∇ あまいあまい シャワーの止んだ浴室に、いまだ降りつづいている雨の音が響く。 春市は、鏡に映っている自分の姿から懸命に視線を逸らす。どんな風に欲に染まっていくのかなど、知りたくもない。そうやって逃げることに意識が奪われているのをいいことに、かたや降谷はおなじ鏡に無遠慮な視線を注いで、伏し目がちなその表情に見とれた。胸元に滑らせた指先でちいさな尖りをとらえる。 「や……っ」 胸を愛撫されるのを、春市は恥じらう。柔らかな曲線を描く女の胸と違って、男のそれは固く平らで異性を惹きつける部位ではない。そこによりにもよって同性の降谷が恍惚として触れる光景に、そして触れられて感じているという事実に、どうしようもなく背徳心を煽られる。 降谷にとって目の前の身体は、男ではなく、ましてや女でもなく、春市というひとりしか当てはまらないカテゴリーに分類される。柔らかであろうがなかろうが、すきな人の形を余すところなく確かめたいと思うのは当然の欲求であり、春市が降谷に触れたいと思う気持ちも同様の理由から生まれているのだが、そのことにはまだ気づかない。いずれにしても、余計な思考がほどけて降谷でいっぱいになるのは、時間の問題だった。 泡が残っているのも厭わず、首すじに舌を這わせる。掬いあげるようにして耳朶を口に含めば、春市の全身に緊張が走った。くぐもった熱をため息とともに落とし、降谷を振り返る。鏡を通さずにじかに見る、涙の薄く張った瞳の底の色。 「こっち来る?」 「……うん」 吸い込まれる。知らないうちにそう訊ねていた。春市はひとつ瞬きをすると肯定し、椅子を離れた。降谷に向き直り、腿のうえに乗っかる。なにも纏わないこの状態では隠しようもない、おたがい立ちあがりかけているのがわかって、ほっとした顔をする。自然な流れでくちびるを重ねた。さきほどの溺れるような口づけよりもおだやかな、通じ合っていることのよろこびを享受する余裕のある口づけだった。ふふ。離れた瞬間、春市からしあわせを包んだ笑い声と呼吸のあいだのようなものがこぼれる。すかさず追いかけて、あと2、3度ついばんだ。 「僕の番だよ」 春市がいたずらを思いついたように言い、降谷のそれに手をじゃれつかせる。根元から先端に向けて擦りあげられるのにあわせて、みるみるうちに固くなる抗いようのない感覚に、眉根を寄せる。もともと整った目鼻立ちをしているせいか、その表情には色気がある。扱く動きはそのままに、頬を伝うシャワーの水とも汗ともわからない雫をもう片方の手でそっと拭った。濡れるためにある浴室、肌のあちこちに散る無数のうちのひとつぶを拭ったところでなにが変わるわけでもなかったが、そうしたい気分だった。 いつも聞かれては困らされている質問を、今日は反対にぶつけてみたくなる。 「いい?」 降谷は、は、と大きな荒い息をつくと、春市の背に置いた手に力を込めて引き寄せた。首すじに頭を預け、こくりと頷く。言葉よりもずっと鮮明な答えに、あたたかな感情が広がる。取り繕うことのできない不器用な降谷はいつだって素直で、春市はよいとも悪いともとれるそんな側面にまで惹かれるのだった。おなじように、降谷の肩に凭れる。 じわりじわりと果てが近づくのと同時に、春市の中に入りたいという焦れる思いが高まって、降谷の手は彷徨う。背骨をなぞり、やがて尾骨に辿りつく。どこまで許されているのか、すこし戸惑う。春市は、とくに嫌がる様子もなく大人しくしている。そのまま指を滑らせて、降谷を受け入れるそこに触れた。ボディソープのぬめりを借りて指先を埋めてみるものの、そういう行為のために作られているローションのようにはいかない。 未練たっぷりに、浅いところをぐずぐずと弄る。 「んん……」 むずがる声が耳元で聞こえる。降谷のものをきゅ、と一度握り、鼓膜を掠めるがやっとなほどの、ことさらに落とした音量で囁いた。 「降谷くん、も……、もっと……」 「!」 「どうしたの」 「ふだんあんまりそういうこと言わないから」 「だって……っ」 ふだんは、欲するがままに求め、求められるがままに与える。出し惜しむことは性に合わない。しかし今日に限って、傷つけないよう気を遣うあまりに焦らしているも同然のことをしていたのだと、訴えられてはじめて気づいた。 