∇ シロップ 回りつづけるプラスチックの羽から起こるゆるやかな風が、黒の髪と桃色の髪をおざなりに揺らす。窓の形に切り取られた空は迷いのない青一色、初夏の陽はガラスをまっすぐに貫き、ふたりが今まさに座りこんでいるラグの上にくっきりとしたストライプを描く。実際の室内温度はともかく、その模様を目にしただけで、降谷は体感温度があがるような錯覚に見舞われた。思わず口から飛びだした、あー、という呟きは羽の回転に巻き込まれて宇宙人のそれと化す。 「暑い……」 「扇風機回してるじゃん」 「エアコンは?」 「こんな時期からエアコンつけてたら、夏越せなくなるよ。ていうか暑いなら離れなよ」 「……」 暑いのは不満だが、春市から離れるのも同じぐらい不満だ。妥当なアドバイスを無言ではね除け、ジレンマの迫間をさ迷う。そして弾きだされた理屈で、正反対の行動にでる。囲んでいる腕で距離をさらに縮めておよそ36度の背にしかと貼りつき、さらりとした髪に鼻先を埋めた。シャンプーと春市がまざったにおいが掠める。 降谷は、この構図がすきだった。すぐ目の前に春市の頭があって、首すじ、肩へと流れる。その少し下に絡みつく自らの腕、並ぶ大小よっつの足。題名を与えるとするなら、すきな人とすきな人を包む僕、といったところだろうか。包んで守ってやる必要があろうがなかろうが、すきな人であれば包みたい。寒い日も、暑い日も。顔色ひとつ変えず、春市の素足のつま先をただ見つめながら、降谷は最大限に惚気た。 どういうわけだか汲み取る春市が、勝手にすれば、と投げやりに言う。赤くなっているのだろう頬を、わざわざ覗きこんで確認するのはやめておく。 水滴をまとうグラスに透ける氷は徐々にちいさくなり、やがてからんと音を立てる。傍らのローテーブルに置かれたそれをはんぶんほど満たす麦茶は、ついさっきまで出掛けていた春市が失った水分を補おうと用意したものだ。今日はまだ一度も外にでていない人が、短い時間といえど日々迫り来る夏にじかに晒されていた人を差し置いてぼやくのは道理に適った状況ではないが、降谷が夏に弱いのは今にはじまった話ではないから、議論の的になることはなかった。 「元気だよね、こんな暑い中出掛けて……」 「降谷くんも誘おうと思ったのに、寝てるんだもん。ほんとよく寝るよね」 「春市は眠くならない?」 「なんないよ」 「無理させたかと思ったのに」 「え?」 「……昨日の夜」 ぴた、と動きが止まる。もはや覗きこむまでもない。俯いた首すじや耳のふちにじわじわと赤が広がっていく。意地悪な計らいなどではなく、思ったことを口にしただけの降谷は、いささか驚いてその成り行きをぼんやりと見守った。 「無理なんかしてないよっ」 「そう?」 「そうだよ」 「春市、さっきよりも熱くなった」 「う、うるさい。そういうこと言ってると、あげないからね?」 「なにを?」 油断した腕から、するりと春市が抜け出していなくなる。言われていた通り、扇風機の風が直接吹きつけ涼しさが増したが、行方をけんめいに追う降谷の注意はすでに奪われている。春市の軽快な足音は、冷蔵庫の前で止まった。上の扉を開けば、冷気がもわもわと白く漂う。 戻ってきた両手には、赤と黄色が乗っている。波打つ円形のカップに入った、昔ながらのいちごとレモンのかき氷だった。レモンのほうをスプーンとともに差し出される。 「はい、降谷くんはこっち。食べるでしょ」 「うん」 「冷たいもの食べたら降谷くんのだらだらも少しは治るかなって思って、コンビニ行って買ってきたよ」 「……」 優しい声色はそのまま、しかしだらだらをまるで軽い病のように表現する台詞はややとんがっている。いつものように流しながら蓋を開ければ、カップの真ん中に横たわる薄いレモンの輪っかが視界に飛びこむ。となりの春市のかき氷には、安っぽいミルクアイスクリームが浮かんでいる。氷とアイスクリームをバランスよく乗せたスプーンが口に運ばれるのを見届けてから、降谷は自分のかき氷にそれを差し込んだ。さくり、と鳴る音がさわやかだ。 「おいしい?」 「うん」 「よかった」 「……そっちのも気になる」 「ひとくちいる?」 首を傾げてこちらを振り返ったところを捉える。冷えた唇同士、感触すらよくわからない。離れた矢先に、春市は顔を伏せてしまった。 「そんなんで味わかるの?」 「わかんなかった」 代わりに横からスプーンを伸ばす。 「最初からそうすればよかったのに」 「アイス多めに取ってもいい?」 「はいはい。僕もひとくちちょうだい」 「いいよ」 夏がはじまる。 おわり 初降春!のっけからほもほもしていてすいません。2012.07.15 main . |