているうちにいつの間にか空想は広がり、まだ触れたこともないところにまで手を伸ばす。恥じらいながらも快さに眉根を寄せる表情を思うと、やがて耐えきれなくなる。 亮介を抱きたい。そう自覚したのはずいぶん前のことだ。 それでも現実のふたりの接触は今のところ、慰めあうまでに留まっていた。「慰めあう」という表現が的確な、自慰の延長のような稚拙な行為である。はじめてそうしたとき以来亮介の部屋に泊まってはいないから、たいていはソファの上で起こる。テレビや雑誌から逸らした視線がふとした瞬間に重なって口づける。口づけだけでは飽き足らなくなって、おたがいのベルトに手をかける。警戒心の強い亮介を後ろから抱きかかえ、肩越しに表情やてのひらに包んだ中心をちらちらと窺いながら、絶頂を促す。数週間前になってようやく、向き合って同時に触れあった。終始うつむく亮介の顔がどうしても見たくてねだってみたものの、うるさいとにべもなく断られてしまった。そもそも亮介があまい雰囲気に流されること自体が稀であり、そこまで至るのもひと仕事、幾度も逢瀬を重ねて一度あるかないかの出来事なのだ。 夏休み初日のあの日は確かに、叫びだしたいほどのよろこびにこれ以上を望むことなど考えつきもしなかった。それが冬休みが近づくころにはことごとく覆っているとは、人間の欲は底の知れないなんとも恐ろしい代物だ。と普遍化しかけて、倉持はため息を落とす。 (あの人もそうだってわかってんなら、苦労はねえんだよ) 実際、付き合いはじめてこれだけの時が経ってもいまだに最後まで及んでいないペースは法外に遅い。ゆっくりでも構わないから着実に。そう思って関係を深めてきたというのに、この期に及んでわからなくなっている。 亮介の気持ちを疑っているわけではない。ただ、ここまでの行為とこれから先には大きな隔たりがある。倉持が亮介に求めているのは、ふつうの男なら経験することのない行為だ。本来受け入れるために作られていない器官を半ば無理矢理に開き蹂躙することを、亮介は許してくれるだろうか。いや議論はさらに手前、亮介が倉持とおなじ繋がりを果たしてこの関係に求めているのかどうか、という時点にまでさかのぼるべきなのかもしれない。身体の繋がりだけがすべてではないことも、相手の意見もきちんと尊重しなければならないことも、頭では理解しているつもりだ。 仮におなじように繋がりあうことを求めているとして、亮介が受け入れる側にならなければいけない理由はどこにもない。身体の構造上は、どちらの役回りにつくことも可能なのである。にも関わらず抱くことだけを切に望むのは傲慢かつ自分勝手だと指摘されたら、言い返す言葉もない。 (あーもう、なにをどこからどうすれば……) 結局こんがらがって碌な解決策ひとつ編み出せないのは、いつものことだった。 夕食後の部屋には、まったりとした空気が漂っている。 倉持がシンクでせっせと調理器具や食器を洗う中、亮介はすでにソファでゆったりとくつろぎ、漫画を読んでいる。純のおすすめは趣味が悪すぎると高校時代から散々言ってきたくせに、今回だけはそれに当てはまらないらしく、会う度に数巻ずつ借りてきている。いつものおすすめと違い、恋愛以外の内容が7割以上を占めるストーリーには亮介も抵抗なく入り込む。しかしその残り3割の恋愛要素が照れくさいのか、ふだんはいい漫画を見つければふたりで共有するのに、今回に限って倉持は仲間外れだ。 よほどおもしろいシーンでもあったのだろう、キッチンにまでけらけら笑う声が聞こえてくる。 「そんなにおもしろいなら、俺にも読ませてくださいよ」 タオルで軽く手を拭いつつ、片付けを終えた倉持もソファに近づく。 「もう1巻から10巻は返しちゃったから今さら遅いし。そんなに読みたいなら自分で純に頼みなよ」 「だってあの人後輩には1冊1日レンタルするごとにファンタ1本とか言ってくんですよ。せいぜい会えて週に1回なのに、俺はどんだけファンタ貢がなきゃいけないんですか。ツタヤ行ったほうがぜんぜん安いっつーの」 「じゃあツタヤ行ってくりゃあいいじゃん」 「亮さぁん、そんなこと言わずに途中からでいいから、いっしょに読みましょうよ」 「だーめ」 やけにたのしそうにそう言うと、読んでいた漫画をぱたんと閉じてしまった。それはそれでおしゃべりができるからまあいいか、と倉持はあっさり方向転換をする。 「そういやどうでした?今晩の新メニュー、豚肉と大根の炒め煮は?」 