「痛かったら言って」 抜き差しをくり返しながら、ゆっくりと奥に進める。どんなに情に駆られてもじゅうぶんに濡れることのない器官の粘膜は、それでも熱く柔らかい。狭く押し入るようだったのが、慎重に慣らしてうちに少しずつ変化していく。いつもの箇所まで行き着いた指をぐいと曲げれば、とうとう春市は首に両腕を回してしがみついた。 「はぁ、あぁ……っ」 堪えていたのもむなしくあがってしまったつややかな声は案の定、ただよう湯気に乗せられて遠くにまで運ばれる。だから嫌だったのに。自分から望んだことにも関わらず、泣きそうになりながら降谷の背に軽く爪を立てた。ちくりとするちいさな痛みを甘受して、降谷は春市の震える背をあやすように撫でる。まるで逆の扱いを受けるふたつの背に理不尽さを自覚した春市が、ばつが悪そうにごめんねと呟いた。 洗い立ての湿った髪に、鼻先をうずめる。 「なんでそんなに嫌がるかな。僕しかいないんだからべつにいいじゃん」 「でも、」 「聞きたい」 埋め込んだままだった指でかき回す。完全に納得したわけでもないのに、催眠術にかけられたかのように警戒が解けるのを、春市は他人事のあやふやさで感じた。降谷の存在に、ぼんやりと浮かされる。 「あ、あ……っ、ん」 「春市……」 「ここも、感じる?」 「んっ、降谷くん、もういい……っ」 もういい。拒否にもなりえるそのフレーズは、正反対の意味を含んでいた。汲んだ降谷が指を引き抜く。くっついていた身体をいったん離しておたがいしか映っていない目を覗けば、おなじものを求めていることがはっきりとする。 (したい……) (ここでするのかな) (でも、床固いし、ここでしたら春市かわいそうかも) (しばらくはお風呂入るたんびに思い出すんだろうな。それはいやだなぁ) (あ、てゆうかゴムとかなんにもない……) 数秒のあいだに、思考がすばやく行ったり来たりする。 「「あのさ……」」 意を決して切り出したタイミングがぴったりと合ってしまって、狼狽する。 「降谷くんから言っていいよ」 「いや、春市から……」 「そう?」 「うん」 「あのさ、……あの、や、やっぱりベッドでちゃんとしよ……っ」 お互いしたいと思っていたことは明瞭だったが、口で確認してはいない。それを改めて言葉にして、赤くなって俯いたおでこに口づけを落とす。 「僕もそう言おうと思ってた。なんかくらくらしてきたし……」 「えっ、それってのぼせてるんじゃない?」 「ぐるぐる回る……」 「なんで黙ってたの!はやくあがんなきゃっ」 湯船にすら浸かっていないというのに、蒸気の籠った空間にしばらくいただけでこれだ。あつさに弱いのは、昔から変わらない。ばたばたと立ち上がった春市が、シャワーを捻る。 「そういえば、降谷くんまだ洗ってなかったね」 「いいよ。した後どうせ洗わなきゃいけなくなるから」 しれっとそう答える降谷に思わず肩をぶつける。その些細な衝撃に身体がふわりと傾くのを、慌てて腕を引っ張って繋ぎ止める。 「よくそんなんで、するとか言えるね……。まずは水飲んだほうがいいんじゃない?」 「したい」 「そんなに焦らなくたっていいよ。僕だって……、その気なんだからさっ」 これ以上構っていても、恥ずかしい思いを重ねるだけだ。勢いよく浴室のドアを開けばまっさらな空気が肺を満たして、今まで吸っていたそれのあまさを思い知らされた。 キッチンの冷蔵庫の前で、ミネラルウォーターをぐいぐいと飲む降谷の喉が上下するのを、春市は横から眺める。毎日くり返される基本的な動作はどういうわけか、生きているという言葉を思い起こさせた。なんかこういうシーンCMでありそうだなぁ。そんなことを考え、ちいさく肩を揺らす。それに気づいた降谷が500mlのペットボトルから口を離して、春市のほうを向く。 「?」 「なんでもないよ」 「春市もいる?もうあんまり残ってないけど……」 「うん。これだけあればじゅうぶん」 4分の1ほど残ったボトルを受け取った。傾ければ、冷たい水がまっすぐに落ちていく。そしてそれは身体全体に広がって染みこんで、舞いあがっていた体温をひとつ、さげる。 