∇ 春市 夜は深い。 月明かりすらカーテンに遮られ、テレビのスクリーンが発する青白い光だけを頼りにする部屋は、まるで海の底のようだった。スクリーンの中では、摩訶不思議な外見をしたほんとうの深海魚がゆらゆらと泳いでいる。降谷がバイト先の先輩に押し付けられるように借りた自然ドキュメンタリー、プラネットアースのDVDは、思いのほか面白い。ディスク1の北極の生き物からはじまり、深海の生き物はディスク4のふたつめのチャプターに収録されている。つまり晩ごはんを食べ風呂からあがって以来、降谷と春市はもう何時間もこうしてテレビの前に座りこんでいるのだ。 15分ほど前からとなりの春市は俯いたままで、肝心の目元こそ隠れてはいるものの、微睡んでいるに違いなかった。時間帯や、心地のよい部屋の暗さ、落ち着いた声のナレーションを考慮すれば、うとうとしてしまうのも頷ける。しかしふだんそうなるのは降谷のほうで、春市は決まって、ちゃんとベッドで寝ないと疲れは取れないよ、と眠りこける降谷をやさしく揺り起こす役だ。いささかめずらしいケースだと、貴重な横顔を見つめる。 青白い色に染まりつつも、頬はあたたかな線を描いている。ちいさく開いた唇は「ふ」の形をしていて、降谷くん……、という寝言がこぼれやしないか、降谷はしばらくのあいだ固唾を呑んで見守った。期待も虚しく、いくら待ってもなにも起こらない。だから今度は口づけたくなる。最後に口づけあったのは、朝、ブランケットの中でじゃれていたときだった。くすぐったいと言ってぱたぱたしていた春市がふいに振り返って、降谷の唇に軽く触れる。すばやく離れていこうとするのを追いかけ、何度かついばむ。短くくり返す口づけの合間の囁くような息継ぎがよみがえって、ますます落ち着かなくなった。 「……っ」 ふわりと正面から覗きこみ、鼻先が触れあうすんでのところで思いとどまる。 脳裏を掠めたのは、さきほどから眺めている映像だ。動物たちの一生は、至ってシンプルである。一日一日を生き抜き、次の世代に命を引き継ぎ、そして死んでゆく。さまざまな環境下、各々まったく違う進化を遂げていても、それだけは共通している。眼前を這うように泳いでいる、怪しく七色に光る目すら持たない流線型の生き物も例に洩れず。 ならば、一体これはなんなのだろう。降谷と春市は触れあう、あまつさえなにも纏わぬ身ひとつで抱きあう。形あるものの輪郭を指先で辿るように、鮮明に思い出せる。初めて核心を衝くような触れあいが起こったあの日、嫌悪からはほど遠い感情は確かに「ああ、おなじだ」と告げたのだ。当然知らなかったわけではない、ただの純粋な感想だった。おなじだろうがなんだろうが、降谷の愛撫によろこぶ春市がきれいで、夢中になった。 引きこまれていた四角の中の異世界が、たったひとつの未遂の口づけをきっかけに自分たちの世界と重なって、「おなじ」がどういうことなのか、今になって思い知らされる。どんなに惹かれあっていても、何度抱きあっても、命は引き継がれない。降谷にとっては、いまだ出会ったことのない、そしてこれからも出会うことのない存在よりも、となりで眠っている春市の存在のほうが、ずっと大切で失いたくない。けれどいつか、春市が引き継ぐことを望んだとしたら。 「降谷くん」 「…………」 「降谷くん?」 「……なに」 寝言ではないものの、春市がくり返す降谷くん、という名前はどこかうっとりとしている。夜や魚同様に深く沈んでいた思考から我に返り、声のするほうを見やる。 「うーん……、寝ちゃった」 春市は両腕をぐっと前に突き出し固まっていた肩や背を伸ばすと、こてんと降谷に凭れ掛かった。腕に頬を擦り寄せたときにわずかに走った緊張を感じ取ったのか、訝しげな視線を向ける。黒い瞳の底を暴くかのようにじい、と射抜き、そしてふんわりと雰囲気を和らげる。納得したかのような仕草に降谷が首を傾げるのも構わず、おもむろに切り出す。 「散歩、行こっか」 「……今?」 「うん」 「もう遅いし、めんどくさい」 「えー、行こうよ。川のところのさ、桜見に行こう」 ね?諭すような口調で付け足す。 駅とは反対の方向へ数分歩いたところに細い川が流れている。