∇ 金木犀の咲くころ はじめて降りたった駅を背に、倉持はあたりの風景をぐるりと見渡した。真ん中のロータリーを取り囲むようにさまざまな建物が立ち並んでいる。本屋、カフェ、ファーストフード店、コンビニ、ベーカリー。それらを頼りに、待ち人の新しい生活を想像してみる。 大学から帰ってきたその足で、本屋で発売日の雑誌を、ベーカリーで翌日の朝食用のパンを買う。あるいはその両方をコンビニで済ませてしまう。そもそも、朝食はパン派なのだろうか。たまには食事をファーストフードで済ませたりするのだろうか。出会ってもう3年目になるというのに、野球以外では知らないことがまだまだたくさんある。その事実を知らない街でいきなり突きつけられ、わくわくしている気持ちに影が差してくるのを、へへ、と笑い飛ばした。 それも仕方がない。なにしろ野球だけの仲ではなくなってから、まだ半年しか経っていない。そのうえせっかく通じ合えたと思ったら、すぐに離ればなれになってしまったのだ。4月からそれぞれの生活がはじまったものの、恋をする時間はひどく限られていた。試合を観に来てくれるあの人は決まって、相方の二塁手の顔をしている。だからいっそうがんばれた。そしてついに最後の夏が終わったとき、ふたりっきりになりたいとまるで反動のように強く願った。 しかし現実はあまくない。部活を引退したとたんに、今度は進路の決断を迫られる。大学を受験すると決めたらさっそく、勉強一色の日々だ。机に向かいつづけることに慣れず、時折どうしようもなくむしゃくしゃして沢村に技をかけにいく。そういうえば一年前も、脈略もなくチョップを落とされたことがあったような、なかったような。それにしても、倉持とのもやもやした関係を抱えたまま受験に成功したのはやはりさすがだ、と今になって改めて尊敬する。 たったひとつ学年が違うだけで、なにもかもがすれ違いだ。すれ違いに終止符を打つために、なにがなんでも合格しなければ。そう決意を固め直したとき、見間違えるはずのない色が視界のすみにちらついた。 「亮さん!!」 「待った?」 「いや、2、3分前に来たばっかですよ」 待ってないと言ったのに、亮介は拗ねたような表情をする。珍しい表情であることに倉持はすぐに気がついたが、2週間ぶりの再会に浮き足立つ思考では、皆の前では見せないからという肝心の理由にまで行き着くことはできなかった。 「俺が行ってもよかったのに」 「亮さんが住んでるところが見てみたくて」 「べつになんもないよ。ていうか予備校は?」 「今日は夕方からだから、2時間はここにいれます」 「ふーん。で?どうする?」 とにかく会いたいという希望が叶った直後にそう訊ねられて、言葉に詰まってしまう。 「……っと、話がしたいです。亮さんの近況が聞きたい」 「そこのカフェでいい?」 「はい。……あ」 「なに?」 「よく行くんですか、あのカフェ?」 「週末にやんなきゃいけない課題があって、家で集中できないときとか。パソコン持って行くよ。たまにだけど」 「へー」 想像の亮介の生活にひとつ、些細でありながらもほんとうの情報が書き足される。大学でもやっぱりちゃんとやってるんだ。イメージに反しない答えについにやにやして、怪訝な顔をされる。そのまま口にするとそんなつもりはないのにひどく上から目線なコメントになるから、なんでもないです、とごまかした。 混み合う列に並びながら壁のメニューを眺める倉持の肩を、亮介の指先がつつく。 「注文しとくから、席取っといてよ」 「わかりました。えーっと、じゃあ俺は……ブレンドで」 カタカナの長たらしい名前のメニューばかりでなにを頼めばよいのかわからず、ホットのコーヒーの欄のいちばん上にあるものを適当に選ぶ。ポケットから財布を取り出そうとするのをいいから、とやんわりと断られる。こんな場面にもしっかりと存在する大学生と高校生の身分の差に悔しさを感じつつ、せっかくの気遣いを台無しにしてしまってはいけないと倉持は大人しく席を探しに列を離れた。ちょうどよく空いた店のすみのふたり掛けのテーブルを見つけ、腰を下ろす。 「亮さんは朝メシはパン派ですか、ごはん派ですか?」 ふたつのカップを乗せたトレイを運んできた亮介が席につくなり、さきほどの疑問をぶつける。 「は?」 「いや、さっき考えてたんですけど。寮にいた頃ってこっちの気分に関係なく出されたもん食ってただけだし、それに練習きつくて食欲ないときも無理矢理食わなきゃいけなかったりして、そこまで食事にたのしみを見いだせなかったじゃないですか」 「うん、確かに」 相づちを打ちながら、カップに口をつける。倉持のがごくごくふつうのコーヒーなのに対して、亮介のほうにはあまそうなキャラメルのシロップとふんわりと泡立てられたミルクが浮かんでいる。さらりと激辛のひと言を放つこの口は存外にあまいものがすきなのである。このことに気がついたのは、つい最近だ。 「で、部活引退してすきなもん食えるようになって、亮さんの食の好みが気になりだしたというか」 「ふーん。それで、朝ごはん?」 「はい。ひとり暮らしはじめて、なに食ってんのかなーって思って。今まで連絡取り合ってたときは、俺が野球の話ばっかしてたから、そういうこと聞いてなかったなって気がついたんですよ。