「…………」 ところが上から注がれる熱っぽい視線が、それを阻む。 玄関から直行したせいで、風呂に入るときにはいつも部屋から持ってくる着替えがなかった。もともと身につけていた服は、雨にひたっていて着られる状態ではない。腰にバスタオルを巻きつけながら、服を着てもすぐに脱ぐことになるのだからいいか、とあっさりと妥協してしまったことに内心照れていたのだが、そのときがほんとうに「すぐ」訪れようとしている。 「ベッド行こう」 「のぼせてたんじゃないの?」 「もうだいじょうぶだから」 「うん」 「早く……」 本来のどろどろしたイメージはどこへやら、せっついてばかりいる降谷の揺るぎない執着が、かわいい。ほこほこして、地面に足がついている感覚が薄れるのを、まだあとひとくち残っているペットボトルの飲み口を見つめることに集中してごまかしていると、待ちかねた腕が回ってきてほんとうに地面から剥がそうと試みる。浴室まで連れていかれた記憶が蘇って、振りほどく。 「じ、自分で歩けるっ」 ひとくちの水を諦め、シンクに転がす。降谷の手を掴んで、寝室へ急ぐ春市の後ろ姿を、降谷は夢心地で追った。 眠るには早すぎる時間に飛びこんだふたりを、シーツは柔らかく受け止める。さっそくタオルを奪われて、春市の視線は揺らぎやがて天井の角に留まった。まるでまな板の鯉のようだ。でも、追いつめられる鯉は期待に心臓を高鳴らせたりはしない。サイドテーブルの引き出しからごそごそと、ローションやコンドームを取り出しているのだろう音が聞こえる。 「平気、」 「だめだよ。指1本じゃやっぱりまだ準備できてない……」 春市の身体のことなら自分のほうがよく知っていると言わんばかりの態度の降谷を睨みつけようとしたが、叶わなかった。膝の裏を押さえつけて、滑りのよい指がふたたび侵入を果たしたからだ。直前の台詞から、今度は2本なのだと想像がつく。影をひそめていた快感をいとも簡単に引き戻されて、踵が跳ねる。 「んぅ、はぁ……っ、あっ」 耳をくすぐる声に、さきほどあまえるように囁いた「聞きたい」の効果が持続していることを知って、降谷は浮かれた。春市の中心が熱を取り戻す様子を見て、自分のものもまた熱くなっていくのを自覚しつつ、訊ねる。 「ねえ」 「……ん?」 「どういう風に感じるの、僕の指……」 「……い」 「え?」 「そういう質問、うざい……っ」 「…………(がーーん)」 唖然としている降谷の腕に、春市の手が縋る。 「も……、早くきてよ」 「う、うん」 とうとうひとつになる。ぜんぶを収めたとたんに褪せない感動が押し寄せて、流されないために春市の肩を抱き込んだのに、等しい力で抱き返してくるせいでそれは勢いを増すばかりだった。ふたりならどこに流されてもいいか、と思い直す。 「あったかい」 「うん、あったかいね」 ひとつの温度をわかちあっている事実だけではなく、そうしたい動機が共通している、肉眼では見えず単位をつけて推量することもできない軌跡のような事実を確認するための会話だった。春市の返事に、相変わらずあっさりしている表情の目の端にふと、涙の粒が滲んだ。なんていじらしいんだろう。自分よりもぜんぜん背の高い健やかな男にそんなことを思う日が来るとは。春市がそれを口づけで拭えば、泣いているなど知りもしない降谷は切れ長の目を見開いた。 降谷が動くたびに、ふたりは心地よい波に攫われる。動きにあわせて無意識に腰を揺らした春市の髪を、くしゃりと撫でた。 「はぁっ、降谷くん……っ」 「……いきそう?」 「うん……、んっ」 くちびるを塞がれる。いっそう強く突かれて、息もできない。 「ん、んーー」 「……っ」 目の奥がちかちかして、そしてともに果てた。 「はぁ……はぁ……」 「……春市……」 「なに」 「呼んだだけ……」 「ふふ」 果てた後もしばらく繋がっていた。呼吸を整えながら、親指で目元や頬に触れてくるのがくすぐったくて、照れ笑いする。なんでこんなことになったんだっけ。蕩けた脳みその記憶をいくら手繰っても、答えはでてこない。 雨はいつしか止んでいた。 おわり あのシチュエーションまで持って行ったんだし、せっかくですからね。完全版できました。2012.10.28 main . |