川沿いに植えられている、並木と呼ぶには情けないほどの本数のソメイヨシノが、ちょうど見頃を迎えていた。 「わかった」 少しふてくされた了承にも春市は明るくうなずき、眠気を振り払う軽やかさで立ち上がる。なんか羽織らないと寒いかなぁ、大きめのひとり言とも取れなくもない台詞に降谷が答えあぐねているあいだに、すたすたと自室へいなくなってしまった。残された降谷はリモコンをきょろきょろと探す。DVDケースの影に隠れているそれをようやっと見つけ出したタイミングで、カーディガンを羽織った春市が部屋からでてきた。 春の夜は暑くもなく寒くもなく、なにかに包まれているようだった。 川までの道のりを即かず離れずの距離で無言で歩く。半歩前を進む春市の姿を降谷は盗み見る。ちらりと覗いた口角は、上を向いている。桜を見るのがよっぽどたのしみなのだろう。もっと早く言ってくれれば、週末の昼間にでももっと見事な桜が見られる場所へ行く計画だって立てられただろうに。次の週末でも遅くないかもしれない。台無しにしてしまう雨が降らなければいい、と降谷は思った。 もう少し早い時間帯には、犬の散歩をする人やジョギングをする人で賑わう川沿いも、深夜となれば静けさが漂うばかりで、聞こえるのはさらさらと流れるおだやかな水の音と、ふた組のスニーカーがたがい違いに舗装された道を蹴る音ぐらいだった。 「このへんでいいかな」 ぽつりぽつりと設置された街灯の近くに植えられた一本の前で立ち止まり、春市は柵に背を預ける。こんな時間帯にもいっしょうけんめいに咲き誇るそれを見上げる。 「きれいだね」 「うん……」 降谷は立ち尽くしている。果たして、このつかみ所ないぼんやりとした心地が今の季節特有の空気によってもたらされているのか、春市の纏うやわらかい空気によってもたらされているのか、うまく区別がつかない。それほどまでに、ふたつは馴染んで溶けあっていた。 すう、と春市が息を吸う。 「僕は、降谷くんがいいから」 「……え」 「降谷くんだけ、いてくれればいいから」 吸いこんだはずの勇気は、一度目で使い果たしてしまったのだろう。察しの悪い降谷のために言い直した二度目には、ぎこちなさがふんだんに含まれていた。柵に捕まる指の先が白くなっている。 さわさわと春風が吹き抜け、淡い色の花びらと髪がなびいた。その拍子に明らかになった目元は、頭上の三日月とおなじ弧を描いている。 「……、」 咄嗟に言いかけた言葉が花とともに散ったのと、降谷の頬が花の色に染まったのは、どちらが先だったか。 寒いところからたったひとりで出てきた降谷に春のあたたかさを教えたのは、春市だった。心臓がとくりと鳴る。 「ぼ、僕も春市だけ……」 「知ってるよ」 やっとのことで音になった想いは、詰まったと思えば転げ、そして途切れてしまった。ふだん頬を染める役を占有している春市の手が、降谷のめずらしく染まった頬をやさしく撫でる。金属の柵を握っていたせいで、それは鉄のにおいがして、ひんやりと冷たい。 「降谷くんも、そういうこと悩むようになったんだね」 「春市も……?」 「そりゃ、何回も考えたよ。降谷くんよりもずっと前から」 「なんで言ってくれなかったの」 「だって僕だけが悩んでるなんて悔しいじゃん」 時折負けず嫌いとからかうわりに、春市も人のことを言えたものではない。頬の手がそっと、髪に触れる。 「花びらついてるよ」 春市に触れたくて花びらを探したが、どこにも見つからない。降谷の恋い焦がれる視線に、ぱっと顔を背けると離れていってしまった。くるりと明後日のほうを向く。 「……帰ろっか」 「うん」 「帰ったら、DVDのつづき見よう」 「また寝るかもよ」 「寝ないよ。降谷くんじゃないんだから」 それでももしも眠ったなら、今度こそ口づけをしようとこっそりと決心する。帰り道、週末にもっとたくさん桜が見られるところに行こうと誘えば、春市は相変わらず降谷くんは鈍いね、と笑った。 おわり はりさんから頂いたリクエスト、照れる降谷くんでした。照れるって言ったらもっとこう、かわいい話になると思ったんですけどね。2012.11.12 main . |