そもそも亮さんって料理できるんすか?ファーストフード食ったりすんですか?」 「なにその、できないよね?みたいな言い方」 「え、あっ、そんなつもりじゃなくて!単なる興味ですよ、興味!」 「料理はべつに得意ってわけじゃないけど、困らない程度には作れるよ。仕送りは最低限に留めたいから、けっこう自炊してるし」 「そうなんですか……」 「朝はパンが多いかな。ハムとかジャムとか乗っけて食べる」 「目玉焼き作ったりしないんすか?」 「朝からフライパン洗うのめんどくさいじゃん。朝はそこまで食欲ないしね」 「ほーなるほど」 「気が済んだ?それとも夜なに食べてるのかも気になる?」 からかうような声色にはっとして顔をあげれば、亮介は優しく笑んでいる。後輩たちに恐れられていた原因のひとつであろう、喜怒哀楽すべての感情をカバーする微笑みの意味を読み取る技術を、倉持はこの2年半で取得してしまった。恋愛ごととなると自信は格段に落ちるのだが、もしもうぬぼれでないとすれば、今のには呆れながらも興味津々の倉持を受け入れてくれているような、そんないい意味が込められている。 「気になります」 「ははっ、俺のお手伝いさんにでもなるつもり?」 今度は完全にからかっている。旦那さんになりたいんですよ、とこころの中で叫びながら、やけっぱちに言う。 「そうっすよ!雇ってくださいよー」 「バカ、早く大学受かれよ」 「……わかってます」 それから晩ごはんになにをよく作るのかの話題も含めた、気のおけない会話をする。あれこれと詮索する質問にもめげずに付きあう亮介に、倉持にもようやく、あれ?俺ってもしかしてすげー許されてる?と戸惑いながらの自覚が生まれてくる。おまけにチョップの代わりに髪をもふもふと触られて、どぎまぎする。 倉持が亮介の側にいられるのもあと30分、というときになって亮介がふと切り出した。 「そろそろ出る?」 「ああ、そうっすね。もうとっくに飲み終わってるし」 「この後、俺の部屋も見てく?」 「なっ!」 せっかくここまで来てるのだから見ていけばいい、なんの下心もない問いかけなのだろう。しかしそれを聞いたとたん、倉持の思考は亮介に触れることでいっぱいになってしまう。髪に触れてもらうぐらいでは、ほんとうはぜんぜん足りない。倉持だって亮介に触れたい。 「……今日はやめときます。また今度」 亮介と閉ざされた空間でふたりっきりになったらきっと、衝動を抑えることができない。時間の感覚すら失って、予備校の授業を逃してしまうだろう。そうなったら亮介は怒るだろうし、あまつさえ受験にも失敗するかもしれない。最悪の未来を回避するためにも、今はまだ我慢の時期なのだ。 「この辺ぶらぶらしましょうよ。亮さんがよく行く店とか紹介してください」 空のカップの乗ったトレイを持って、倉持はさっと立ち上がった。 「最近増子先輩に会いました?」 「うん、先週会った」 「相変わらず丸いっすか?」 「言うねー、後で純に言いつけとこ」 「こないだ亮さんだっておなじこと言ってたじゃないですか!つーかなんで純さんなんすか!」 「後輩シメ足りないって吠えてたから」 「そりゃあ、1年目はしょうがないでしょう。ほんと相変わらずっすねー、あの人も」 「ん?相変わらず短気だって?それもちゃんと伝えとくよ」 「ちょっと!!」 「あはは」 街並みを眺めながら、心地のよい会話をだらだらとつづける。倉持にはどこを歩いているのかさっぱりわからなかったが、亮介はきちんと把握しているのだろう。この辺で引き返さないと時間通りに駅に戻れなくなる、と言われ方向転換をする。 亮介と別れるまであと15分もない、そう思ったら寂しさがぎゅうぎゅうと押し寄せてくる。次に会えるのはいつなのか、まだはっきりとしていない。来週かもしれないし、1か月後かもしれない。いつになろうときっと会える、メールや電話だってある。頭では理解しているつもりでも、約束がないというだけで焦りと不安で胸が押しつぶされそうになる。こんな思いをしなければならないのなら、いっそのこと会えないほうが諦めがつくのに。そんな考えが滲んでしまうほど、つらい。 耐えきれずに、すぐとなりの手をぐい、と掴んだ。 「亮さん、こっち」 「駅はあっちだよ」 「いいから、すぐですから」 ちいさな路地に入り込む。ひっそりとしたギャラリーへつづく細く暗い階段を2段ほど登ったところで、引き止められる。 「絵なんか興味ないだろ」 「そうじゃなくて……!」 もしかしたら、滅多に来ない客が来るかもしれない。あるいは暇なオーナーが出てくるかもしれない。切羽詰まった表情のままなにもできずにいる倉持に、亮介がため息を落とす。倉持からは、俯く亮介の表情はうまく見えない。 「だから部屋に来る?って聞いたのに……」 耳に入った呟きが脳を通過して驚いたのも束の間、パーカーの首もとを強く引っ張られる。どこからともなく漂うあまい香り、くちびるの感触。 早く大学生になって追いつきたい、このまま時間が止まってしまえばいい。ふたつの思いは今だけは、決して矛盾などしていない。 おわり 高校生と大学生っていいなぁって。倉持がだいすきな亮さんを倉持視点で書こうとしたんですけどね。だめだわ、やっぱり両思いなの。2012.11.24 main . |