「ふつうにうまかったよ」 「こないだ店で似たような料理を食ってうまかったから作ってみたんです」 「案外、料理向いてるよね」 「ま、うちじゃめんどくさくてカップラーメンで済ませることも多いっすけどね!」 亮さんといるときぐらい、うまいもん食いたくて。言いながら、優しい視線がなんともない軽さでふわりと合う。 いつもならば口づける流れだったが、予感のようなものが閃いてぐっと踏みとどまる。今口づけたらきっと、止まらなくなる。野生の勘が鳴らす警鐘には、根拠などない。しかし潜在意識が深く関わるものほど、得てして物事を的確に言い当てたりするものだ。ほんのわずかに、それでもまぎれもなく色を変えた雰囲気に走りだす心臓を抱えたまま、へらりとした笑みを貼りつける。 亮介を守るための選択を台無しにしたのは、他でもない亮介だった。 「……!」 瞬刻触れあう唇にはっとしたときにはもう、茶目っ気たっぷりの表情でこちらを窺っている。たまに見かけるいたずら心か、あるいはさきほどまで読んでいた漫画の3割の恋愛要素が影響してめずらしく自分のほうから欲しいと思ったのか、いずれにしても厄介なことには変わりがない。倉持は押し殺した声で呟いた。 「ったくあんたって人は……こういうときに限って……!!」 表面張力を最大限に働かせグラスのふちで耐える水は、たったひとつぶの雫が落ちるのをきっかけに均衡を失い溢れる。温度すらまともに追えないちいさな口づけも、引き金になる可能性を存分に孕んでいるのだ。 誰にも負けない瞬発力で一気に距離を詰め、華奢な肩を両手でソファに押しつける。噛みつくように唇を奪い返し、そのまま舌をねじこんで呼吸すら許さない。逃げ惑う舌を絡めとる。デザートに食べたバニラアイスクリームの味に目眩がする。組み敷かれた亮介が脚をばたつかせるのを、霞む意識の向こうで感じた。 「ん……、んんっ、この、やろ……!」 「うっ」 蹴りのひとつがみぞおちにはまって滲んだ痛みに、倉持はからくも我を取り戻す。息を荒くして下から睨みつける亮介に、状況を理解して慌てる。 「わ、すいません!」 「はぁ……、なんなんだよお前、いきなり……」 「だって、亮さんが、」 「なんで俺のせいになるんだよ」 「だって……っ」 ううう。唸りながら、亮介の胸元に顔を埋める。 「亮さん」 「なに、倉持」 「亮さん……」 「言いたいことがあるならさっさと言いなよ」 「……怒らないで聞いてくれますか?」 「それは、内容によるよね」 「…………」 で、なに?埋めたままの倉持の髪を梳きながら訊ねる。しばらくのあいだ柔らかな指の動きを甘受していたが、覚悟を決めてばっと顔をあげる。上目遣いで亮介を見つめた。 「俺……、亮さんのことが欲しいです」 「!」 聞いたとたんに、いくぶん余裕のあった亮介の頬がみるみるうちに赤くなる。 「あ、その、欲しいっていうのは、俺が亮さんのこと抱きたいってことで、その」 「…………」 「そりゃ、亮さんも男だし、俺がひとりで決めんのは自分勝手ってことはわかってるんですけど」 「…………」 「でも、どうしても、亮さんが欲しくて、」 「…………」 「……一生懸命します。絶対絶対大事にするし、すげえ優しくしますから。亮さんに痛い思いさせないようにゆっくりするし、それでも亮さんが途中で嫌だって言ったらやめますから、だからっ」 「…………」 「亮さんのこと、抱いてもいいですか……?」 「倉持、」 「あっもちろん今じゃないっすよ。答えも……、今じゃなくていいです。突然言われて困ってるだろうし」 「…………」 「今日はもう帰ります。……連絡待ってますから」 最後にぎゅうともう一度だけ強く抱きしめて、覆い被さっていた亮介の上から潔く退く。決死の思いを打ち明けた後はもう、灰も同然だった。嫌悪や拒否を表す感情が少しでも浮かんでいたらと思うと最早顔さえまともに見られずに、部屋のすみにあるジャケットを拾い上げそそくさと去る。 玄関のドアを後ろ手に閉め、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。 (お、俺はなんつーことを…!!) この15分のあいだに起こった出来事が信じられずに、頭を抱える。歩きだせるようになるまで回復したのは、それから何時間も後のことだった。 つづく へたへた倉持。応援してやってください。2012.12.01 main . |